遠くに想う

窓から差し込んだ朝の光はやわらかくバラ色に染まり、言いようのない強い憧れがクレアを海辺へと誘います。この上なく甘美な喜びにすっかり頭は痺れ、雲の上を走っているように足元の感覚はほとんどなくて、もやと幻想に包まれた石造りの家々の間を風のようにすりぬけて、温かい光の中を、まるで何者かに導かれるように一心不乱に海の家に向かいます。そして愛するものの腕に抱かれたいという衝動に急く胸の鼓動が最高潮まで高まった刹那―。

けたたましいめん鳥の鳴き声にクレアはとび起きました。トクトクと心臓が高鳴っているのを覚えます。夢の余韻がうっすらと残る頭はぼんやりとして、いまだ起きているのか眠っているのか分かりません。しかし。部屋の中はもう、朝の太陽の黄金色の輝きで満ち満ちていました。

ゆっくりとベッドから這い出し、カレンダーに目を向けます。めくられたばかりの春のカレンダー。彼がやってくるのはまだまだ先のこと。ぷるぷると頭を振って鏡の前に向き直り、いつものオーバーオールに袖を通します。朝ごはんにパンと玉子焼きをほおばって、そしてクレアは何事もなかったかのように自分をなだめながら家をあとにしました。

鶏や牛たちを放牧し、犬のジョニーにミルクをあげると、彼女は馬小屋に向かいます。
「うえだ、おはよう!」
精一杯明るい笑顔で言ってうえだと呼ばれたその栗色の馬の頭に小さく接吻すると、小柄な栗毛馬はカクンと頭を下ろして、クレアの腰にちょいちょいと鼻先をこすりつけて朝の挨拶をしました。 愛馬に手綱と頭絡を取り付け、鞍を乗せます。鐙の長さを念入りに調整して、クレアはうえだをつれて外に出ました。

ポコポコと馬を歩かせながら今日見た夢のことを思い出しては思案に耽ります。あのままもう少し眠っていられたら…彼は海の家で私のことを待っていてくれたかしら! あの明るい笑顔で私を迎えて、私を優しくたくましい胸に抱いてくれたかしら! 遠く離れた恋人同士。彼への想いが強すぎて私の魂が海のかなたへとんで行ったのか。それとも、彼の想いが海をとび越えて私のところにやってきたのか…。考えれば考えるほど、頭がぼんやりしてきます。

二年前に彼と初めて会って以来、幾度となく彼はクレアの夢に現れました。初めのうちは無愛想で、口すら聞いてくれず、クレアが大きな声で名前を呼んでも気づいてくれなかった彼。しかし去年の夏を境に彼は頻繁に、彼独特の人懐っこい語り口でクレアに声を掛け、微笑み、そして温かい胸元にかき抱いてくれるようになりました。


―現実でもそうでした、初めて会ったとき、彼はクレアの目にはあまりにも近づきがたい存在でした。底抜けに明るくフレンドリーな性格、グレイをのぞく町中の男子から「無法者」「遊び人」と陰口を叩かれても、まぶしい笑顔でそれを受容してしまう寛大な精神。あるとき、ホアンさんからパイナップルの種を買って帰る途中で海の家から出てきた彼とばったり鉢合わせになり、高鳴る胸を自分の口に任せ、思い切って彼に自己紹介し、しばしの幸福に浸ったあとで、トボトボと歩きながら悲しく悔しい気持ちになりました。

町のだれとでも分け隔てなく付き合う彼。秋になれば遠くに行ってしまう彼。きっと向こうでもたくさんの人と交わりがあるに違いない。そんな人付き合いの多い彼に、自分のようなちっぽけな存在を知ってもらいたいだなんて…とんだ高望みに過ぎないでしょう。忘れられて当然、たとえ覚えてもらえなくても彼を恨みはしますまい、そう割り切ってしまって。そうしたあきらめの気持ちが知らず知らずのうちに、彼と自分を遠ざけ夢に現れていたに違いありません。

けれども。次の年になってまたミネラルタウンにやってきた彼が、気前よく町のみんなを海の家に招いてごちそうをおごってくれたとき。おどおどしながらご相伴に預かって部屋の隅でカキ氷をつついていたクレアに、彼は軽い足取りで近づいてくるなり面と向かって口を開きました。
―元気なさそうじゃん? 楽しんでる?―
驚いて目を見開いて、油の切れたロボットのようにうんうんと頭を振ると、彼は半ば妥協したような呆れ顔で、でも満足そうににこにこと微笑んでクレアに再度一瞥与えて。そして厨房に引き返したのです。

