生地のなかに爆弾あり

そう! ちょうどふんわり焼けたスポンジケーキに濃い日のコーヒーがじわっとしみわたっていくような甘く、切なく、虚しい感じ! 言葉では表現しがたきあの感覚を、敢えて言葉で言い表すとするならそういうことになるだろう。甘いスポンジが、それも噴火もしなければカルデラ化することもなく奇蹟的に上手に焼きあがったふかふかのスポンジが、苦く暗い液体にさわっと侵されてゆくさま。それはあまりに爽快すぎる甘苦の融合! 五官に染み渡る痺れるような狂おしいあの恍惚感! それを得るために費やしたどんな辛苦も屈辱も一瞬にして報われる、そんな快感!

「…そう! まさに、つまり、これだ」
ついこの前味わったオペラの、胃の底からくすぐり上げるような、あのつかみきれぬもどかしい感触、あれをなんとか美味い言葉にしたためようとイメージをまさぐっていたアギは、ついに美の核心をとらえたとばかりにひとりごちました。
「ボクがあの晩体感した、いや体感してしまったのは、それぐらいにかくも恐ろしき素晴らしい美…」
「ぎゃーっ!」
ガシャバリーンビチャカチーンッ―!!


台所からのキラキラした爆発音にアギはとびあがり、あわてて爆心地に飛び込むとあまりの絶景に息をのみました。床一面に広がった褐色の海。透明の小さな岩礁がいたるところで鋭く光っています。つい、いつもの癖でその美的光景をスケッチすべく上着のポケットから小さなスケッチブックを取出しそうとし、はたと思いとどまって目を凝らすと…。いやはや、目を凝らすまでもなく、それは単なるコーヒーの海で、光り輝く岩礁は粉々に砕け散ったガラスの破片でしかありませんでした。我に返ったアギがびっくりして顔をあげると、そこにはもはや自分の信望をすべて失って茫然と立ち尽くす牧場主リンダの姿。彼女の手にはコーヒーサーバーの取っ手がしっかりと握られているのに、当のサーバー本体はどこを探しても見当たらないのでした。

事の次第は結構単純。今日は冬の感謝祭だからよかったら牧場でお茶してかない? そんな風にリンダから誘われて。お菓子作りにかけたら左はともかく右に出るものなし、アギのイメージからするとドゥシャンかドローネーに匹敵するそのパティシエから「お茶いかが?」なんて言われたら、甘党はおろか、チョコレー党もクリム党も、あっさり屈服セザンヌおえません。…まあとにかくそんなわけで、大喜びで彼女のご相伴に与って感謝祭のお菓子が出来上がるのを待っていたところに、台所でなにかよからぬことが起こったというわけです。

「サーバーが落ちたの…」
「アーユーではなくて?」
「サバよ!」
「コメ ヴァ?」
「アギのバカっ!」

ジョークにジョークで応える余裕がいまひとつなくなっているリンダをもうひと押し笑わせ元気づけようとアギは頭をひねります。

「じゃ、とりあえず床ふきましょう。えっと、ほら! ストロー!! 持ってきてください!」
「もうアギっ、お願いだから!!」
「だって…せっかく淹れてくれたコーヒーですしもったいないじゃないですか」
「アギ…ふん、もうぅ」

アギがあまりに真面目くさってストローでコーヒーを吸い上げる身振りをしたので、さすがのリンダもこみ上げた笑いに先を続けることができませんでした。

「天衣無縫のアルレッキーノにはどうしたってかなわないわ!」
「プレーゴ! ノン・チェ・ディー・ケ!!」

冗談もストローもイタリアンジョークもさておき、床をぞうきんで拭きながらリンダは唇をかみます。
「今年2回目なの…コーヒーサーバー割ったの。1年に2回も割るなんて…それもこんな大切な日に」
「そいつは…大変すばらしいことです」
「アギっ!」
「さて困った、どう言ったらこの画家兼即興コメディアンの言葉を信じてもらえるかな。確かにモノを粗末に扱ってはいけませんが、壊れたものはそれ以上壊れない。…そのうえ、コーヒーサーバーがリンダさんの不幸や災いを肩代わりしてくれたって考えてみたらどうでしょう?」

