エスプレッソにチョコの夜

ああ恋の女神さま! もし私たち女に男たちを拒絶するようお命じになるのでしたら、どうして次から次に男たちを創造されるのでしょうか? 橋の上で踊りながらアガーテはさえずるように唄います。橋を挟んで右には北方の落ち着いた雰囲気をまとったインテリの読書好きな青年が、左の岸部には南方の情熱を背負った夢見る自由な芸術家が、月曜の朝になると現れて彼女を板ばさみにして苦しめるのです。決めかねるのも無理ありません。どちらにもそれぞれ長所があって、その長所があまりに正反対でその上あまりに魅力的すぎるのですから!

どこかで聞いたことのある話、とあるオペラ好きの未亡人が作曲家と詩人、2人の恋人どちらをとるか決めかねたそうな。なにせ音楽と詩がお互い助け合って初めてひとつのオペラが出来上がるのだから、作曲家と詩人どちらか一方をひいきすることはできないってワケ。いまの私も、その未亡人とおんなじような二者択一を迫られている。エスプレッソのように苦く渋いけれど、妄想よりも理性を働かせてはっと目を覚まさせてくれる北方の青年、チョコレートのように柔らかく甘ったるいけれど、現実を忘れ夢と幻想と神話の世界へ誘ってくれる南方の青年。2人がお互いに混ざり合ったらきっとすてきな男が出来上がるというのに、アモルの神さまは非情にも、そのすてきな男をふたつに分けて、それぞれ1人の人間にしてしまった。そうやって乙女心を攪拌して喜ぶんだから! それともよもやチョコレートをコーヒーに溶かして飲んでしまえとでも言うのかしら?!


雪の降り積もる感謝祭の夜、アガーテは仕事帰りのユリスをそっとカフェに招待しました。今日だけは私のおごりだから! とエスプレッソを注文します。「今日だけ」とはさすがアガーテさんですね、とユリスは爽やかな笑みを浮かべます。社交的で明るいアガーテはそよ風タウン一番のちゃっかり者、おまけにいつでもジョークやブラックユーモアを連発している楽天家ときていますから、利発なユリスも気をつけなくてはいつ彼女にカマをかけられるやら分かりません。

「お砂糖はいりませんか? もしかしてダイエット中ですか?」
「もうユリスったら!」
冗談好きを封じ込めるには先手を打つに限るとユリスは意地悪くアガーテをからかってみせ、そして2人はすっかり打ち溶けコーヒーカップに手をかけました。

小さなカップで夜も眠れなくなりそうなエスプレッソをすすりながら、2人の会話が弾みます。このカフェでバイトをしているユリスの弟ディルカのこと。アガーテの牧場仕事のこと、ついこの前のバザールで買った猫のドローネーのこと。そしてユリスの仕事のことも…。

若いながらも都会で家庭教師をしているユリスは典型的な仕事人間でした。ユリスにどことなく世慣れした俗っぽい雰囲気があるのもそのためでしょう。そのうえ早くに両親を亡くし、両親の代わりに弟のディルカの面倒見、兄弟2人の世帯を切り盛りしている彼。不幸な境遇が彼を年以上に大人びて見せているに違いありません。でもまだまだ彼は学び盛りの青年、もしご両親が生きていたら今頃彼は仕事のためではなく、大学で勉強するために都会へ通っていることでしょう。若干20年足らずの人生で自分の未来を犠牲にした彼の顔には、もう一生癒えることのない疲労と抗うことの出来ない運命への諦念の影が見え隠れしていました。彼は短い人生の中で、いま飲んでいるエスプレッソと同じぐらいの苦渋をこれでもかというぐらいに体験してきたのです。

―そんな生真面目でお堅い青年がふわっと微笑んだら、どんな娘っ子も気持ちが揺らいでしまうというもの。耐え忍んできた辛苦の分、ユリスの笑顔は優しく輝いて見えます。こんな素敵なお兄ちゃんを持って、ディルカはなんて幸せな弟でしょう!

そろそろ2人の話が尽きてコーヒーもなくなる頃、ミーナが口直しに一口サイズのチョコレートを持ってきました。それはアガーテの特注品。そよ風タウンの界隈ではまず目にしない特別なティラミス風味のチョコレート。
「どうぞ、ユリス。今日は感謝祭でしょ!」
「え、いいんですか?」
驚いたように頬を赤らめながらユリスは甘くとろけるようなチョコレートを口に運びます。彼はどちらかといえば甘いものは得意でないほう、でも感謝祭のチョコレートだけは違いますよ、そう照れくさそうに笑います。

それにしても! 苦い苦いエスプレッソを忘れさせてくれるようなティラミスチョコ。やんわりと噛めばそれだけで、ココアとカスタードの交じり合った夢のような甘さが口いっぱいに、そして疲れた体いっぱいに広がっていきます。ひとくちサイズなのもなるほど、たった一つで疲れ切った頭を癒すのには充分すぎるほど。ユリスがなにかを感じ取ろうとうつむいてチョコを味わっているうちにアガーテはそっと立ち上がり、立派な青年の疲れた肩に手を添えました。

「真面目で頑張り屋のユリスを私いつでも応援してる。ユリスが都会の子供たちの話、そして自慢のディルカの話をするのを聞くの、私大好きよ。…でもね、心配なのはユリスがつい頑張りすぎてこの世の中には苦い苦いエスプレッソしかないって思い込んじゃうんじゃないかってこと。もっとも世の中にはきっと、エスプレッソの苦味と奥深さを知らない人だって多いはず、それを知ってるユリスは本当に偉いと思う。でも時には自分に甘えて、チョコティラミスをかじってみるのもいいと思わない? そうしたって罰なんか当たりっこないわ、ディルカも、天国のパパやママも、ユリスにこの世の苦渋を和らげるため用意されたチョコティラミスの甘みを知って欲しいって願っているはず、それは私も一緒なの」
「酸いも甘いもかみ分ける…分かりますよ、アガーテさん」

だから今日は肩の力を抜いて、私の甘いチョコレートをたくさん味わって頂戴な、そう言いながらアガーテはそっとユリスのこわばった肩をもんであげます。

アガーテの好意にはじめは戸惑っていたユリスも次第に笑みを浮かべそして彼女の優しい手の内でうとうとと眠り始めました。

―こうして癒してあげられるのも「今日だけ」。私はこれから生まれて初めて人を諦めるという苦い経験をするの、そして明日には私は、あの芸術家の…―
人知れず流れ落ちた涙をぬぐい、アガーテは無理に笑って机を離れます。ユリスが目を覚ましたとき、アガーテからの最後のエスプレッソが机の上にひとつ置かれていました。そっと顔をあげ窓を見やり、ユリスは淋しそうに、それなのにアガーテの幸せを祈るように柔和な笑みを浮かべました。

霜の降りた窓には指で書かれた「さよなら」の書置きが、月明かりに照らされぼんやりと輝いているのでした。

バレンタイン創作にユリスと主人公ちゃんのお話を書こうと決めた夜、夢にラウテを抱えたアギが出てきまして…。「ボクをないがしろにするな!」とアルレッキーノ風にラウテを弾きながら訴えてきまして…;;結局このようなお話になりました。ドイツ的なユリスとイタリア的なアギを混ぜたらどんなハイブリッドな人ができあがるのでしょうか…!


inserted by FC2 system