ソットヴォーチェのいななき

世間はもうすぐクリスマス。町全体が真っ白の雪に覆われてからというもの週に一度のバザールも独特の賑わいを見せています。温かくて甘酸っぱい香りに包まれたホットワインのお店、色とりどりのオーナメントに飾られた絵本のようなお店、エキゾチックなお香にスパイシーなアロマを漂わせるお店に、木彫りの素朴なお人形が物静かに聖書のお話を語っているお店…。それはあまりに豪華なビュッフェか贅沢なオペラハウスにでも迷いこんだよう―一歩進むたび左右のお店に目移りし、どれにしようか、何をつまもうか、いずれが菖蒲杜若、ペーターかミヒャエルかそれともはたまたロベルトか、ビュッフェならば胃袋に相談するところ、ここでは金袋に相談し結局はふんぎりがつかなくて、もっとほかにいいものがあるはず、と欲の皮が張るうちに気が付けばデザートのコーナーに辿りついてしまっていました。

「しゅぺ、くら、ちうす!」

厚くて小さな木片がずらっと並べられたお店に吸い寄せられぴったりと足を止めると、最近簡単な文字が読めるようになった坊やは自信満々に品書きを読み上げます。坊やのあまりの威勢の良さに牧場主とその若旦那はすっかり微笑ましくなってしまいました。

今日は朝から久しぶりにお天道さまがその天然陽気光線をサンサンとふりまいて、つもりつもった雪の層が粉砂糖のミルフィーユよろしく輝きだしたのにすっかりテンション高ぶって、芸術一家は進軍ラッパを聞いたウマよろしく勇み勇んでクリスマスのバザールに足を運びました―芸術家のお父ちゃんも牧場主のお母ちゃんも、そしてそんな2人の遺伝子を立派に受け継いだ坊やも、灰色の冬には陽気な太陽がほほ笑んでくれないと気持ちが地下室のように真っ暗になってしまうのです。

「シュペクラチウス、クリスマスクッキーですよ」
「この型でどうやってクッキーをくりぬくの?」

目の前に並べられた見慣れないクッキーの型にお母ちゃんは興味津々。聖ニコラウスから天使さま、さらには馬や鳥のモチーフが彫られた木片をかわるがわる手にとっては眺めています。それもそのはず、普通クッキーの型といったらステンレスの板を曲げて作ったものが真っ先に思い浮かぶというもの。それが「木」で出来ているというのですからまずびっくりしてしまいます。そのうえその木片は木版画の版とは正反対に内側に浅く彫られているので、それでどうクッキーの生地をくりぬくのかそう簡単にイメージがわかないのも無理ありません。実のところこの型は生地をくりぬくというよりむしろ、そのくぼみに生地を押し付けて模様を刻みつけるためのもの。ステンレスの型とは使い方があべこべなのです。しかしまあそれにしてもさすがは食いしん坊な芸術家の息子、手作業で彫られたクッキーの型なる小さな芸術品にすっかり魅了されてしまったようです。

「でもひとつひとつ手彫りなのね、すごい! おなじお馬さんでも一匹一匹、お顔がちがうよ!」
「ママのペーターデールもいるかな?!」
「さがしてみよっか!」

おいおい、ママのペーターデールは家の馬小屋にしかいないって、そう思いながらアギは妻と息子がクッキーの型に夢中になるのを天使の眼差しで優しく見守ります。

シュペクラチウスは香辛料のきいたぱりぱりとしたクッキー、寒い冬には体を温めてくれるシナモンやナツメグの香りが恋しくなるから、クリスマスにぴったりのクッキーというわけです。生地の作り方はいたって素朴で、やわらかくしたバターに砂糖、卵、小麦粉とスパイスを混ぜるだけ。