唐突なアギの言葉にリンダはびっくりします。彼女の反応を見てアギはにっこり笑い、肩を竦めました。

「ボクもね、前に不思議な話を聞いたことがありまして。ある町のお医者さまがね、たいそう毒きのこに興味を持っておいでで。彼によれば、毒きのこを身近に置いておけばその持ち主はそれ以上毒されることはないし、そればかりか毒きのこが人体の毒になるものすべてを吸い上げてくれるとのこと。もちろん…素朴な考えではありますが、病は気からともいうもので。その町の人はその風変わりなお医者さまの風変わりな民間療法で、病気にかかることはほとんどないそうです」
「コーヒーサーバーも同じで…私の…」
「うん。それもこの大切な日に」


すっかり床を拭き終え、砕けたサーバーのガラス片もかたづけ終わるとリンダはおずおずとアギに向き直りました。
「さっきのコーヒー…お菓子につかおうと思っていたの。でも…サーバーがなくちゃコーヒー、淹れなおすこともできない…」
「ボクは一向に構いませんよ、もしリンダさんさえよければ」
「え…?」
「ボクのをお貸しします。…いや。もし、感謝祭のしきたりにこだわらないって言ってくれたら、一緒にお菓子、作りませんか?」

一息、落ち着いた語調で言い終えるとアギはもう先を続けはしませんでした。でも。自由で寛大な芸術家の言葉はもうそれで充分、むしろ十分すぎるほどでした。これまできっと、彼はこの街の古臭いしきたりや伝統の枠にはめられて、狭く苦しい思いをしてきたのでしょう。うんうん、と大きくうなずいてリンダはアギの華奢な胸に飛び込みました。やっとわかった、コーヒーサーバーが1年で2回も割れたのは、サーバーが私だけじゃなくてアギの不幸や災いも肩代わりしてくれたから…!

「この街の流儀より、アギの流儀のほうがずっと私、居心地いいみたい!」


さてさて…。ドゥシャンかドローネーに匹敵するパティシエと、天衣無縫の画家兼即興コメディアンによる見事なるコラボレーションによって生まれたのは、「私を昇天させて」なんて悪名を持つ、感謝祭の日にはあまりにもってこいすぎるあのスウィーツ。層が厚くとろけるような夢心地の美しさ。ふかふかのスポンジを濃い日のコーヒーにたっぷり浸し、マスカルポーネにパータボンブ、8分立ての生クリームとメレンゲを混ぜて注いで、上から力強い純粋カカオをこんもりふりかけた、あの甘くほろ苦いスウィーツ、…そうすなわちノンアルコールの本格ティラミス!

天にも昇る心地の食感にリンダの心が緩みます。
「私これから、コーヒーサーバー割るときにはアギの不幸を叩き割ることをまず第一に考えることにするわ!」
「はてさて、それはとんだ本末転倒!」

アギは「あい、言い過ぎた」と言わんばかり、眉一つ動かさず心の中で十字を切って濃い日のコーヒーでひたひたになったスポンジで口を濁しました。

「…それぐらいに、かくも恐ろしき素晴らしい美声だった、というわけだ!」

こうして彼はやっと、コーヒーサーバー爆弾で中断された自身の独り言を言い終わることができたのでした。

2013年バレンタイン創作です。前年、ものの半年のうちにコーヒーサーバーを2回も割ってしまって、それをなんとかネタにできないかと思ったらアギくんが「こうしなよ〜」とまたラウテを持って(強制終了)ともあれ、もとが「コーヒーサーバー2回割れた」なものでとことんギャグです…。アギくんがついこの前味わったのはお菓子のオペラではなくて、舞台芸術のオペラだったようで。胃をくすぐる美声、いったいどんなものなんでしょうか;


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