ギャップ

「どうせ…どうせ、パパに私の気持ちなんてわかりっこないんだから!」

ブドウの木の剪定をしていたカイは、彼女の叫び声にふと手を止めうつむく。近頃のカレン嬢の口癖といったらこればっかり、いつも彼女の肩を持ち続けてきた自分だけれど、そろそろそれが限界に近いことを感じ取っていた。親に分からぬ子の心が、下働きの自分に分かるとでも言うのか…それにこのまま彼女の弁護をし続けたら、いつしか愛想を尽かされこの幸福な家から追い出されてしまうかもしれない。重苦しい心境で顔をあげ、カイは自分の目を疑った。近くのブドウの木に半ば発狂したカレンがよじ登っているのである。あわてて鋏を放り、「お嬢さん、おやめください!」と声を荒げ地面を蹴る。しかしもう間に合わなかった。

「私に構わないでッ」

カレンのリンとした声が響いた瞬間…、ゆわんでいたブドウの枝がぽっきり折れて、彼女は悲鳴とともに地面に叩きつけられた。

「お嬢さん、大丈夫スか? 怪我、ないスか?」
痛がるカレンをそっと抱き起こす。たくましい青年の腕の中で、彼女は細い息を吐きながら苦しんでいる。普段は見せないカレンお嬢さんの苦渋の表情、腰をひどく傷め歩けないらしい。彼女をそっと抱きあげ、カイは母屋に急いだ、早く医者を呼んで診てもらわなくては! 大きな怪我をしてないといいのだけれど…。

カレンの父、ゴッツはいつも以上に虫の居所が悪いといった表情だった。昼間だというのにすっかり酔いがまわり、カレンを連れてきたカイに雷のような声で「仕事サボんじゃねェぞ」と怒鳴り散らす。カイがしどろもどろ、カレンが怪我をしたことを伝えると、今度は「なんでオレの娘を監視してなかっただァ」とくる。下働きの青年は震えながらもキリっとした目つきで主人を見上げた。
「申し訳ないです、すべて自分の過ちです。しかし今はそれよりお医者様をお呼びしなくてはなりません、仕事の手を休めるのをお許しください」

カレンをサーシャに任せるとカイは折れたブドウの木のところに戻った。今日のゴッツにこれが見つかったら、もう自分はこの家から追い出されるに決まっている、そう思いながらカイは溜息を吐いた。

―都会に行ってダンサーになる―

初めて会ったときから彼女は熱っぽく言っていた。母親に似て、彼女はスタイルもいいし顔立ちも大人びている。確かにこの小さな町では満足に踊りの手ほどきをうけることはできないが、都会に出て学歴のある先生に指導してもらえれば、容姿端麗なダンサーとしてデビューできる。しかし、カレンの父は娘に何としてでも家業のブドウ園を継がせようと躍起になっていた。娘の新しい可能性より、一家の存続のほうが大切、ゴッツは、典型的な保守的人間だったのだ。

だが家業を発展させるには先祖のやってきたことを繰り返すだけではダメなのだ。伝統を受け継ぎつつ新しいことに手を出していかない限り、このブドウ園はあっという間に腐ってしまう。ちょうどこのブドウの木のように、予期せぬ不運に取りつかれ、あっという間にまっぷたつに折れ曲がってしまう。唇を噛み、カイは踵を返す。そして剪定用の鋏を拾い上げ、半ばきれいに切りそろえられたブドウの木を見上げた。
「自分はカレンさんの思うようにさせてあげるのが一番だと思うんス」独りごとを呟きながら彼は鋏を持った手をだらりと下げる。「自分は出る杭は打ちたくないんスよ、その人の得意分野を思いっきりのばしてやりたいんス」

ほかの枝より一段と伸びてしまったブドウの枝先をちょきんと切り落とし、黒い肌の青年は目をつぶった。
「…でも。ブドウの木といっしょ、目立った枝は切り落とさないと、好き勝手に伸びてしまうんスよね」