でもそこからが一苦労なのです。内側に彫られた芸術品、そこにぐいぐいと生地を押し付けはみ出た部分をナイフで削ぎ落としたら、型にはまった生地を破れないように慎重に型からはがさなくてはなりません。それをひとつひとつ丁寧におこなうのですから相当骨の折れる大仕事、ステンレスのクッキー型ならおよそ10分でできそうなくりぬき作業がこの木版をつかったら実に30分以上はかかると見なくちゃいけません。おまけにやっとできた生地を焼き上げるのも、その薄さというのか繊細さゆえに注意が必要。ちょっとでも油断すればたちまちオーブンの中で丸焦げになってふつうの3倍の努力が一瞬にして発がん性物質の塊と化すのが関の山、しっとりと美しく響かせなくてはならない五重唱を崩壊させる「がん」が時としてもっとも美しくてもっとも細やかな精神の持ち主であることもなにも驚くに値することではありません。

おいしい食感と甘く温かな刺激を胃に入れるには並々ならない時間に労力、傍からは大丈夫かと不安に思われても不思議でないほどの繊細さに加えて、ぷっつんしない程度にピーンと張りつめた強靭で柔軟な精神力が必要なのです―

シュペクラチウスを上手に焼き上げるのはまるで、7Bの鉛筆で画用紙に薄くて細い針を描くようなもの、7mmのボールペンで米粒に「馬」とでも書くような、シュテントールこと50人分の大音声の持ち主が春の小鳥のように甘いソットヴォーチェでささやいて、細く美しいコロラトゥーラでさえずるような…。

でもそれが芸術の醍醐味に違いない。どんなに優れた芸術性を有していても、それを知覚可能な形にするにはなにかしらの型にはめこまなくてはならず、なにかしらの法則に従わせなくてはならないのだから。

そして大雑把に分けてその型はどうやら2種類あるらしい、ステンレスの型とシュペクラチウスの型。

ステンレスの型を使えば確かに楽に作品を生み出すことが出来る、そのうえ短時間で量産も出来るし、効率がいい、おまけにステンレス型は同じモチーフの型ならどれを選ぼうがさして見た目に差が生まれることはない。…でもそこに果たして個性や風味といったものはあるのだろうか、温室で育てられたリーフレタスのようにお利口さんでどれもほとんど同じ見た目のクッキー。そこには「同一性」以外の魅力はない、整然と並んで見えるさまはなるほどシラミの卵と同じで背筋をぞくっとさせる美の本質を暗示してはいるのかもしれないけれど、それは一過性の味わいでしかない、なんと気楽なもんだろう! 

一方のシュペクラチウスは生地を押し付けるときの力の加減で、型から生地を剥がすときの力の加減で、模様の深さや輪郭がまちまちになってしまう、いやこの芸術品はすでにそれをはめこむ型の時点から小さな差が生まれている。なにせそれは人の手によって彫られたものだから馬ひとつとってみても一匹一匹表情、太さ、足の細さが違ってむしろ当然、型選びもまるで馬市で馬定めをするようなもの。個性的な方の中から選び抜かれたこの世にたった一匹の型で刻み付けられたクッキーの表情は一枚一枚まったく違う。多大な苦労と時間を犠牲して焼きあがるからこそ、どれだけ型にはめられていようがシュペクラチウスには目にも胃にも独特の味わいがある。

―型に従いながらもそれを踏まえて自由に振る舞い、五感に迫ってくるようなもの、それこそが形を伴った真の芸術性といえるものなのではないのだろうか。


「パパならつくれるよ、ペーターデール!」

ついついいつもの癖で小難しい妄想を独奏していたアギは、坊やのボーイソプラノにはたと我に返りました。どうやら思った通り、ママのペーターデールは見つからなかったようで、それなら我が家の誇り高き芸術家に作ってもらおうとのご算段。

「ペーターに、ママのふうしゃもつくって! クリスマス、パーチー、するんだ」
「あ、そうか、この町のバザールが復活してから今年で5年だものね、それじゃ、パパががんばれるよう、お天道さまにお願いしてくれたらやってみよう」
「お、てんとう、さまーっ!」
「待って、家に帰ってから、家に帰ってからでいいのよ!」
仲睦まじい若家族の明るくて底抜けの陽気にお店の主人もすっかり癒されてしまったよう、しわが寄るぐらいに頬を引きつらせて笑っています。

