青い誓い

広葉樹の梢から太陽のやさしい木漏れ日が注ぎます。木々は折からの微風にそよぎ、ざわざわと楽しそうにおしゃべりします。なかには年を重ねるうち、無駄なおしゃべりは当の昔に忘れてしまった老木もたたずんでいます。どの木もふんわりした苔に覆われ、幹の檜皮色のなかに渋みのある緑青色がほんのりと浮かび上がり、幻想的な輝きを帯びています。

芳しい木肌と温かな光のまじりあう雑木林の香りをかぎながらマザーズヒルふもとの逍遥道を歩くうち、徐々に徐々に視界が開け、そして突如眼前に青の世界が広がると、ピートは足を止め大きく伸びをしました。そこは河童が棲むと言われている湖。しかし淡々とたゆたう澄んだ水面の奥には河童よりさらに神秘的ななにかが隠れているように思われました。

穏やかな水面をふいに一陣の風が走り抜けると、そそのかされたようにさざ波が立ちます。かすかな音色が小さな波の間から聴こえます。その音にすっかり己の空想力を委ねるうち、音色はなんとも不思議な仕方でピートの目に魔法をかけます、すると突如、次のようなことが起こりました。

その小さな波が大きく大きく同心円状に広がっていき、湖にいくつもの波紋を作ると、どこからともなく可憐なハープの音色が聴こえ、それにのせて透き通るような水晶の歌声が水底から湧きあがったのです。夢とも現実とも判じ難いこの不思議な音色に混じって、遠い対岸からは牧神の葦笛が聴こえます。はるかかなたの丘の上に山羊の足を持った半獣があらわれ、けだるそうに岸辺に歩み寄ると、水面がゆれ、むくむくと持ちあがり、曖昧模糊とした形状を描き始めました。見る間にそれはある一人のうら若き少女、あどけない手で金に輝くハープを奏でる美しい水の精ナヤーデの姿へと変わります。

長い髪を三つ編みに束ね、やんわりとなでらかな肩に垂らした清らかなニンフは無邪気な頬笑みを浮かべ、魅惑的なハープの音色を紡ぎだします。気がつくと先刻牧神のいた対岸にその半獣はおらず、かわりにピート自身がナヤーデと向かい合って、周囲から隔絶された淡い空気の漂う岸辺に佇んでいました。

ナヤーデは重たい瞼をもちあげ、もったいぶるようにピートに一瞥与えると、より一層激しい憧憬を伴って青年を自分の懐へと招きます。とたんに水の中に飛び込みたいという強い衝動がピートを捉えます。

抗うことのできない、水の精の魔力、冷たくも熱い誘惑。

そろりそろりとナヤーデに歩を進めていたピートの足が、とうとう岸辺を離れ、彼は水の中にぱっと身投げします。まるで、愛する者の腕にその身を委ねるように。…


とたんにぱちんと夢がはじけ、牧場主は目をこすりました。自分はどうやら立ったまま夢を見ていたらしい。それも、もはや本の中でしか出会うことのできない神話の世界を。ピートはそしてゆっくりと頭を振りました。パンの笛、ナヤーデの歌。いつ読んだのかは覚えていない、けれども確かに自分は、いま見た幻想を前に何かの本で読んだ気がする。

「ま、いくら考えてもダメだ、牧場主のくせに僕は、いつどこに玉ねぎを植えたかすら覚えていられない。まして、読んだ本の内容なんて一時間もすれば忘れちゃうたちなんだから」

自分はきっと、理性的というよりむしろ、はるかに感覚的な世界に生きているのだろう、そうピートは思います。自分にとっては昨日も一時間前も同じ過去、過ぎ去ったことは青の帽子をかぶった頭をすり抜けて、目に見ることのできない得体のしれない黒い渦の中に飲みこまれてしまうのです、でもそれは完全に彼の記憶から抹消されたわけでは決してなくて、ふとしたきっかけで―昨日のことも一時間前のことも―いまそこに起こっているかのように鮮明に蘇るのです。たったいま見た幻影も、過去のどこかで読んだことのあるいくつかの本の世界がごたまぜになって無意識の裡に現れたに違いありません、湖の青い光をみたとたんに、湖の青い水面がさざめいたのをみたとたんに。


