あこがれ

それは寒い寒い冬のある日。畑仕事をひととおり終えたユーリはかじかむ指に息をかけかけ、新しく大根の種を買おうとゴンベじぃの種屋さんを訪ねました。童心丸出しではしゃぐゴンベに、家庭的で心優しい、じぃの孫娘のナナ。このはな村一仲睦まじい家族が醸すほのぼのとした種屋さんの空気は、ブルーベルから越してきたばかりのユーリがそれまで感じたことのない不思議なノスタルジーを彷彿とさせ、畑仕事で疲れたユーリの体を、ふたつの村の「仲介人」として常に張り詰めているユーリの心を、ほわわんと労わり癒してくれます。無邪気なゴンベじぃのおかげか、無垢なナナのおかげか…ゴンベじぃの種屋は、ユーリが地球上どこをさがしても見つけることのきっとできない、唯一無二のゆったりと落ち着ける不思議な空間でさえありました。

―それに仕事中じゃ! といいながらなんだかんだ暇をもてあましているじぃはユーリを実の孫のように可愛がってくれて、ビー玉だとかメンコだとか、ユーリの知らない素朴な遊びをたくさん教えてくれましたし、ユーリはもうその歳じゃないのよ、そう祖父をたしなめるナナも結局はにこにこ笑いながら、ユーリの前で一枚の赤い紙を手の中でくしゃくしゃと折って一羽のきれいなツルに変身させてはユーリを驚かせるのでした。

銀色に輝く畑の雪を踏みしめ家の引き戸を開けたユーリは一瞬目を疑いました。いつもは囲炉裏の火を気にしながらお勝手でお昼ご飯の仕込みをしているナナに、奥の土間のカウンターで種を売るゴンベじぃの姿が見えるはずなのに…そうです、どうも今日はいつもと勝手が違うよう。いつもはそこにいるはずのナナの姿はなくて、囲炉裏のまわりをせわしなくぐるぐるまわっているのはゴンベじぃ。じぃはそのピンとのばされた口髭の下でもぐもぐとなにかを呟いているようでした。

「こんにちは、ゴンベじぃさん。大根の種、また少しいただけますか?」
「ユーリちゃーん…!」黒くて丸い小さな目をしょぼしょぼさせながらゴンベはいつになく悲嘆的な調子。「ナナがのぉ、ナナがのぉ…!」
きっとハンコウキなんじゃ! 猫が悲しい時ゴロゴロと喉を鳴らすようなだみ声でゴンベじぃは言って勢いよくユーリの体をしわだらけの両手でつかみました。
「ちょ、ちょっと待って…! いったい何事ですか?!」


ゴンベじぃの話によると、朝早いうちからナナが無断で買い物に行き、帰ってくるなり「おじいちゃん、お勝手のぞいちゃイヤよ」と言って囲炉裏とお勝手の間に屏風まで立てて、もう何時間も、そこにこもって出てこないというのです。ナナが前に折った赤いツルをいじりながらゴンベじぃは小さく鼻をすすります。

「きっとナナはわしがのぞいたら、一羽の赤いツルになってここを去ってしまうんじゃ…」
このじぃの言葉があまりにもいじらしくって子供っぽくて、…ユーリはすんでのところで吹き出してしまうところでした。
「じゃあ、僕が代りにのぞいてあげますよ」
もちろん僕がのぞいたからってナナがゴンベの言うみたくツルになっちゃうわけないし、もちろん彼女がなにを考えているのか僕にもよくわからない、でも料理にかけてはソナさんに負けず劣らずのナナが何時間も台所にこもるなんておかしい…まさか料理中に彼女の身に万一のことがあったら! そっと屏風越しにナナの様子をうかがい、ユーリはあっと息を詰まらせました。しっかり者のナナが、悲しみや苦痛のあまりくずおれる姿一つ見せたことのない気丈なナナが、地べたに力なくうずくまり小刻みに体をふるっているのです。彼女はよほど動揺しているのか、ユーリがもう自分の真後ろまで歩み寄ってきていることにすら気がつかないようでした。


ナナさん、そっと彼女に声をかけようとしてユーリはふと目をそらします。コンロの上には無残に焦げ付いたナベがひとつ。―なにをつくろうとしてこんなことになってしまったのだろう。ナナがいつも作ってくれるおいしい野菜の煮っころ―それを彼女は「けんちゃん」と呼んでいました―を思い浮かべながらユーリは首をかしげます。ゴンベじぃに内緒で新しい料理でも作ろうと思ったのかな、それならじぃのいう「ハンコウキ」もあながち間違ってなさそうだし…そう思いながらはっとします。まな板のうえにおかれたカラのカカオ缶。そのわきには料理上手のナナがもうとっくの昔に卒業した計量カップ、そのなかにはミルクの白い水滴がついています。

―ま、まさか…!

