生姜はお好き?

「おやドクターさん、今日もプレゼントラッピングですか」

雑貨屋の主人は八の字に生えた薄い口ひげの下で大儀そうに笑います。そして淡い黄色の包装紙を取り出すと、慣れた手つきでプレゼントの箱を包みながら、もったいぶるように薄く口を開け、旦那も隅に置けませんなァとため息交じりに続けます。がそれは感嘆というよりむしろ、呆れに近いため息ですらありました。

しかしこのようにジェフから軽くあしらわれても、ドクターは動じませんでした。というのもたった今、チョコクッキーの包み紙を持って、オス猫よろしく忍び足でミネラル医院をあとにするのをエリィに目撃され、優しい彼女からもジェフが言ったのと同じことを―女性言葉で―言われ、己に向けられた侮蔑の文句に対する免疫がすっかりできあがってしまっていたのです。

「ソナタ形式は」
と、彼は教会の神父が例によって毒にも薬にもならないことをわざと小難しく聞こえるように言う、あの調子と文句をそっくりそのまま真似して眉を釣り上げました。
「第一主題を提示したあと、主題が長調ならば属調、短調ならば平行長調である副主題が提示され、展開部に入り、そして先の主題、副主題へと戻ってゆく。はじめから主題と副主題とをいっしょくたにしてはいけない、というのも展開部において、主題、副主題のもつさまざまな要素は自由な転調のうちに加工、展開されなくてはならず、加えて2つの主題を再現するときには、両者を対等に主調として表現しなくてはならないからだ。さて今回の場合、主題は昨日、つまり彼女の誕生日にあたる。そして副主題である今日は、春の感謝祭だ。確かに『記念日に彼女にプレゼントを渡す』というモチーフそのものは昨日も今日も変わらない。しかし要素が違う、僕が昨日頼んだのはチョコレートのケーキのラッピングで…」

同じチョコレートでも今日のプレゼントはクッキーなのだ、と彼は言いながら自分でもバカバカしくなって笑い出します。では、いかにこのソナタを展開していけばよいのだろう、そう思いながら、カーターのマネをしたのがそもそもいけなかったのだと深呼吸一つして照れくさそうに頭をかきます。

「正直、困った話でね。今まで春の14日にこんな急かれる気持ちになったことはなかった、だのに今年は、たった昨日彼女に誕生日のケーキをあげたばかりだというのに、なんだかまだ気持ちが落ち着かないんだ」
「はは、参ったなぁ、ドクターさん。僕は医者じゃないけど、ドクターさんの病名ぐらいなら分かりますよ、それ、恋煩いってやつですな」

ああ、そうだろうとも。ドクターはにんまり笑ってジェフからプレゼントボックスを受け取ります。
「雑貨屋オーナーの君にゃあ男の最大の秘密なんてお見通しなんだろう、だからどうか今日知ったことは町の、とくに君の細君を含む井戸端会議のマダムたちに話してはいけないよ。口止め料として、今春の診察料はタダにしてあげるからね」
まわりにサーシャがいないかと店内を見渡しながらドクターは小声でなだめすかすようにジェフに懇願し、雑貨屋をあとにしました。


クレアくんと初めて会ったのも、今日と同じのどけき春の昼下がり…だったな。彼女に新薬をためしてもらったあの時に、もうすでに僕の胸は愛の天使の矢に射抜かれていたに違いない。そう自覚するのにはかなりの時間が必要だった、なにせ気丈な僕の胸はあの時それほど大きな傷を受けなかったからだ…そればかりかその傷口があまりに小さすぎたおかげで、僕も、僕の周りの誰もが、僕の怪我に気がつかなかった。だが傷口はあれよあれよというまに広がって、もはやどんな世界一の薬を使っても癒すことのできない病になってしまった。ああ、そうとも、医者は病気を治すことには長けているが、病(やまい)を治せる医者なんてこの世に1人としていないのさ。

それにしても医者の不養生とはこのことだな、ドクター。よりによって医者であるお前が、この不治の病を抱えこんでしまうとは!


心地良い自責の念に肩をすくませながらドクターは足を止めます。眼前に開けた広大な畑と牧草地。畑一面に広がるカブの葉。じゃがいもも小さな白い花をいっぱいに咲かせています。青々とした牧草は春風にそよぎ、冬の間はみすぼらしく黙り込んでいたりんごの木も、春の装い新たに小鳥たちの住処にその枝を貸しています。水車小屋のまわりには8羽の鶏。牧草地の中には上等な牝牛とふわふわの羊が占めて6頭! とうとう辿り着きました、町の最南端、クレアの大牧場です。
―それにしても。ドクターはふむと頭を傾げます。今日の牧場はなにかが足りないぞ、確かになにかが、こののどかな牧場に彩と躍動感を与えるなにかが。
…そうです! 畑半分に開拓された立派な馬場で、自慢の栗毛馬の調教にいそしむ彼女の姿がないのです!
「おかしいな。お馬の稽古、今日はお休みなのかな?」
不思議に思ってクレアの家の扉をノックしても、返事がありません。とたんに医者の第六感とでも言うべき好ましくない予感に襲われ、ドクターは失礼と思いつつもその扉を開けて家の中に入っていました。