記憶を意識にとどめておくためになにかしおりのようなものがあればな、そう自嘲的な笑みを浮かべ、ピートはふと申し訳ない気持ちになりました。本は決して嫌いではありません、この町に唯一の図書館にも時間を見つけては足を運んでいます。司書のマリーも、本を読んでくれる人が増えた、と喜んでくれ、お気に入りの本やら、お薦めの本やらお節介なぐらいにピートに紹介してくれている。つい今しがた自分が見た幻想もきっと、マリーの紹介してくれた本のなかに書かれていたのでしょうに、それなのに、せっかく読んだ本の内容を忘れてしまうなんて! 

優しくて読書好きの彼女に合わす顔がありません。…そういえば今日は図書館、休みだったな。もうすぐマリーがパパの手伝いで薬草をさがしにここまで来るはずだ、せめてもの罪滅ぼしに花を摘んで彼女を待つことにしよう。


果たしてマリーは薬草をさがしにやってきました。思いがけず湖のほとりでピートの姿を認めると、彼女はきまり悪そうにはにかんでそっと地面に目を落としてしまいました。まさしく、文学の世界の無垢な少女さながらに…!
「ピートくんも来ていたんだね…!」
「うん、ここでこうして、花を摘んで、ね」
一輪の釣鐘状の花をマリーに手渡します。背の高い清楚な青い小さなお花。
「ありがとう…大切にするよ」
「今日もパパの手伝い?」
「うん、パパの研究のためにできるだけたくさん草を集めるんだ」
「マリーは相変わらず優しいし、それに偉いね。もし僕に手伝えることがあったら遠慮なく言っておくれよ。植物相手は僕だって慣れっこだから」
だけど、その花はマリーへのプレゼントだからね、くれぐれも、プレパラートにのせて顕微鏡でのぞいた揚句に、雄蕊をむしり取って解剖する…なんてことはしちゃいけないよ、ピートが敢えてそう付け加えると、マリーは恥ずかしさと嬉しさと、そして可笑しいのでクスクス笑いだしてしまいました。
「そうしたらまさに、B級ホラーの黙示録といったところだね」

マリーは時に不思議なぐらいに理解不能な言いまわしをするのですが、それはピートにとって、マリーからの挑戦状でもありましたし、それと同時に「あなたは私のジョークを解してくれるに違いない唯一の人です」そんな淡い期待でもありました。どちらにせよ、マリーがなにか教養めいたものを振りかざすたびにピートは、彼女の挑戦だか期待だかに応えられない自分がやるせなくなります。そしてそんなとき彼は仕方なさそうに苦笑して肩をすくめるほかないのでした。きっと彼女と同じぐらいに本を読んで、彼女と同じぐらいにその本の内容を覚えていればピートにもマリーの難解な冗談が理解できるのでしょうに。


―彼女にふさわしい人であれたらなぁ! それには僕はあまりに無知で無教養すぎる。
恐らくマリーの話すこと、その半分も僕は正しくは理解できてないのだろう、それなのに彼女にこんなにも焦がれるのは、彼女が僕よりずっと物知りで、教養も博識もあるからに他ならない、彼女は僕とすっかり別世界に生きているんだ。マリーが前に熱心に薦めてくれた本にも、そんなないものねだりの叶わぬ恋が描かれていた気がする。―その本のタイトルすら僕はもうすっかり忘れ去っているわけだけれどもだ!

