コヌカーメ

雨の日が続くと太陽の頬笑みが恋しくなるのに、太陽があんまりにも陽気に笑い続けると、今度は雨雲に、どうかさめざめと泣いてあなたの涙をたっぷり恵んでください、なんて言いたくなっちゃうのはなぜでしょう?

もうずっとずっと前に梅雨の明けたふたごの村のうえには、おてんとうさまがお代官よろしくどっかりと腰を落ち着け、毎日毎日上機嫌、ワッハワッハと大笑い。お代官様のまぶしい笑顔からは、むんとした熱気がぷんぷんっと伝わってきます。きっと朝っぱらからお酒をがぶがぶ飲んでるにきまってます。大酒呑みのその真っ赤な得意顔にすっかり恥ずかしくなって、頬を深紅に染めたトマトを収穫しながら、サトはクスクス笑いました。

雨を背負って村をあとにした彼が、このお代官様の笑う様子をみたら、きっと甲高くて底抜けに明るい熱情ソナタを弾き始めるだろう、いや、もしかして我らのお代官があまりに気前よく笑うから、彼の弦も勢いづくあまり、それは彼の楽器の枠をとびこえて、最初から最後までコミカルで楽天的な一本調子のオペラかオペレッタになるかもしれない。―いえいえ、それはとんだ思い違い。だって彼は形式ばった音楽というものからすっかり自由な芸術家ですもの。ピンと張った弦の上、そこを弓がちょっとかすめさえすれば、彼の楽器が彼の心をそのままに歌い始めるのに、特定の型なんて必要ないのだから!

灼熱の太陽を仰ぎ見ながら、サトは彼と過ごした最後の日を思い出します。―きっと素敵な曲を持って帰ってくるから、そう約束した彼が、大気の中にふわりと溶け込んでしまった、あの湿っぽい初夏の夕暮れを…。


* * *


梅雨ももうすぐ明けそうな春の月の終わり。細い細い雨がしっとりと垂れ、小高い山の山頂をすっぽりと包みこんでいました。ひんやりと冷たい自然のカーテンは、肌に触れても感じないほど繊細で柔らかく、そのくせうっとうしいぐらいに体にまといつきます。絹のようなしずくは地面をぬらすにはあまりにか細すぎ、草や木を元気づけるにはあまりにか弱すぎました。いつもは山頂で楽しくさえずる鳥たちも、湿った空気の中では良い声が出せぬといわんばかりにだんまりを決め込み、温かく乾いた空の下で乱舞するのが大好きなちょうちょたちは、こんな雨の中で踊れという方が間違っている、といわんばかりにつむじを曲げてしまっています。喉を潤したくともどうやらそれがかないそうにないもどかしさに黙り込んでしまった木々たちは、不透明な雨のなかで亡霊のように浮かび上がり、季節の変わり目に別れ惜しみするかのように垂れ込める悲しみと寂寥感の雨だけが、山頂をやんわりと支配していました。

―そんな冷たいしずくのなかで、彼は普段通り傘もささず、そのかわりに腕に大切そうにヴァイオリンケースを抱え、大儀そうに木や草の息遣いに耳を傾けていました。

「こんにちは、ミハイル、相変わらずね」
「やあ、こんにちは、サト。今日は声のトーンが低いね、疲れてるのかい?」
静まり返った雨の山頂に、彼の澄んだテノール声が歌うように響きます。
「あら、答えは天気が知ってるわ。こんな霧雨のなかにいたんじゃあ誰だって、眉といっしょに声をひそめるはずよ」
言いながらサトが眉間にしわを寄せると、若きヴァイオリニストは肩をすくめて苦笑しました。

長躯痩身の華奢な体つき。しゃんと伸びた背筋は、長いこと楽器を抱く姿勢に慣れきって心持ち後ろに反りかえり、それを直そうと彼は肩をすくめ、そこに猫が飛び乗ったかのように背を丸めて前かがみになります。そうするたび、厚くもなく薄くもない彼のベージュのロングコートの裾が、ひらりと小さくはためきます。コートの下に着込んだ縦じまの橙のシャツには襟がなく、狭いヴイの字に首元が開き、痩せこけた、些か疲れたような肋骨がくっきりと浮き出ています。そしてはだけた襟元の上に突き出した細い首の上には、色白の、細面の小さな顔がちょんと乗っかっていました。 小顔にしては秀でた広いおでこ、演奏の邪魔にならないよう、そこをつたうようにかきあげられた柔らかな銀髪は、福耳とも呼ぶべき大きな耳に沿って、うなじのあたりできれいに短く切りそろえられ、長く緩やかな鼻梁の付け根にやんわりとかぶせられた長細い黒縁の薄眼鏡は、自然と律儀で理知的な印象を与え、眼鏡に隠れたえも言われぬ二重瞼の美しい線の下で彼の細い両の瞳は、常に混じりけのない鋭い白銀の輝きを帯びていました。