「ねぇ、お坊ちゃん、だけど困るよォ、あんまりお天道さまにがんばってもらっちゃ、足元の冷たい粉砂糖が全部とけちゃうだろう?」
「あっ、それは大問題、パパのやる気とホワイトクリスマス、どっちが大事かな?」
「パパのやるき! にどとこないもん」
おいこら、即答ですかい、アギは笑います。同時に幼いながらも「芸術」がこの世に唯一無二でありかつそうでなくてはならないものであることをそれとなく感じ取っているらしい息子の言葉に冷や水浴びせられた気持ちでいっぱいになります。なるほどホワイトクリスマスは来年にお預けでも、パパのやる気は毎年決まってやってくるものではないうえ、パパのやる気次第で出来上がる「芸術品」も表情にムラが出てしまう…。

「そんなにパパってお日さまが出てないときふさいでるかな?」
「ふさいでるわよ、地下室がきのこで栄えそうなぐらい」
「う…、ごめんなさい…それじゃ、こんど吹雪になったらバサールで売り上げ一位になれるぐらいにきのこ生やせるようがんばります」
「きのこじゃないやい、ペーターデールだいっ!」
坊やの力のこもった「ペーターデール」にそれはさぞかし立派なお馬さんなんだろうね、とお店の主人は身を乗り出します。
「パパががんばったら坊や、おじちゃんにもペーターデール、見せに来てちょうだいねェ」
「いいよーっ、でもおじちゃんも、おてんとうさまに、おねがいしてね!」

有難いことに天然でおめでたいお天道さまはアギがシュペクラチウスの型をいくつか彫っている間中、楽しげに笑い続けてくれました。その陽気の虫のおかげで町を包んでいた粉砂糖のミルフィーユはきれいさっぱりとけてしまいましたが、坊やの粉砂糖をとかすことも辞さない熱いリクエストに応え、どこのお店を探しても見つけることのできないアギにしか彫れない小さな芸術品たちがほくほくと出来上がりました。

そしてクリスマスの夜には町の皆を呼んでさっそく芸術的なクッキーでささやかなお祝いです。町のバザールが復活してからちょうど5年の区切り年にアギから町へのプレゼントが乗ったお皿のうえでは町のシンボルである風車や町長さんが輝き、さらにはにぎわうバザールの露店の中で客寄せのベルが鳴り響いています。素朴で繊細なシュペクラチウスのぬくもり、目にも胃にも魅力的なクリスマスの贈り物に、小さな田舎町の一軒家は幸せな笑顔と笑い声でいっぱい。

そのなかに小麦色の立派な馬のクッキーを自慢する小さな芸術家の姿がありました。我らがご自慢のパパが彫ってくれたママの愛馬の型。そこに小さな手と小さな心で生地を押し込んで、ボクも一枚だけクッキーを作った! というのです、ところがなるほどそのぬくもりのある栗毛馬の表情からは父から子に受け継がれた強い芸術家気質がしっかりと漂っていました。

「あのね、これはボクからの、プレゼントなんだよ!」
「ほほぅ、どなたへのプレゼントですかな?」
「ペーターデール!」

* * *

動物小屋で立ったままうたた寝をしていた栗毛馬は坊やの声に目を覚ましました。坊やの手に握られた馬のクッキー、この世で唯一無二のペーターデールクッキー! たくさんの苦労と時間をかけてじっくり丁寧に出来上がった芸術品に無邪気な栗毛馬も何かを感じ取ってか棹立ちになって跳ね上がります。そして鼻を震わせ、甘く清純なテノール風ソットヴォーチェのいななきで感激を露わにすると、突然舞い込んできたクリスマスのおやつに大喜びでかぶりつくのでした。

2013年、風のバザール5周年ということで!おめでとうございますっ♪発売日がクリスマスに近かったのでクリスマス風のお話にしてみました。シュペクラチウスはドイツの素朴なクッキー、ミュンヘンのクリスマスマーケットで手彫りの型を見つけすっかり一目ぼれしてしまいました*手彫りの型とクッキー、両方同時に満たしてくれるといえば食いしん坊の芸術家アギくんしかおりません(笑)この度は2人の息子さんまで登場させてみました、芸術とお菓子とお馬を平等に愛する、画家×牧場娘の坊やです♪


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