胸の内で自嘲しながらピートはそっとマリーの手から青い花をとって、彼女の髪にさしてあげました。
「うん、すごくよく似合ってる。しずくをまとった優しい水の精のようだ」
「あ、ありがとう…」
小さくつぶやいてマリーはまたうつむきます。綺麗に結わえられた三つ編みの黒髪がふわりと彼女の肩にかかります。そのとたんピートはどきりとしました、しずくをまとった水の精、そんな言葉が突然自分の口を衝いて出たのも偶然ではなかったのかもしれない、流れるような髪と清楚なワンピースに身を包んだマリーが、つい今しがたピートの幻影に現れたナヤーデにそっくりだったのですから! 

ピートが夢ともうつつとも判じ難い不思議な気持ちにとり憑かれているうちに、マリーはそっと顔をあげ、やっと口を開きました。

「お花、大切にするよ」


それからだいぶ経ったある日のこと。早めに仕事を切り上げて図書館に向かったピートは、受付のテーブルに一冊の本が置かれているのを見つけました。当のマリーは小説の題材でも探しに行っているのかそこにいません。受付に置かれた、そのわりかし分厚い本、きっとマリーの読みかけの本でしょう、それとも毎日図書館に本を読みに来るグレイが借りたままうっかり置きっぱなしにして行ったのかもしれません。ともあれ、その表紙を見、なにか不思議な力に操られるように、ピートはその本をパラパラとめくり始めました。マリーの読みかけかもしれないし、グレイの忘れものかもしれない、その本を…。


主人公の青年はある夜、不思議な夢を見ます。暗い森を歩いて行くうち、次第に空間が開けてゆくと、そこには天に吹き上げる水柱があって、滴り落ちる水を受け止める水盤は涼しく青く光っていました。池の水をひとくち飲んだとたん投身したい気持ちに駆られ青年は池の中に飛び込んで…。冷たい水が次々と青年の体を抱きしめては離します。ナヤーデたちの優しい抱擁に陶酔しつつも青年はなお泳いでゆきます、そのうちに強い光に目が覚めると、青年はやわらかい芝生の上にいました。紺碧の空には何一つありません、気がつくとすぐ近くにこんこんとわき上がりながら消えてゆく泉があって、そのほとりに一輪の丈の高い青い花が咲いていて―。


このときピートがいやおうなしに惹きつけられたのは、そこにはさんであった淡い青色の花でした。本の中に現れた池のほとりの花と、まったく同じように青くて背の高い釣鐘状の花。そしてその花を見たとたんに、ピートの意識は本の世界から現実の世界に引き戻されました。
「ごめん、来てたんだね」
階段を駆け下りてくる音がしてピートは顔をあげます。一冊のノートを小脇に抱えたマリーがそこにいました。
「気にしないでよ、いま来たところだから。…あの」
「あ…その本、読んでた?」
受付のカウンターに持ってきたノートを置いて、マリーはなにか大切な秘密でもさぐられたように頬を赤らめます。
「勝手にごめん、なんか、面白そうで」
「あ、いいんだ、私もその本大好きで、最近また読み返したんだ。…ノヴァーリスの『青い花』。…前にピートくん、青い花をプレゼントしてくれたよね?」
「この花…だよね?!」
本の間に挟まれた、カリカリに乾いた青い花をそっと手にとってピートは声を荒げました。大切にする、なんてあれだけ繰り返しておいて、本のしおりにしてしまうなんて。マリーにとって僕の思いなんて本に挟んでもへっちゃらってわけかい!