なるほど、その貴公子然とした端正な目鼻立ちから、彼の芸術家としての気質がひしひしと伝わってきます。細い顎の線と左肩の骨は固いヴァイオリンの底を支えるのにはあまりに脆弱で貧相で、こすれてほんのり赤く傷ついていましたが、それは同時に、彼がどれだけ己の身を粉にして演奏に興じ、どれほどまで楽器と一体になるのに心血、魂注いでいるかを、切々と物語っていました。

背伸びをして容姿端麗な芸術家に傘をさしてあげると、サトは毒づきます。
―天からの恵みの雨。牧場主にとってはうれしいはずのものなんだけれど、こうも曖昧で優柔不断な降り方をされると本当に困る。第一、これでは傘をさすべきかどうかさえ決めかねるじゃない。どうせ降るなら、もっともっと気前よく、ザァザァザァと降ってほしいのに!

「…まさしく、印象派の雨だ―そう印象派の雨!」
深く感嘆の気持ちを込めて音楽家は同じことを二度繰り返し、そしてヴァイオリンケースを降ろしました。
「牧場主を滅入らせるこの雨も、芸術家を満足させるには充分すぎるほどだ。さて、これで、もし君がオレの新曲を聴く気があるって言ってくれたら最高なんだけれど」
言いながらミハイルはもう、泉の近くの大きな木の下を指さしていました。

「印象派の雨?」
木の下に腰をおろし、サトはミハイルに尋ねます。
「つまりね」
ヴァイオリンをとりだし、テキパキと調弦を済ませるとミハイルは言葉を続ける代わりに柔らかく曖昧模糊とした旋律を紡ぎ始めました。


霧雨! たった霧雨という一言にこれだけたくさんの意味が込められているなんて! 霧雨から喚起されるありとあらゆるイメージがそのままに、音色と響きの綾を縫って浮かび上がります。するとたちまち、そのメロディは「霧雨」はおろか「雨」さえもを意味することを止めて、楽器の中で、共鳴板の周りで、そして奏者の指の先で巧みに戯れ、絡み合い、独特の香りを漂わせながら、それそのものの美しさとなってふわりと2人の間に現れます。

まるで、楽器の中に閉じ込められることが、奏者の指につかまれることが、いやでいやでしょうがなくて、そこから軽やかに身をかわし、弾き手も聴き手も嘲笑うかのように無邪気に、はしゃぎまわる子どものように、純真で、無垢で、そしてつかむことのできないメロディ! 理解しているはずなのに覚えられなくて、とらえたと思ったとたんにもう別のところから笑い声を響かせて。―推して測ることのできないその音楽。どんな規律や法則からも自由なのに、なにひとつ間違っていない不思議なメロディ…。


わかったろう? ミハイルはサトにうなずきかけると、これが印象派の雨なんだ、ああ、そうだろうとも、そんな具合に目を細めて清純な頬笑みを浮かべました。そしてふと演奏する手を休め、鉛色の空の一点を見つめたかと思うと、楽器を構えなおして、そして先とは全く違う独特の旋律を奏で始めました。

絶え間なく降り注ぐアルペジョはまるで心地の良い驟雨のよう。森じゅうの木々や石ころが突然の雨に打たれてザワザワ、ピチャピチャ、驚きのあまり嬉しそうな美しい声で喜んでいます。雨は一層勢いを増して、吹き抜ける風は背の高い草をからかうように旋回して。草の陰でじっと息をひそめる動物たちや、さっきからこの雨が降り出したのを窓の奥から見守っている人間たちは、快活に荒れ狂う自然を前にすっかり怖気づいて外へ踏み出すことをためらっているよう。 すると不意に雲が途切れて、透き通った金色の光が顔をのぞかせます。いまや驟雨はぶたれた子どものようにシトシト、しんみり。すっかりおとなしくなった霧雨のモティーフはどことなくさきの「印象派の雨」を思わせて。 絹のように柔らかく垂れ落ちる細い雨の中に幻影のようにぼんやりと雨と太陽の申し子がうかびあがります。よくよく耳をすませると、それは七色のヴェールをまとった妖精たち。妖精は動物や人々に笑いかけ、生きとし生けるものを森へといざないます―いらっしゃいよ、もう雨はやみそうよ、もじもじしてたらお日さまが、おせっかいなぐらいに笑い始めるわ、さあさあ、はやく! 涼しくて穏やかなコヌカーメの妖精たちと、みんなで一緒に踊りましょう―