体中を戦慄が走ります。細い黒の目が大きく見開かれます。彼はとびあがり、机の上に力なく突っ伏して細い息を吐いているクレアを抱き起こしました。
「クレアくん、…クレアくん! どうしたんだい、しっかりしないか!」
ふっと腕の力が抜けます。
―ひどい熱だ…。
額に手を押し当て、いやいやと頭を振ります。昨日はあんなに元気で、愛馬のグラーネを駆って、次の草競馬で絶対優勝するんだって意気込んでいたのに。確かに夕べは若干冷え込んだ、温かい春の陽気に油断して薄着で眠ってしまったのか。それとも僕のケーキにあたってしまったなんてことは。

…それも十分考えうるな。

そう思いながら大きく深呼吸し、ドクターは診察を始めました。それにしても。「プレゼント」という主題に始まった僕のソナタの展開部がもし「クレアくんの食中毒」だとしたら。…なんという皮肉であろう! それは医者である僕に対する試練か、それともこの清らかな乙女に惚れてしまった身の程知らずの不器用な男に対する、教会の穏やかな天然悪魔神父より与えられたもう天罰の春雷か! 苦しそうに熱い息を吐くクレアをそっとベッドに寝かせ、ドクターはほおっと肩をすくめ立ちすくみました。

ミネラル医院に戻れば薬はいくらでもそろっている。彼女が寝ているうちにそれをさっと取りに行って、彼女の枕元に置いてすごすごと医院に退散してしまおうか。彼女は目が覚めたとき、医者の往診に気づいて薬を飲んでくれるだろう。そして、ドクターはなんと霊感の鋭い医者だろうと意味もなく感激してくれるに違いない。

…だが。

無の闇に飲まれたような不気味な時間がいたずらに過ぎてゆきます。何を考えるでもなく、ドクターはクレアから顔を背け窓の下のほうを見つめていました。太陽から注がれた光がカーテンを通して床の上に淡い影を作ります。凍りついた部屋の中で唯一、その命のない生き物だけがユラユラと体をゆすりながら時の経過を告げています。日は心持ち西に傾いたらしい、そう悟った刹那、ドクターは言いようのない焦燥感に駆られ頭を振りました。

―僕がなかなか帰らないのを不審に思ったエリィが僕を連れ戻しにここまで来ないだろうか。ジェフやリリアさんが突然体調を崩して医院に担ぎこまれやしないだろうか。はたまた今日に限ってこの平和な町で争いごとが起こって誰かが大怪我を負わないだろうか。

―踵を返そうとしてドクターは体をこわばらせます。

―お前はそれを望むのか、ドクター。クレアくんのそばにいることに恐れを抱いたか。その恐れから逃げ出すためにお前は、町のほかの誰かの不幸を望むのか…!

―ドクターの体の内に得体の知れぬ病巣が膨れ上がり、あやふやなドクターの影を踏みつけます。

首をたれ、足元の貧弱なそれを見つめながら、もはやドクターは黙りこくったきりその灰色の影を呆然と見つめていました。


「ドクター…」
細い絹のような声にドクターは意識を取り戻しました。いつの間に気がついたのか、クレアが青の瞳をうっすらと開けて自分を見上げています。
「気がついたんだね」
「うん」クレアは安心したように微笑みました。「少し前に…目が覚めたらドクターがいてびっくりしちゃった」
「僕も驚いたよ、君がすぐそこで倒れていたんだから。だけど診たところ風邪のようだね、で、風邪薬をとってこようと思っていたところなんだ」
「…でもドクター! なんで、なんであんな難しい顔をしてうつむいていたの? おっかない怪物が、ドクターのこと、いじめてるに違いないわ、だって、普通、風邪薬取りに行くのにあんな怖い顔することないでしょ? あんなにびくびくした目で床を睨みつけて、動くことをためらうことないじゃない」
「ああ」

ドクターは冷や水を浴びたように肩を震わせました。そして再度ゆっくりと首をふって、クレアの目を見据え優しく微笑みました。

「そうさね、僕は大きな怪物と戦っていたんだよ。それはそれは手ごわくてね、まだ決着がつきそうにない。だけど、今、君の声がしたんで、やむを得ず休戦協定をむすんだところなんだ」
「じゃあ私、早く元気になって、ドクターの怪物を退治する!」
「それはありがとう、クレアくん」
無邪気なクレアの童心に突き動かされ、ドクターは決心を固めました。
「台所を借りて大丈夫かな?」