カレンは幸い大事には至らなかったようだが、腰が痛いと言って歩くことはおろか、ベッドから体を起こすことさえやっとのことらしい。仕事が終わりサーシャからカレンの具合を聞いたカイは、すぐに戻りますから! と言い残し夕暮れ色に染まった裏山へ駆けて行った。庭先ではゴッツが相変わらずたわいもないことをどなり散らしている、まだ折れたブドウの木には気がついてないようだがそれも時間の問題だろう。しかし一心不乱に駆けていくカイの姿を見たとき、怒りの炎に燃えていたゴッツの目が一瞬物悲しい暗い表情をたたえた、そしてそれには一種の諦念の情さえうかがわれるのであった。


裏山でいい香りのするハーブをたくさんつんでカイは戻ってくると、息を荒げにサーシャにそれを押し付けた。

「ローズマリーです、これをきれいに洗って、煮詰めて、煮汁を冷やして、冷した煮汁にガーゼを浸すと、よく効く湿布になるんス。お嬢さんに作ってやってください、お願いなんです」
今日の自分はどうしてこうも興奮しているのだろう、早口でまくしたてながらカイは自分が自分でないような感覚にとらわれていた。

頭の中は真っ白で、なにか一点の目に見えない小さな光に導かれているような感覚、勝手に口が動いて勝手に言葉を紡ぎ出しているよう、そして気がつけば、淡白で普段から感情を表に出さないサーシャまで驚きと不安で顔をゆがめてしまっている。カイを見据える彼女の深緑の瞳は心持震えていた。
「カイ、カレンを励ましてやっておくれ」カイがしまったと黙り込むと同時にサーシャはやさしい声で始めた。「あの子の気持ちをわかってあげられるのはあんたしかいないんだから」


「あの」夜も更けたころカイはカレンの見舞いに行った。「さっきは申し訳なかったッス…自分がしっかりしてれば、お嬢さんは」
カレンはハエでも払うように頭をふってカイを睨みつけた。
「何から何まで自分のせいにする気? いい加減にしてよ、男のくせに。自分ってもんがあんたにはないわけ?」

自分は…と言いながらカイは黙り込む。

自己がないわけではない、でもお嬢さんがからむとどうしても一切の罪を自分が背負いたくなってしまう。それもいやいやではなく、彼女の過失を自分が肩代わりすることに逆に喜びを感じてしまうのだ。ああ、そうだ、カレンお嬢は自分にとって、もはや単なる雇い主の娘ではなくなった、一生涯つきそって守ってあげたい大切な存在へとなりつつあるのだ、しかし。自分はしょせん雇われの身、雇い主の娘に恋したとてそれが叶わぬものであることは重々に承知している。それなのに…、いやそれだからこそ、カイの胸の内は揺れてしまうのだ。こんなにも辛い思いをするのであれば、いっそこの恋が醒めてしまえば自分はどんなにか楽になることだろう!

「自分は、お嬢さんのためならどんな罪でも背負います。お嬢さんのためなら何から何まで自分のせいにします。それが男らしくないのであれば構わないッス。自己ってモンがなくてもそれでいいんス。それより自分は、お嬢さんをお守りできなかったことのほうが苦痛で仕方がないんです」
カレンの形相が変わった時、カイはこのまま彼女に嫌われてしまえばよいとまで思った。しかし、カレンは眉間にしわを寄せ、ふっと顔をそむけてしまった。

胸の内で渦巻いている得体の知れない物体がぐっとのど元まで湧き上がる。泣きたいのを懸命にこらえながら彼女は自分の感情と戦っていた。都会に行ってダンサーになりたいのには自分なりの理由がある、この田舎町では自分たちの果樹園を立派に繁栄させるだけの資金調達が難しいのだ、ほんの数年だけでも都会に出てお金を稼げは…。もっと良品質のブドウの苗をたくさん買える。それに酒蔵を拡張してたくさんのワインを置いておける。たくさんの美味しいワインを各地に出荷してさらに財力を蓄えて、いずれ果樹園のオーナーを引退するパパとそのパパをいつでも陰で支えてきたママがいつまでも安心して幸せで暮らせるように、この果樹園の経営を安定させたい。