「うん…そのお花。あれからずっと花瓶にさして飾っていたの。でもどんなに大切にしても花はいずれ枯れてしまうもの、パパは私の気持ちなんてとんじゃかなくて、枯れたらまた同じ花をつんでくればいいって笑って言った! …でも。この青い花は私にとって、この世でたった一つの青い花。だから私…その青い花をしおりにして一生枯れないように、ずっとずっと一緒にいられるようにした。私のいないところで本の留守番をしてくれて、そして私が本を開くとそこでいつも待っていてくれる青いしおり。私と一緒にたくさんの物語の世界を冒険する青い花。…そして本を開くたびにその青い花は、私にピートくんのこと、思い出させてくれる。ピートくんがこれをくれた、あの日のこと。だからこれは私の記憶のしおりでもある。そして私はいつもこの花に託して夢を見るの、この青い花がピートくんにとって私の幻影であったらいいな、なんて。…その童話の中で泉のほとりに咲いていた青い花が、そう、主人公、ハインリッヒにとって生涯の伴侶であるマティルデの幻影であったように」

―泉のほとりに咲いていた青い花が、その童話の主人公、ハインリッヒにとって生涯の伴侶であるマティルデの幻影であったように―

ほとんど夢見心地で本音を語るマリーにピートはびっくりします。いくらマリーの不思議な言いまわしに不慣れなピートでも、マリーがいまなにを言わんとしているかぐらいは痛いほどよくわかります。殊勝なマリーは、あの日、ピートがふとした思いつきで渡した青い花を―青い羽根と同じぐらいに価値あるものとして大切にしていたのです! ピートはすっかりどぎまぎして、さきに図らずも声を荒げてしまった軽薄さを恥じ、頭を垂れました。

「ピートくん、よかったら…この本、借りていって。私はこれ、もう何度も読んだし、いまは新しい童話を書いていてこれを読む時間もないから」
マリーは持ってきたノートを開くと、大切なしおりをピートの手から受け取って、書きかけのページに挟みました。
「いまね、牧場の物語を書いているの。ピートくんが前にリクエストしてくれたから…! まだまだ書き上がりそうにないけど、でも。この青い花が私を励ましてくれる、そんな気がする」
マリーの言葉にピートはとうとう心を固め、表情を硬くしました。彼女もまた、理性的というよりは感覚世界の住人だった、彼女がいつもとってつけたような言いまわしをするのは、彼女がとりわけ物知りだからではなくて、本が彼女の気持ちを取りなしているからに他ならない。読書好きで賢いけれど、どことなく内省的で引っ込み思案なマリーは、本を通じてしか自分の心を語りえないのだ。…だけど僕はそんな彼女が好きだ、いまや彼女に惹かれる本当の理由がわかった、僕らは同じ世界で生きてきたのだ。僕が無意識のうちに落とし込んだ記憶を思い出すのになにかきっかけが必要なように、彼女もまた目で見ることのできない黒い渦の中に見失ってしまった自分の言葉を、本心を、いまここで聞こえる形にするにはどうしても「本」というきっかけが必要なんだ。

…そして。彼女が青いしおりに託して思い描いているという夢は、彼女がいま僕に薦めてくれたこの本と、なにより彼女がいま懸命になって書いている童話を通じて、いずれ僕の耳に届いて実現することになるだろう。
「よし、約束だ。君がその童話を書く間に、僕はこの本を読もう。きっと、僕がこれを返しに来るとき、君のその新しい童話も完成しているはず。そうしたら僕は…今度こそ、青い花じゃなくて、青い羽根を、君と僕の人生のしおりとして持って来るから!」

思い切って言いきるとピートは、驚きのあまり目を丸くしているマリーの前で小さく誓いの十字を切り、彼女が貸してくれた分厚い本を抱え、照れ隠しにさっと踵を返すと、逃げるように図書館を後にするのでした。

ミネラルタウンでオレの嫁、マリーちゃんのお話を書いてない!ということに気がつきピート×マリー処女作です。読書家のマリーはどうしても、『オネーギン』のタチアーナとキャラクタがかぶってしまいます。本から得た知識を借りないとうまく本心を伝えられないけれど、その本心は決して借り物でも受け売りでもない、マリーオリジナルのもの!それにしても、「ピートからもらった花が枯れたら同じものをつんでくればいい」というバジルさん。おとーちゃんはよくわかっていて嫉妬するものと信じたいです;


inserted by FC2 system