―覚えててくれてたんだ…―そう胸のうちで思って。―一年も会ってないのに、私のこと―
とたんに顔の緊張がほぐれ自然に笑みがこぼれました。彼は人ごみの中からそんなクレアのちょっとした気持ちの変化をちゃんと汲んでいたのでしょう、よかった、クレアが笑ってくれた、そういいたげに人知れずまた満足そうに微笑んで肩をすくめるとクレアにパイナップルのジュースを持ってきてくれました。
―特別! 今日は来てくれてありがと―
彼は私のご機嫌をとろうとあんな接し方をしてくれたのかしら、ずっとあとになってクレアはふと考えたものです。でも。私のこと、覚えてさえくれないだろうと思っていた彼が、実はちゃんと私を覚えてくれていて、そして特別優遇してくれたことが純粋に嬉しくて。彼の笑顔が、声を掛けてくれたということ自体が、この上ない名誉のように感じられて、クレアは彼に対して少なからず抱いていた先入観をそっと払拭しました。多くの人とたくさん交わっているからこそ、たとえ私が口に出して言わなくても、彼には私の気持ちがそれとなく伝わってしまって。そしてどうしたら私が喜ぶのかも彼はちゃんと分かっていて。そしてあんなふうに接してくれたに違いない―文字通り彼は、とても人なつっこい性格なんだ、そして私はそんな彼の輪に知らず知らずのうちに招き入れてもらっていたんだ…!


その夏の間に彼との親交はぐっと深まりました。少ない予算ででっかいプレゼントと題して畑一面パイナップルを植え、とりたての果実をパイナップルが大好きな彼にプレゼントしたり、海の向こうではどんなことをしているのか彼に尋ねたり、反対に自分が都会にすんでいたころの話をしたり、海の家に誰も来ないときには2人で釣竿を持って桟橋から釣り糸を垂れたり。そして夏の終わり、彼を牧場に呼んで、自慢の愛馬うえだを見せると彼はきりっと真剣な目つきになりました。

―俺の旅先にも競走馬がいてさ。同じ牧場の同じ厩の馬でありたととおるっていうんだけど、とおるのほうが年配の芦毛馬で。ありたはとおるの後輩、でも2頭してすごい強いんだ―
すっと深呼吸して彼はクレアのほうに向き直ります。
―約束できる? 今度の春、ありたもとおるもここに来るはずだから、草競馬絶対勝ってよね!―

あの時彼の言葉に「うん」と大きく首を振ったものの、秋になって彼が遠くに行ってしまうと、クレアとうえだの調教は日に日におぼつかなくなっていきました。彼のことを想うと気持ちがぼんやりしてしまい、しっかりしなくちゃと思っても心と身体はききわけがありません。秋が過ぎ、冬になって、そしてとうとう春になってしまった。彼との約束を果たすべき日が日に日に近づいて来ているというのに!

「ダメだわ! うえだ、もっとがんばらなくちゃ!」
半ば放心状態でクレアはうえだのお腹をキックします。
―それが思いもよらないぐらいの究極な一打となってしまったようで…
うえだはぴょんと跳ね上がり右によたよた左によたよた、不器用によろめいたとたんに首を大きく振ってバタバタと走り出しました。愛馬の思いがけない奇行に面食らって不安定な鞍の上でバランスを取る間もなく、クレアは易々と馬の背から放り投げられてしまいました。


遠のいた意識が戻ってくると、クレアは自分がやわらかくて清潔なベッドに寝かされているのに気がつきました。
「ああ、よかった! クレアさん、大丈夫?」
「気がついたようでなによりだよ、クレアくん」

2つの人影、養鶏場のリックと、そのリックの言葉に反応したようにうなずく診療所のドクターでした。それじゃあ僕は席をはずそう、冷静な声で言うとドクターはその場を離れ、クレアはリックと2人きりになりました。

「今日さ、うちのメリザンドが大きな玉子を産んでくれて」
―リックがあまりに真面目くさっていうのでクレアは笑い出してしまいました―
「で、せっかくだから君にあげようと思って牧場に行ったら、君ったら畑のまんまんなかで見事に伸びちゃってるんだもの! うえだが手綱と鞍をつけたまま牧場の端っこにいたから何があったかすぐに分かったよ」
それでここに連れてきたんだ、リックはそこまで言うとクレアを抱き起こしました。
「またあいつのことを考えてて落馬したんだろ。今月に入って何回めだい?」

ミネラル医院のベッドの上でクレアは頬を赤らめはにかみます。どうやら自分の落馬癖の原因は、公然の秘密になってしまっているらしい。少なくとも、「あいつ」とは犬猿の仲のリックには手に取るように分かってしまうのでしょう。クレアは苦笑しました。
「恋煩いね、困った話。彼との約束を果たそうとして落馬ばっかり」
やれやれとリックは肩をすくめ首を横に振りました。あきらめにも似た表情が彼の顔を支配します。しかし、クレアの恋人と敵対関係のはずの彼のその顔にはある種の優しさ、穏やかさが垣間見えました。
「そんなんであいつが喜ぶと思う? もっとしっかりしなよ、クレアさん。この僕にまであいつのこと言わせる気かい? だけどさ、分かっちゃうんだよな、あいつ、君に首ったけ、本気で惚れてんだぜ」
ほら、メリザンドの玉子、リックはそっとクレアの手に大きな純白の玉子を握らせました。
「ペレアスとメリザンドの話、知ってるよね」
クレアはこっくりうなずきました。