―都会でダンサーになるという夢の裏には、カレンの並々ならぬ親孝行の想いが隠れているのだ。


家出ならいつでもできる、そのためのお金はずっとまえから貯金し続けてきた。とりあえず船に乗るだけのお金は十分たまっている。後のことはわからない、すべてが成り行き。成功するもしないもすべて運次第。そう覚悟は決めていたのだけれど。何かが自分を思いとどまらせるのだ、このまますべてをうやむやにしたまま出て行ったら絶対に成功しない、そう誰かがささやいているような、そんな気がするのだ。

さっと顔をあげ、カレンは純朴な青年を見つめた。そしてカイの、その生き生きとした焦げ茶色の瞳にぎくりとする。覚悟を据えた彼の眼差しは想像以上にするどく、生きる希望に満ち満ちているようだ。そうだ、この心やさしい青年があたかも目に見えないロープで自分を縛りつけるように、自分の家出を食い止めようとしているのだ。

カレンは直感した。

同時に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、羞恥心からまた顔を伏せた。どれだけカイが自分のことを想ってくれているか、長いこと一緒にいたはずなのに全く気がつかなかった。彼の優しい気持ちを自分はなんども踏みにじって我を通して来たことか! それなのにカイは文句ひとつ言わず、カレンのために罪を背負うことをこの世の栄誉のように思っているのだ。

「ブドウの枝が伸びすぎたら、チョキンと切ってやらなくちゃいけないんス。それをするたび、胸が痛むんスよ。だって。ブドウの枝の才能を、個性を切り取っているみたいで。でも、伸びすぎた枝を切り落とすと、ほかの枝が元気になるんス。自分、お嬢さんにはほかの枝になって欲しいんスよ。そのためなら自分は切り取られたって構わないんス」

カイが伝えようとしたことは、カレンにちゃんと伝わったようだった。さっと顔をあげると、涙にぬれた頬を手で擦りながらカレンは泣き叫んだ。

「私だって…私だって、パパやママが元気でいられるようにちょんぎられたいわ! こんな自我の強い枝だもん、すぐに切られるわよねぇ?! でも切って、切ってって言ってもパパは切ってくれないわ。ずっとそこにいろって、そう言いうんだもん」

カイのたくましい胸に顔をうずめ、カレンは何度も何度も「都会に行きたいの、パパやママを元気にするために、この果樹園という木から切り取られたいの」と連発する。外に聞こえますよ、そうカイは言ったがそれ以上は何も言わなかった、カレンがあえてリビングルームにまで聞こえるほどの大声で呻いている理由を、彼はちゃんと知っていたからだ。


しばらくしてカレンの部屋に落ち着きを取り戻し真剣な目つきになったゴッツが入って来た。彼の後ろではサーシャがおろおろした目で夫を見守っている。ゴッツはカイの肩をつかみ吐き捨てるように言った。

「家の大事な娘に怪我を負わせるような下男にもう用はねぇわ。それから家の大事なブドウの木をへし折るような罰あたりな野郎も家にいる資格はねぇ、とっとと出ていきやがれ」

それが父から娘に対する精一杯の愛情であることにカレンもカイも気付いていた。サーシャが目から涙を流して夫の肩を叩いている。すっかり気落ちした父親の肩は、もはや娘に対する怒りを鎮め、巣立ちを迎えた娘に一切を任せる覚悟で震えていた。

「私に怪我をさせたからには、カイ、ついてきてくれるわよね」
「ええ、お嬢さまがそういうのであれば」
いや…自分も彼女ももうこの家にいる資格を失った以上、カレンと自分は同じ身分になったも同然だ。自分に対するゴッツの最後の親切にカイは心から感謝し、カレンをそっと抱きよせると、すっかり泣き疲れてしまった彼女の端正な顔に小さく接吻した。

ある夏に大仰に落馬してしまい…思い切り腰を痛めたときに庭に生えていたローズマリーを煎じて湿布したことがありそこからこの話を思いつきましたです。そのわりに作中でローズマリーの湿布がまるで役に立ってないのはなにかがきっとあったからと信じたいです…;;


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