紅いの欲望

『あたりはだんだん暗くなっていきます。空はすっかり晴れ渡っているのにお月さまの姿はありません。漆黒の闇に瞬く星の光もか弱くて、町全体が巨大な亡霊に取り憑かれたようです。

『窓の脇に座って本を読んでいた女の子は、ふと顔を上げて窓の外を見やりました。桟の上におかれたろうそくの炎がちろりちろりとゆれます。橙の光に浮かび上がった外の世界は果てしなく暗く、すっと背筋が冷たくなるのを感じます。遠くのほうで獣が咆哮する声が聞こえます。バサバサと得体の知れぬ魔物が行きかう音も聞こえます。光を失った外の世界はいまや、不気味なまでに静まり返った静寂と、その静寂をかき乱す音の支配者の手に、すっかりとゆだねられていました』

「このような夜には」と黒髪の少女は手を休めて窓の外を見やります。「このような夜にはきっと闇にまぎれてあの人がやってくるのです」
そう彼女は書き足そうとして顔を赤らめました。
「いいえ、まだ来てはいけませんわ」

『女の子は本をひざの上に置いてため息をつきました。外の闇も、不気味な音も、彼女はまるで気にもしてないようでした。少々不恰好な黒縁めがねの下で落ち着いた輝きをたたえる彼女の黒い瞳は、その漆黒をつゆとも恐れぬ冷ややかな眼差しを落とし、ろうそくの光で亡霊のように浮かび上がる彼女の青白い頬は、自然と彼女を闇の世界の住民のようにさえ仕立て上げるのでした。

『女の子は本の間に挟んであった小さな便箋をとりだしました。闇にまぎれて届いた手紙。さびしい少女の心を唯一癒す大切な手紙。力強い楔形の文字で書かれた悪魔の手紙を読み返し、彼女はそっと目を閉じます。今宵、闇を縫ってあの人がやってくる。きっといま、窓を開けたら生暖かい風にのってあの人が部屋にとびこんでくる…』

だからまだ窓を開けてはだめよ、マリー、そう少女は思って微笑みました。闇にまぎれてあの人がやってくるから。でも…。

『窓の鍵に手をかけ彼女は俯きます。あの人がやってくるという期待と不安で気が狂ってしまいそう。彼のために門戸を開放するべきなのか、それとももう少し待つべきなのか。血塗られた真っ赤な月がぼうっと眼前に浮かび上がります。新月の夜に現れた巨大な月は彼女の高まる想いにあぶられ真っ赤に燃えあがっていました。熱い葡萄酒を胸に流し込んでもその欲望の火炎をかき消すことはできないでしょう。全身の血が沸騰します。指先が震えます。静寂を保ち続けてきた闇がゴウゴウと叫び声を上げます。白銀の千切れ雲が空を走り、赤い欲望の球体はなお大きく紅いに染まり、そして彼女がそっと窓の鍵をはずして外の空気に火照った頬を染めたとき…』

物音ひとつ立てずに歩み寄ってきた髑髏(どくろ)が、マリーの興奮しきった瞳に映りました。黒い外套に身を包み、血塗られた鎖鎌が彼の手の中で光ります。右手で鎌を抱え、そして左手には真っ赤なろうそくを持ち、死に神はマリーの前でぴったりと止まりました…。

「トリックオアトリート!」

青白い骸骨のお面の下からそのおどろおどろしい姿とは似ても似つかぬ優しい声が聞こえます。頬の一点を赤くしてマリーははにかみ、そして窓を全開にしました。
「…いらっしゃいませ、お待ちしてました」

ずんぐりした体つきのその地獄の使いはマリーに手を引かれ、窓から家の中に入ります。冷たい秋の風に、机の上のノートがパラパラとめくれます。多少息を切らしながら、しかし死に神は立派にマリーの前でお辞儀をして見せて、そして悪魔の仮面をはがしました。

細面の柔和な顔がそこにありました。慣れない変装と、初めての劇的な演出に相当どきまぎしているのか、彼の頬は真っ赤に染まり、彼の小さな黒い両目には困惑の色さえ見えます。外套のパーカーをはずして、ポストマンの帽子をかぶりなおし、ハリスはにっこり笑いました。マリーも、彼の驚くべき訪問に胸をドキドキさせながら、恥ずかしいのと嬉しいので下を向いたまま言葉を失ってしまっています。そうしてしばらくの間、二人は黙ったままお互いにお互いがしゃべりだすのをじっと待ち続けていました。

「今日は」マリーがやっと顔をあげました。「お手紙とご訪問、ありがとうございます。ずっと…ずっとお待ちしていたのです」
机の上に用意してあった手作りのかぼちゃクッキーを郵便屋さんに渡します。つと彼と手が触れると、痺れるような感覚が心臓を突きぬけます。
「これ…郵便屋さんに届けてください。村長の娘からのほんの気持ちです、と言って」
ハリスも黒髪の少女の端正な顔立ちとその優しく丁寧な物言いにすっかり陶酔しながら、彼女の手からプレゼントを受け取りました。
「ありがとう、確かに配達しておきます」


『そうして二人はそっと微笑み合って。テーブルに腰をおろし、葡萄酒にクッキーをかじります。熱く燃え上がった欲望は今やすっかり鎮静されて、穏やかな暖かい風とともに、静寂を金とするロマンチストの恋人たちの間を吹き抜けるのでした』

ハローウィン創作。マリーの書いている物語と現実が交錯するお話を書いてみたいと思いまして…。マリーとハリスのカップリングはもどかしいですが同時に奥ゆかしいです。


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