ミューズのいたずら

シギュンとララミーがケーキをもらって嬉しそうに帰っていくのを見送ってリンダはふふっと頬笑みます。今日はかぼちゃ祭りの日、町の子どもたちに手作りのお菓子をプレゼントするお祭りの日です。この町をしっぽり包みこむ優しく良い薫りのする風ももちろんですが、お菓子をもらって喜ぶ子どもたちの笑顔ほど、町の人の元気の源になるものはありません。そよ風タウンの大人たちはこの日を楽しみに、こぞってお菓子を用意するのです。

子どもたちが帰ってからなお、リンダはテーブルに腰かけ玄関口をぼんやりと見つめていました。ケヴィンが来て、双子のシギュンとララミーが来て…この町にはもうかぼちゃ祭りにお菓子をせびりにくるちびっこはいないのだけれど。
「甘いものが大好きなミューズの神さまがいたずらに遊びに来てくれないかしら!」
一時間ぐらい玄関のお守をした後リンダはとうとう立ちあがり、冷蔵庫を開けました。子どもたちにあげたレアチーズケーキののこりが3切れ、牧場でとれた玉子、ミルク、そしてチーズをふんだんに使ったレアチーズケーキ。とかくかぼちゃ祭りの日にはついついお菓子を作りすぎてしまうのです。ケーキを大切に箱に詰めて、彼女は大きな羽飾りのついた帽子をかぶりなおすと牧場を後にしました。

リンダの牧場の看板には大きくて雄大なモンブランの絵が描いてあります。モンブランといってもそれはお菓子でなければ万年筆のモンブランでもなくて、フランスとイタリアの国境にあるアルプス山脈の最高峰のモンブラン。そして看板の右端に端正で華奢な字体で「シャモニー牧場」と刻まれています。これらすべて、彼がほんの半日のうちに仕上げてくれた傑作。牧場仕事やバザールのあとで心も体もすっかり疲弊しきったとき、リンダはそのモンブラン山の息遣いに、安らぎとこの上ない自然の美しさを感じ取ってしまうのでした。

軽いおすそわけのつもりなのに。折からの追い風にリンダの足は急く一方、ペルセウスの翼の生えた靴を履いたように一息に川沿いを下っていきます、そして下流で柔らかい草の上に腰をおろしてカンバスを相手に思案にふけっている芸術家の青年を認めると、リンダは魂をがっしりとわしづかみにされたような気持ちになりました。
「アギくん!」
鼻に抜けるような最高の「ギ」の鼻濁音を響かせてリンダは青年に声をかけます。そこでアギは驚いてカンバスをさっと伏せ、リンダを見上げました。
「リンダさん!」
いつになくどぎまぎした声の調子はなにか気まずい瞬間を押さえられてしまったかのよう。
「えへへ…ちょっと、絵に没頭していて…もしかしてもうずっと前からここにいましたか?」
「ううん、いま来たところ」

アギの横に座ってリンダはケーキの箱を取り出します。
「レアチーズケーキ、今日ほらかぼちゃ祭りの日でしょ? だけど作りすぎちゃって、アギくんにおすそわけ」
「わ〜、いいんですか? ありがとう!」
そんなアギもきっと、ケヴィンたちにクッキーかなにかを焼いてあげているはず、美食家で甘いものが大好きな彼の作るお菓子はあたかも魔法がかけられたようにおいしくって、リンダには到底敵いっこありません。そうと知りつつもアギにお菓子を焼いてしまうのは、彼が年に似合わぬはしゃぎようでそれを受け取ってくれるから―感情に素直なアギの喜ぶ顔を見るとリンダはすっかりこそばゆい気持ちになります。

草の上にそっと筆とパレットを置いて箱を受け取ると、アギは群青色の目を細めてケーキを食べ始めました。手持無沙汰にリンダはパレットに目を向けます。そこには晩秋を思わせる茶色や栗色、灰色、橙、そして深いこげ茶の絵の具が落としてあります。そのうちにあれ? と首をかしげます。彼は普段から鉛筆とスケッチブックだけ持って風景をスケッチしては自宅のアトリエで着色するというスタイルなのに。わざわざ絵の具を持ち出して一体何を描いていたのかしら?