しっとりとしてさわやかな旋律がうっすらと三拍子のリズムをともなって森の奥へと消えてゆきます。そうしてぼんやりと、森を覆っていたヴェールの最後のしずくも見えなくなるころ、ミハイルは優しく弓をおろしました。
「新しい曲ができた。今日のこの午後の思い出に、オレはこれを≪コヌカーメ≫と名づけようと思う。…どうかな?」
「ううん」
果たして今の曲には譜面があるのかしら? そして彼はその譜面どおりに演奏したのかしら? そうサトは思いながら、いやそれはきっと愚問だろうと思って口にはせず、ミハイルに好意的な相槌を打ちました。
「君が気に入ってくれたらオレはもうなにも望まないよ」

にっこり微笑んでミハイルは持っていたタオルでヴァイオリンを丁寧にぬぐいます。こんな雨の中で弾いちゃって、傷まないのかしら、そんなことを少し前―今日よりずっとずっと気前よく降る雨のなかでサトはミハイルに聞いたことがあります。いやむしろ、と彼は笑います。雨を受けたらヴァイオリンもまた晴れの日とは別の感情を歌ってくれるんじゃないか、むしろ、雨の中の方がより複雑な、悦びとか、悲しみとか、淋しさ、苦しみを歌ってくれるんじゃないかって思うよ、それに。傷んでどうっていうのさ? 人間だって風邪をひくことがある。喋るたびに喉が痒くて、咳がゲホゲホでるときもある。だけど、それはいつしか治るものだし、重い熱や、悩ましい咳も、その人のメロディじゃないか。もちろん先生から譲ってもらった大切なヴァイオリン、日々のメンテナンスは怠らないよ、だけどオレは、オレのヴァイオリンが熱にうかされたらどんな苦しみの歌を唄うだろう、咳こみながら一体なにを訴えてくるんだろう、そんなことまで聴きとろうと思ってしまう。それに病に苦しむ彼女を看病するのはオレの責任感からくるほろ苦い快楽なんだ。

ミハイルは腰を上げ、山の頂上から遠く、西の空を見やります。サトも彼にならいます。土と、草と、雨とが入り混じった清楚で芳しい香りが大気に満ちています。若々しい緑の葉という葉が、きらきら光る宝石色のしずくを受け、すっくと天に向かって生きる喜びを謳歌しています。遠く、山の麓から、教会の鐘の音がこずえを徹って耳に安らかに響きます。

それよりさらに、ずっと、ずっと遠くの暗い雲の下で、太陽がひとりぼっちでゆっくりと沈んでゆくのが見えます。傘をさすのも忘れてサトは、ミハイルにならって耳を澄まします―なにもかもすっかり忘れて、自然の中に憩えよ。淡いオレンジ色に染まった雲の下から、そんな、説得力のある声が聴こえてきたような気がして…。すっかり無私無欲となって、心楽しく恍惚とした気持ちで、2人は一日の光の最後の一条を見守ります。都会の喧騒から切り離された片田舎の小高い山の上。左右の麓に素朴なふたごの村を抱えた偉大なる大地の頂き。人工的な芸術上の議論からほど遠く、型にはめられせせこましくされた音楽からも切り離された、自然の高み。雨のしずくも、草も葉も、もはや消えてしまいそうなか弱い光までもが、総体の美しさをもって2人の前に現れ、2人の耳に響きます。

―音楽について語られるのをまったく聞かないときほど、オレと、オレのこの可愛い女の子が音楽を愛するときはないんだ。

「そういえば、ミハイルの国ではヴァイオリンは『女の子』なんだよね」
突然思い出してサトが笑うと、ミハイルもぽっと赤面して、ああ、とうなずきます。
「名詞に性別があるなんておかしな話だろ? だけどこんなにも美しい声で唄ってくれる歌姫はオレの知る限りではこのヴァイオリン―」
勢いそこまで言って彼はもぐもぐと言葉を詰まらせます。―さっきからずっと降り続いている細い細い小糠雨。この湿り気の中にオレの音が溶け込んで、雨上がりの独特な香りと混じって夕暮れの大気に吸い込まれてしまえばいいのに!

「…このヴァイオリンと、サト、君しかいないよ」

2011年牧場物語15周年記念Webアンソロ「夏の感謝祭」さまに捧げた作品です。ふたごの村から芸術家ミハイルさんのお話です。「印象派の雨」こと「粉糠雨」をミハイルさんに広めてもらいたく。ミハイルはロシア系の名前ですが楽曲名が《コヌカーメ》となにゆえイタリア風…;(滝汗)
ミハイルのテノール声は歌手のペーター・シュライアーのそれを想定です←


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