冷蔵庫から生姜を取り出します。そして手早くお湯を沸かし生姜湯を作るとクレアに手渡します。驚き、喜んでカップに口をつけたとたん…。
「かっら…ぃ! …これ…何…? もう、ドクターのバカっ!」
ハハと満足そうに笑いながらドクターは首をふります。
「昔、僕がまだ子供だった頃にね、僕はそう体が頑丈にはできていなかったんだろう、しょっちゅう風邪をひいては両親の手を煩わせていたんだよ。僕の家系は代々医者…って前に言ったかも知れないけれど、それは父方の話で、僕の母方のおばあちゃんは医学の知識なんてからっきしもなくてね、だけど僕にとっておばあちゃんはなくてはならないお医者さまだった。なにより、仕事で忙しい父さんや母さんに代わって僕を看病してくれたしね。だけど、それ以上におばあちゃんがいれてくれる生姜湯はどんな感冒薬にも勝る世界一の薬だった。…もう分かったろう、おばあちゃんの生姜湯、それは容赦ないぐらいに辛くて全身に沁みる特効薬だったんだ、ある日、どうやって作るのか訊いたことがあるけど、分からんねぇ、適当さねぇって軽く流されてしまったよ。無知だからこそなせた愛の鞭ってわけさ、僕はそのときしっかりと悟ったものだよ」

クレアは黙り込み、頬を赤らめカップの中を見つめています。

「…僕は結局家業をついで医者になった。大きくなってすぐに、おばあちゃんの知恵袋から処方される薬が、医学的にはたいした力を持たないことも知ってしまった。それなのに、長いこと新薬の研究にばかり没頭していたにもかかわらず、そうしている間中おばあちゃんの愛の鞭が鳴り止むことはなかったよ。医者である僕と、医者でない僕。さっき、君を診察し終わった医者である僕は風邪薬を取りに行こうとした、だけどすぐさま医者でない僕がそれに食ってかかった。医学に関してはとことん無知なうえに純真で温かな民間療法にしか通じない医者でない僕が、偉そうに、医学の知識で凝り固まった医者である僕を負かそうと奮闘したのさ、君を元気にする薬を処方できるのは自分しかいないと言ってね」

小さくうなずくと、クレアはもう文句一つ言わず、激しく咳き込みながらドクターの生姜湯を飲み干しました。辛い液体が情け容赦なく体中にしみ渡っていきます。喉もと過ぎれば熱さ忘れるとは真っ赤な偽りで、喉はおろか、食道も胃も、炎に焼かれたように熱くほてります。全身にたまった風邪の菌や毒素が蒸留され汗となって吹き出てくるよう、気がつけば額から玉のような脂汗がにじんでいました。すぐさまドクターが持っていたハンドタオルでそれをぬぐってくれます。同時にすがすがしいすんだ空気がふわりとほてった体を包んでくれました。なんとも言えない心地好さ、頓服薬を飲んだだけでは得られない安心感。ぼんやりしていた頭がすっきりして、イガイガしていた喉の痛みもみるみるうちにひいていきます。

「怪物退治はこれにて終了!」
いたずらっぽくドクターが笑うと、クレアもやった! といわんばかりににっこり口元をゆがめました。


あたりはもうたいぶ暗くなってきていました。時計に目をやり、クレアはあわててベッドから這い出します。
「鶏や羊ちゃんたちをお家に戻さないと!」
やれやれと肩をすくめドクターは穏やかに微笑みました。
「そう言うと思ったよ。病身の君ひとりでは大変だろう、僕もできる範囲で手伝うとしよう。今日は水曜日だしね」

クレアの鶏を抱きかかえドクターは大きく深呼吸します。さっきここに来る間に自問自答していた不治の病。その病を治す「せかいいちの薬」を処方できる人をクレアがいとも簡単に見つけ出してしまった。そしてその人は意外にも、ドクターに寄り添うようにして常日頃からドクターの傍らに待機していた。「恋煩い」に端を発した「プレゼント」に始まり、「せかいいちの薬」を見つけ出すところにまで展開したこのソナタを上手く結ぶとするならば、副主題であるチョコレートのクッキーに青い羽を刺してクレアに渡そう、そうしたら医者ではなく、クレアの夫となる自分が、「恋煩い」という病を簡単に治してくれるだろうから!

「結構な皮肉だ、だけど幸せの青い鳥とはまさにこのことなんじゃないか、君もそう思うだろう?」
腕の中のメンドリはあたかもその優秀な医者を侮蔑するように声高らかに「ケッコウ、ケッコウ!」と答えるのでした。

ドククレお題の「せかいいちの薬」。種類をとはず、せかいいちの薬は医学では処方出来ないお薬なのだろうと思いますです。それにしても、なにゆえ「ソナタ形式」が持ち込まれてしまったやら…。今度は「フーガ形式」のドククレなんかも書いてみようかしら←


inserted by FC2 system