アギアドネの糸

最近どうも彼女がおかしい、ボクのテゾーロであり、ソーレであり、ビータの…ボクのシャッツで、ゾンネで、レーベン…ボクの宝、太陽、命! の牧場娘、リンダが。ついこの間まで1日計3回ボクを訪問し、3回目に帽子か鞄かなにかをわざと必ず置き忘れるのは4回目の口実をこさらえるため、そうしてボクと絵画のことやボクのアトリエにかかっている音楽のことを話して。ボクはボクの宝であり、太陽であり、命であるリンダがやってくるのが楽しみで、ボクの宝であり、太陽であり、命ですらあるリンダの話はボクの制作の何よりの励みになっていたのに。

そうして徒然なるまま時が過ぎ、気が付いてみると、ボクの宝であり、太陽であり、命は、4回きちんとやって来るにもかかわらず浮かない顔して、あからさまに「失恋したの!」と連発していた。何かを伝えたそうにするのだけど、伝える代わりに勘ぐってちょうだいと言わんばかりのだんまり比べ、何が引き金になったやらまるで見当が付かないけれど、これはどうやら破局の手ごたえ…ところがどうやらボクの宝であり、太陽であり、命は、ボクからその決定的な言葉を聞かされるまで、4回の訪問を怠る気はないらしい。

風の小娘、そうやってボクをじりじりと吹き遠ざけるつもりか! そんならボクにもシュトルツがある、この画家の誇りにかけて、リンダの風には乗ってやるものか…とボクは謂れのない意地に駆られ遠回しに、「そうか分かった、ボクは君のテセウスというわけか」と言ってみた…。


ふぅ、とアギは筆をおきます。筆先は赤く染まっています。ただいま製作中は糸を持ったアリアドネの絵。ふつう、アリアドネの糸は白で描かれるようなのですが、アギは敢えて「赤」を選びました。赤の糸を眺めながら彼は沈思黙考に耽ります―決定打は分からないにしても、彼女がここになじめない理由が思い当らないでもない。2人の意見はそもそも対立していたのです。そのことは前にリンダが、私も絵を描こうかな、なんて言い出したことで明らかになりました。


彼女がなにを描くおつもりか、ボクは意地悪にも当ててやろうと躍起になった。牧場の風景、風車、家畜たち、それとも町の人々、まさかボクの似顔絵か? …いや違った。目に見え、日常の一部になっているものをわざわざ紙面に切り取るなんて彼女が一番やりたくないことだったんだ。

ボクは彼女に言われた、ありふれた日常を写生して何になるの、そこに行けば本物があるのに! ありふれた日常はややもすれば生気を失いがちになる、ボクら芸術家の仕事は、日常にいまひとたび命の着色をすることでもあるのですよ、そうボクが言っても彼女は、当たり前の一コマになることが日常の衰微を意味するわけではなく、どれだけ当たり前の一コマになろうが日常が色褪せることは絶対にない、と引かなかった。自然相手に生きる彼女にとって、目に見え手に触れるものは常に新鮮で最高のもの、彼女は彼女の取り巻きを、わざわざ紙に描き取ることにはちっとも感動しないらしい。

彼女の言葉にボクは自然と芸術の融和を詠ったゲーテのあるソネットを思い出さずにはいられない。



自然と芸術はお互いに避けているようにみえて
あれよと互いを認め合う
私の嫌悪も消え失せて
自然も芸術も今や私には同様に魅力的にみえる



このソネットを詠う「私」とはひとりのニンフ、彼女自身「自然」とか「素朴」のアレゴリーなのだけど、彼女は始めのうちは人工的に作られた立派な神殿に住むのを嫌うんだ。するとそこにメルクールが現れ、ニンフの目に被さったヴェールを杖で取り除く、ニンフはもはや技巧的な芸術を敵と思わず、よりのびのびとした心意気のなかで芸術に歩み寄る。リンダにはニンフの気持ちがよく分かるに違いなく、それ故に彼女はボクのアトリエではくつろげないのかもしれない。

でも芸術家であるボクにも言い分はある―芸術は自然に追従するほかないが、芸術に進むべき方向を示すのもまた自然にほかならない、そのことはボク自身も、そして彼女も気が付かなくてはなるまい。しかしボクが尽くせるすべての言葉も、彼女にはメルクールの杖としての効果は持ち得ないようであった。


ふと視線を作業机に泳がせ項垂れます。そこには1本の鉛筆が横たわっていました。都会勤めのユリスがいつかお土産にときっかり12本持ってきてくれた、古新聞を再利用して作られた「古紙鉛筆」です。木の代わりに圧縮された紙を芯に巻くという発想は面白いのですが肝心の硬さが分からないのが難点、デッサンに使うべきか、デザインに使うべきか、弘法は筆を選ばすと言いますからぜひアギさんが使ってください、と若紳士は全く厭味ったらしくない爽やかな言い回しでその無用の長物を町の画家に押し付けてきたのです。


そういうことをさらりと出来るのがいわゆる「都会流」というやつなんだろう、試しに1本…とかでなく、ちゃっかり1ダース置いてゆく抜かりなさ、呆れを通り越して羨望の域! 