「ふぅ、ごちそうさま、リンダさん! いつもホントにありがとう♪」
(って、え…もう3切れとも食べちゃったの…?!)
アギの甘い声に、今度はリンダがはっと顔を上げる番。全く痩せの大食いとはこのこと! 食いしん坊のアギの胃袋にはいつだって驚かされます。…いや、芸術家たるものひとつやふたつはミステリアスな魅力を内に秘めてなくてはそれこそ一興に欠けるというもの。

「形として残るものもいいですが、お腹に入って幸せなものはもっといいですね!」
「…アギくん」
頬を赤らめ笑顔を浮かべるアギのその言葉に、リンダは突如、物悲しい気持ちになりました。ジョークとも賞賛ともとれそうなその言葉、それなのにリンダはちっとも面白くも、嬉しくも感じないで、むくむくとふくれあがる得体のしれない切なさに目から涙をこぼし、ううん、ううんと頭を振っていました。心優しいアギは絵画の依頼を断ることはまずありません、そればかりかいつでも期待以上のパフォーマンスで応えてくれて。町長宅のフェリックス町長の肖像画は彼の自信作、そしてホテルや町の他の家にも彼の絵は飾ってあります。

シャモニー牧場の看板を描いてほしいとお願いしたときも彼は快く承諾してくれて、真顔で「お代はいりませんよ、どうしてもって言うのでしたら…そのう、パンくずをひとつかみ恵んでくれると嬉しいのですが」なんて言ってニコニコと笑って。―さすがにその時リンダはパンくずと一緒に心ばかりのお礼にとお菓子のモンブランをたくさん作って持っていったけれども―。

この町のマダムたちの憧れの的でもあるアギ。町長からも頼られているアギ。彼らの期待をその底なしの華奢な体に受け止めて、決してへこたれないで照れ隠しに笑っている慎ましやかな芸術家。…そう、彼は自らの才能と待遇をちっとも鼻にかけてひけらかしたり、自慢したりしないで、いつでも物腰柔らかくしかも謙虚で。でもそれ故にどことなく自虐的なところがあって。

美しい絵を描くたびにへりくだって自分を押し隠そうとするアギに対する不満、切なさ、憐憫の情が、知らず知らずのうちにリンダの胸の内につもりつもって、それらがとうとう行き場を失って溢れだしたに違いありません。いまアギが言ったこと、「形残るもの」より「お腹に入って幸せなもの」はもっといい。それはリンダにとって、ケーキに対する単なるお世辞や賞賛には聞こえませんでした。むしろ…食いしん坊な自分に対する自嘲とまでは言わないまでも、自分の絵は「形残るもの」でしかなくて、リンダのケーキには敵いっこない、そう言っているとしか感じられなくて。

「お願いだからそんなこと言わないで、お願いだから…」
「リンダさん!」
泣き崩れたリンダを優しく両腕で抱きとめ、アギは眉間にしわを寄せます。何気なく言った言葉が彼女を傷つけてしまったらしい…。ああ、なんということだろう! さっきまであんなにも明るくサンサンと輝いていたボクの太陽に、ボクは意地悪で残忍な暗雲をかぶせてしまった! …ボクは、彼女を泣かせてしまった!

手先に比べて口先ははるかに不器用なアギがおろおろしながら言葉を探っているうちに、リンダはしゃくりあげながらも胸の内を明かします。
「アギの描いた絵は『形残るもの』以上なの…紙にありのままの風景をそっくりそのまま写し取る技術なんてきっとユリスさんやフレイヤさんの行く都会でとっくに確立されているわ、それは確かに『形残るもの』かもしれない。でもアギの絵はね、違うの…アギの絵を見ていると、私、ありふれた自然の美しさに逆に気がつかされるの、慣れっこのものには私たち、窒息してしまうのかもしれない、そうして風化した灰色の森に、凍てついた川に、アギは魔法の着色をするのね、そして一度は生命を失った自然にもう一度生命の息吹を吹き込むの。だからアギの絵は…形以上に美しくて、そしてそのおかげでかえって被写体までもが生き生きと見えるほどなの」
だからアギの…一息にそこまで言ってリンダははっとします。―知りあって初めて、彼を呼び捨てにしてしまった…!

かたやリンダから計り知れない賞賛と批評の言葉を浴びせられたアギはすっかり言葉を失って目をしばたたかせています。ありとあらゆる感情がその優秀な画家の胸の内を色とりどりに染め抜いていきます。パステルがかすめたように、色白の頬がふんわり淡いばら色に染まります。左の頬に片手を添えてアギは困った風に首を振りました。

「まいったな、いままでそんな風に言ってくれた人はひとりとしていません、でもリンダさんから言われると正直すごく嬉しいです、いえ。むしろリンダ、君の口からそう言われるのを聞きたかった、君はボクの絵を本当によく分かってくれているのですから」
いつになく真剣なアギの言葉にリンダの乱れた気持ちが少しずつ落ち着いていきます。そして自分がとんでもない思いすごしをしていたことに気づかされます、謙虚でむやみに自分の才能をひけらかしたりしないのは、アギがそれだけ自分の芸術に自信があるからに違いない。能ある鷹は爪を隠すと言うけれど、アギが自らの才能を安売りするなんてことは断じてないでしょう。リンダは涙をぬぐってアギの腕から離れます、こげ茶色の絵の具の付いた、チーズの甘酸っぱい香りがまだうっすらと残っている彼の手から。