「ナナさん…ナナさん!」
「ユーリさん…? ああ、いつの間に…私、私…」
前にユーリさんが、ブルーベルには「感謝祭」という文化があって、その日には女の子が男の子にチョコレエトのお菓子を作るんだよ、そう教えてくれて…。

彼女の口から「チョコレエト」のたどたどしい響きがこぼれてユーリの胸に刺さります。とめどもなく涙を流しながら悲しむナナにそっと胸をかしてあげ、ユーリはうなだれます。今日は…そうだ、冬の14日。向こうでは感謝祭の日だ、それでナナは僕に作り慣れない洋菓子を作ろうとして…。


魚たちにとって 水の中の暮らしは
いよいよ 退屈になってきた
『何ということだ』彼らは言った:
『水の外では何もかもが緑で美しいし
太陽も暖かい
だいいち僕らは水の中では
何も見えないではないか!』
魚たちは団結して言った:
『池の水をすべて飲み干そう』
そして池の水を飲み始め 飲み続け
そして池の水は どんどん減っていった
ついに干上がった 池の底に身を横たえ
太陽が彼らの上に 輝くと
彼らの歓喜は 絶頂に達した
しかし その歓喜も長くは続かなかった
彼らは刻一刻と 生気を失い 衰弱していく
もはや 力を得るために 飲む水がなかったのだ
そして彼らは 悲惨な死を迎えることになった

昔、どこかで読んだことのある詩がそっと頭をよぎります。となり村の文化に、太陽に、緑に、あこがれるあまり身の程をわきまえずに悲惨な状況に立たされたナナ…でも彼女のどこが愚かだろう? 確かに、魚は水の外では生きられない、このはな村で生まれ育ったナナがこれまで作ったこともないチョコレートケーキを作ろうとしてもうまくいくはずがない、そんなのはたからみればわかりきったことに違いない、でも。


「ありがとう、ナナさん。僕、すごく嬉しいよ!」
「ユーリさん…」
涙目でユーリを見上げながらナナの口元があどけなくゆがみます。
「ナナさんのその気持ちだけで、僕の胃袋はもう破裂しそうだ!」
「まあユーリさんったら!」
ユーリのジョークにとうとうナナは目に涙を浮かべたまま笑い声を立てます。そんな彼女をそっと立たせてあげてユーリもにっこり笑います。

―でもいまの自分の置かれている状況に甘んじて外の世界に飛び出す勇気を持とうとすらしないほうがよっぽど愚かだ、そうじゃないか?―

ナナがさっき言った「チョコレエト」が胸に突き刺さったのもきっと、それがたどたどしくて滑稽に聞こえたからではなくて、その奥に慣れない世界に挑もうとする彼女の固い決心と心意気がこもっていたからだろう。ナナの手本を自分の胸に深く深く刻み込みながら、ユーリはもうすっかり泣きやんだ彼女を支えてゴンベの待つ囲炉裏に向かいます。

焦げ臭さの漂う台所、でもそこにはカカオの甘くておいしそうな香りがまだうっすらと残っているのでした。

牧場物語ふたご村、このはな村から冬の感謝祭のお話、といいましてもこのはな村には感謝祭の文化はありませんからそれを敢えて逆手にとりまして、ブルーベルから越して来たユーリに感謝祭の話を聞いて面白く思ったナナがチョコレートのお菓子を作る話。ナナさんは少女時代大胆なところもあったようで、新しいことに果敢に挑戦していく度胸と好奇心にあふれていそうです♪
作中の魚の詩は、ロベルト・シューマン作、「子供のための詩」の一部です。しかし最近の「魚」は外の世界が当たり前になってしまって本来の水の世界を忘れているのではないか?なんて解釈もまことしやかにささやかれていたり…。


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