ああ、そして!

不器用で要領の悪いボクは、そのうちの1本をリンダにプレゼントしてしまった。ボクのデッサンにすっかり感化されたのか、彼女が、私も絵を描こうかな、でも下手の横好きだし…なんて言うから、「下手」でも「好き」ならやってごらん、好きこそものの上手なれ…なんぞよりずっと気が楽ですから、って、ちょうどそこに置いてあったこの鉛筆を、何の気なしに彼女に渡してしまったんだ! その実リンダもかなり本気だったみたいで、ボクからの思いがけない贈り物―そこに紳士の垢が付いていようとは夢にも思わず! ―に虚しくなるぐらいに純粋に反応して、アギの言葉が本当か暴いて見せる! なんて照れくさそうに決意表明して下すったから、それなら、とボクは小さなスケッチブックまで彼女に持たせてやったんだ。


その鉛筆が破局の引き金に? …絶対にそうです、ほかにどんな原因が考えられましょう? きっと彼女がその鉛筆を持っているのをユリスが目撃し、アギの犯した最大の罪が暴露されたに違いありません。あのいわゆる「A型」の烙印で塗り固められた律義で高潔な紳士が、自分がアギに渡した鉛筆をさらにアギがリンダに贈ったと知って黙っておりましょうか。彼は慄然として抗議に出るでしょう―自分のアギに対する好意をアギはしれっと踏みにじり、さらに狡猾にも自分に有利に働くよう利用した、と! こうなってしまうともう、リンダの機嫌を直すよりもユリスの理性的な怒りを鎮めるほうがよほど困難のようにさえ思われるのでした。


…しかし。ボクの恐れは真っ向から否定された。ボクの婉曲的な諦念の言葉にリンダは「違う! 私のテセウスはアギじゃ…」と二言言い捨てて、次の日からアトリエに来なくなってしまったんだ。


リンダの言葉をかみしめながらアギは頭を振ります。リンダの奇妙な迷宮に入り込んでしまったのと、その迷宮のなかでこの絵を手掛けていることは、実のところ偶然ではありません。もしもリンダがアギをテセウスと呼んだらこの糸は慣わしに従って白で塗るつもりでした。でもそうではないときたのです、どうやらリンダのテセウスはアギではないらしいのです! …考えてみれば2人はまだ求婚者にすらなっていませんでした。と、まあそこらへんのつじつまの可笑しさには耳をつぶるとして。彼女がアギに捨てられたと思っているわけではないのなら彼女の「失恋」相手は…。


すると彼女の描こうとしている絵が怪しい、そう、ボクにはおよそ見当が付く。頑なな彼女が描きたいもの、それは目に見える自然ではなく、彼女の意識のなか、すなわち彼女の内なる自然のなかで生きており、彼女の魂に木霊し響鳴するもの、彼女からもっとも遠くにあってかつ彼女と不可分であり、彼女が精神的に全霊の愛を捧げ讃美する、ある魂。彼女は賢明にかつ愚直にも、彼女の内なる自然からそれが蒸発してしまうのを恐れ、そうなる前にそれを紙面に写すことで可視化させようと考えている。そのあやふやな残像をいつでも思い出したいときに思い出せるように、と。…思い出せないのに忘れられない心象風景を鉛筆でなぞって蘇生させることと、見てないのに目の前に見えるありふれた木を筆でなぞることに、いかほどの差があるとでも彼女は思っておいでか。


…嫌な予感がアギの背筋を千メートルの直線を駆け抜ける風の皇帝のように走って行きます。

「…まさか。君がまさに紙に繋ぎ止めておきたいと思っているその魂が君のテセウスってわけかい?」


ますます頭がこんぐらがってしまう。でも有難いことにこの迷宮から脱するため、ボクのアリアドネはどうやらテセウスではないボクにも糸を渡してくれたようだ。それを手繰って、ボクはいまから牧場に行こう。ボクはどうも気になってしまう、「ボクは君のテセウスというわけか」は本当に彼女がアトリエでボクに求めていた言葉だったのだろうか、彼女はそれを公然と否定したんだ、そのくせなぜ彼女はアトリエに来なくなってしまったのだろう。もしや彼女はなにかもっと珍妙なことをたくらんでいて、ボクはまんまと彼女のつむじ風にはめられているのかもしれない。…


鉛筆をそっとポケットに忍ばせ、描き途中のタブローを布で覆います。やおら腰を上げ、疲れた脳に酸素を送ろうと大きく一つ欠伸をして、そしてさっきからずっとアトリエを駆け巡っていたかすかな音楽を止めると、再度タブローに一瞥投げかけ口の中で小さく「またあとで」と呟いて…アギはアトリエをあとにしました。


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