「泣いちゃってごめん、ホント、ごめんね、アギ」
リンダが落ち着いたのに安心してアギも笑顔になります。やった、ボクの太陽がまた輝きだした! そのとたん、言いようのないぐらいに気まずくなってアギは肩をすくめます。

「そのぅ、ボクは形ある物をもらうと飾る場所にすごく神経を使ってしまうんです…もらいものだし壊したらいけないとか、少しでも見栄えのあるところに飾らなくちゃ、なんて思ってしまって、浅はかなボクはただホント、そんなつもりで言っただけなんです。とても、町長さんの像を作っている者が言えた義理ではありませんが。…でもね、ボクの絵が魔法にかけられているというのなら、きっと、リンダのケーキには魔法の調味料が入っていたのでしょう、あんなにおいしいケーキをもらうと」
とそこまで言うと彼はえへへっとまた恥ずかしそうに照れます。
「胃袋という棚のどこに飾ろうか悩んでしまうほどですよ!」
「こいつっ!」

さっきの涙はどこに引いたのか、リンダはいたずら半分にアギのお腹を小突きます。そして2人はケラケラ、雨上がりの虹がかかった空のように笑いあいます。かぼちゃ祭りが「かぼちゃ祭り」と呼ばれるのは、栄養満点のかぼちゃが魔よけのシンボルとされているから。この日は所知れずいたずら好きな妖魔が風に乗って町を駆け抜けるのだとか。

「たったいままで、君にあげようあげようと思って描いていた絵の仕上げをしていたんです、ここで記憶と空想という芸術家の力を借りて。それでかぼちゃ祭りの妖魔が小心者のボクの勇気をあおりたてました、…記憶スケッチをしたのは生まれて初めてで…でもどうか受け取ってください!」

さっとアギが反したカンバスにリンダは息をのみます。―先月の草競馬の絵、雄大な完歩で地を蹴る栗毛馬はリンダの大切な愛馬グラーネ。たくましい胸の筋肉、奮いあがるたてがみ、それは一日で千里を行くという伝説の汗血馬のよう。その様から、どんな録画映像をみるよりも鮮明に、草競馬の思い出がよみがえります。そのうえ…栗毛馬の瞳、こげ茶色の無邪気な瞳は馬格に似合わず落ち着いていて愛嬌があって。背に乗って手綱を繰るリンダへの信頼感がその純真無垢の両の目からひしひしと伝わってきます。こんなにグラーネは輝いていたんだ…初めての草競馬で入賞すら逃したのに、こんなにも、こんなにも燦然と、グラーネは輝いていたんだ!

「ありがとう、アギ! グラーネも喜ぶわ、グラーネにもよく見えるところに飾る!」
「わ〜…そいつは身に余る光栄だ…!」

アギからお手製の額縁までもらいます。木彫りのフレームで、つる草に混じって蹄鉄、にんじんやりんごのモチーフが刻まれています。もはやリンダはすべての言葉を失って、感心と尊敬、感謝のまなざしでアギを見つめます。―変な例えかもしれないけれど、ちょうどこの絵の中、全幅の信頼を寄せてリンダを見上げるグラーネのように!―

またいつでも、グラーネに会いに来てね、私たちは大歓迎だから! そう言ってリンダはアギと別れます。ありがとう、また絵の手入れに行きますから…アギは相変わらず言葉を濁して本音を押し隠し、頬を赤らめベレー帽を目深にかぶって、そして絵の具の付いた左手を振ります。


今日は樽の上を跳ねて近道をするのはよそう、腕に抱えたアギからの思いがけないプレゼントを落として傷つけたら元も子もないし…それに。このずっしりとした重み、―草競馬の思い出、人馬の強い絆、リンダに対するアギの想い…そしてなによりはにかみ屋で謙虚な芸術家の、己の絵に対する自信と勇気がいっぱいに詰め込まれたこの絵の重み、…枠の中に収まりきらない形を超えた重みを少しでも長く感じていたいから。リンダは至高の喜びをかみしめながら牧場目指して川を北上するのでした。

風バザ処女作にしてアギ処女作にしてハローウィン創作(かぼちゃ祭り)です。牧物シリーズのなかでも数少ない芸術家アギにすっかり心染められてしまいましたv画家で、しかも食いしん坊なんていまだかつてない性格のキャラクタ…芸術家たる者、ミステリアスな魅力を1つや2つ内に秘めてなくてはそれこそ一興にかけるというものです!


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