マリーの図書館で少し前に読んだことのある、フランスの戯曲、『ペレアスとメリザンド』。ペレアスの兄ゴローはある日森の奥でメリザンドと出会い、彼女をお嫁に迎えます。けれどもメリザンドはペレアスと相思相愛になってしまい、大人気なく弟に嫉妬したゴローはある晩ペレアスを殺し、自分はメリザンドと心中しようとして…。

「僕はゴローの幸せなんてちっとも望まないよ」
「リック…」

手に握られたメリザンドの玉子。

リックはクレアをメリザンドになぞらえて。そして「あいつ」をペレアスになぞらえて。そして自分はゴローのつもり。本当は「あいつ」にクレアを奪われるのは悔しいのだけれど、自分が「あいつ」からクレアを奪ったらかえって待ち受けるのは悲劇のみ。クレアはほおと深いため息をついてリックの落ち着いた瞳に見いりました。

「それにさ、家の妹もあいつに惚れてる。君があいつを奪ってくれれば僕は可愛い妹を失わずにすむってわけだ」
腰を上げやれやれと頭を振るとリックは診療所を出て行きました。
「って、ちょっと、リックっ!」

ロマンチックなたとえ話のあとに間髪いれずに投げつけられたシスコン魂に、クレアの心の緊張は一気に緩んで全身の力が崩壊します。バカバカしくなってへらへら笑いながら、けれどもクレアははたと思い直しました。

リックも「あいつ」も私のことを本気で想ってくれていて。「あいつ」は実際の距離こそ遠くからだけど、心の距離はずっと近くから。リックは私の傍らからだけれども、心の距離はずっと遠くから。でも2人とも、私がどうしたら嬉しいか、どうしたら元気になるか一生懸命考えてくれているところはまったく同じ。

―私、がんばらなくちゃ。彼の恋敵からもバカにされてるようじゃいけないわ―

家に帰り、改めてカレンダーを見ると春の草競馬の日には大きな花丸のマーク。真剣な気持ちになってそのしるしを見据えると、クレアは大きくうなずき頭を振りました。

白いスタートラインから好スタートを切ったうえだ号は、クレアに励まされながら、ありた号、とおる号を前に行かせ馬群の3番手を追走します。残り100メートルを切ったところで追い出しの合図。前を行く2頭にあっという間に襲い掛かり、並ぶ間もなく突き放します。残り50メートルで完全にセーフティリードを保ったまま、クレアとうえだは余裕でゴールのラインを踏み越えました。

場内から沸き起こる歓声、馬の首を叩いて愛撫し、ついで互いの健闘をたたえてありた号、とおる号との騎手と握手をして、クレアは彼との約束を果たした喜びにうっとりと陶酔しました。彼を想う気持ち、それは時にはクレアの心をかき乱し、彼女を悪いほうへ悪いほうへと引っ張りかけたけれども。今はその気持ちがクレアの励みに、そしてひたむきにがんばろうとする原動力となって―この栄冠を手にすることができたのです。

数日後、ポストを確認していたクレアは「あっ」と小さく微笑みました。よほど急いで書いたのでしょう、乱雑な字で、しかし想いだけは紙面からあふれんばかりにこめられた一通の手紙―

『草競馬優勝おめでとう、ごめん、あんまりにも嬉しくって、あわてて書いてるけど、字、汚くても悪く思わないでよ、もう少しでそっちに帰るから。―にんじんどっさり持って。俺、ずっとここんとこ、クレアが馬から落ちる夢ばっかり見てて、すごく不安だったんだ。だけど昨日、ありたの騎手からクレアとうえだ号が勝ったって話聞いて―ホント、よかった。―なんで手紙書いてるか、わかるよね?…』

ふと読むのをやめて無邪気に笑って独りごちます。

「わからない」


『―君が好きだから!』

カイ祭のお題「遠くに想う」に寄せた作品です。…いや!いつもビットールさん(岡田徹)の夢をみてから馬に乗ると落馬してしまう己に気がつき(命のかかわることなんだからもっと早く気づけ・怒);物理的な距離が離れているとクレアさんも精神的負担重くなるだろうに、それに負けずがんばる彼女が好きです♪リックのメンドリの名前、「メリザンド」にしようか「イゾルデ」にしようか「エリーザベト」にしようか悩んで「メリザンド」;リック兄さんは妹をだしにしつつ、恋の諦念を識る憎くも粋な青年です。


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