秋の草競馬

「お兄ちゃん、ぜったい勝つよね」
無邪気な瞳を輝かせ、お隣のヨーデル牧場の孫娘メイちゃんが俺の顔をみあげる。ついさっきまで「期待しないでくれ」の一点張りだった俺も、彼女のそのいじらしい瞳にはかなわず、ついに「うん」と小さくうなずいた。しかしその態度が不満だったらしく、少女はもう一度質問を繰り返す。
「勝つよ、きっと」
「ぜったい?」
「…うん」
やれやれ、どうやら彼女は満足したらしい。嬉しそうにうなずいて、「メイ、応援してる!」と叫んでテントの中に駆け込んで行った。


今日は秋の草競馬。春の草競馬に続いて連覇を狙うとか、または春に負けた分の巻き返しをはかるとか、そう言いたいのもやまやまだが、俺の愛馬は春の草競馬は見送っている。理由は単純、調整が間に合わなかったからだ。

都会にいたころはちょくちょく競馬好きな親父について競馬場に遊びに行ったものだ。もちろん馬券−いやいやチケットは買えないから、観戦しかできなかったけど。 親父はよく俺を馬の下見所である“パドック”に連れて行っては「どの馬が勝ちそうか?」と俺にしつこく訊いてきたし、俺も子供ながらちゃっかり予想屋の一人に加えてもらっていた。 そのせいもあって、俺の馬を見る目、いわゆる「相馬眼」とか言うのはこのミネラルタウンの誰よりも優れているらしい。

たとえば、何の根拠もないのに穴馬ばかり狙うマナさん。名前とか直感でチケットを買う気分屋のポプリちゃん。薄い眼鏡の下では真剣な顔つきをしておいて、結局は何も考えていないと思われるリック兄さん。知人が出るからその馬に賭けるとか、ありがた迷惑なことを言うマリーちゃん。

こういった町人には酔っ払っていたって負けやしない。だけどおかげさまで、俺以上に馬に詳しいであろうムギさんには一度会っただけでこの相馬眼を見抜かれ、仔馬を預けたいと持ちかけられた。 犬を除けば初めての家畜、おまけにあこがれの馬主になれるときいた俺は何も考えずにオーケイをだしてしまったのだ。

そう、その一言で、俺は俺の喜ばしくない愛馬と出会うことになってしまったのだ。


俺の愛馬、グラーネは生まれてすぐ母馬を亡くしたそうだ。当然のことながらムギさんとメイちゃんが彼女の母代わり、だけどそんなことで母親を失った仔馬の心の傷が癒されるはずがない ―もちろん、それをもっともよく知っているのは他でもないメイちゃんだと俺は信じているけど―。さらに血統もそれほど良くないとのことで、一時は処分と言う話も持ち上がったそうだ。

なるほど、彼女を引き取り、調教を始めてみると、彼女の精神的なもろさが手に取るように分かる。まず、極端な臆病者なのだ。犬や鶏と言った俺の大切な家畜はもとより自分の影さえおびえる始末。それから、走り方を知らないのか単に怠け者なのか、マシなタイムはださないし、ちょっとでも手綱を緩めると走るのをやめてしまう。普通の馬主ならとうにお手上げ状態で「処分」案が再度頭をもたげているところであろう。


だが動物好きの俺はそんな消極的な解決案を出すほどバカじゃない ―だからムギさんは俺にグラーネを預けたのだと俺は自負しているのだが―。さすがに春の草競馬にはまったく調整が追いつかなかったが、夏の間とにかくトレーニングにトレーニングを重ね、ようやくのことで彼女の馬のとしての本能をちょっとだけ引き出すことに俺は成功した。結局臆病な性格は矯正できなかったが、怠け癖はなんとか治りおそらくはどんな馬にも負けないぐらいの速さで駆けることができるようになった―もちろん俺が気を抜かなければの話だが―。

そういうわけで、この秋の草競馬参戦を決意したのである。秋の風は普段は心地よく、とてもいい香りがするもの―だから馬だって人だって食欲がわくわけだが―なのに、今日の俺にとってそれはヒンヤリ冷たく感じられ、まるで凍った指が全身に触れるようだった。俺が足を運んだ競馬場では、決まってメインレースの時にその日のハズレ馬券をぶちまける無作法なファンがいたものだが、そいつらの冷たいざわめきが俺の耳をくすぐるようで俺は吐き気をもよおした。

一体なんなんだよ、この感覚。

朝方には俺は別段普段と変わりなくすがすがしい気分だったのに。だって、愛馬のデビューだぜ、それも夏の間牧場の仕事もそっちのけで育ててきた思い入れたっぷりの愛馬の。もちろんそれなりにプレッシャーはあったさ。俺は勝ち負けはついてくるものだと思ってる。それ以上に大切なことは俺の愛馬がどんだけの実力を持っているかを確かめること。そのためにはなんとかグラーネの実力をフルに引き出してやらないといけないからな。だのに、メイちゃんに会ったとたん、俺は今日絶対勝たなくちゃいかんと思ってしまったんだ! おまけに当のグラーネはすでにスタート地点にたってブルブル震えている。寒いんじゃない、怖いんだ。他の馬が…。いくら草競馬とはいえ、出走頭数はたったの四頭。こんなんで怯えるようじゃ話にならない、とあきれながらも俺は必死で馬と自分をなだめていた。

「大丈夫さ、グラーネ。他の馬はお前に食いついたりはしねぇからな」

俺の牝馬はぷるぷると頭を振る。だいたい、こんな臆病者にはちゃんと矯正具というものが与えられて然りなのだ。音の聞こえを和らげて周囲の音による動揺を抑える“耳覆い”。頭に砂をかぶるのを嫌がる馬にかぶせる、“メンコ”。レース中、他の馬を怖がったりよそ見をしたりする馬に、視野を遮って前方しか見えなくさせる“ブリンカー”。足元を気にして自分の影におびえる馬の鼻の上につける“シャドーロール”。

残念ながら俺のグラーネにはすべてが必需品だろう。だけど、この田舎町ではそんなもの聞いたことすらないらしい。まあ、人間が作ったもので馬の頭をガンジガラメにするのは喜ばしいことじゃあないんだけどな…。

レースは千メートルの直線、馬場はさしずめダートといったところか。グラーネの戦法は否が応でも逃げしかない。俺はどんな感じでグラーネを誘導しようかあれこれ考えた。彼女のことだから、俺がそう願わなくてもバツグンのスタートを切るはずだ。だけど彼女は視界に他馬の鼻先が見えたら一発で走るのをやめちまう。だとすると…。

俺は冷や汗をかき、唇をかんだ。だとすると、とにかく初めから最後まで全力疾走させるしかない。
「よし行くぜ、グラーネ!」
俺の頭ンなかに、グラーネと同じ栗毛馬が浮かんだ。ハイペースで二千メートルを逃げ切った馬さ、何て名前かは知らんよ。だけどそんなに有名な馬じゃあないはずだ。だから、グラーネだってやろうと思えばそいつのマネができるはずだ。とにかく、逃げて逃げて逃げまくる。行くぞ、グラーネ! 逃げ馬根性、見せつけてやろうぜ!


「それではーっ、よーいドン!」

ピッピー! 俺の思惑通り、グラーネはこのホイッスルにビックリして気が狂ったように走り出した。俺がさらに一発二発出ムチってやつをくれてやると、彼女は手がつけられない荒馬のようにどんどんスピードを上げて他の馬を引き離していく。
(よし、いいスタートだぞ、グラーネ!)
好スタートを切って先頭(ハナ)を奪うためには“小脚を使って無理なく走り出し、回転襲歩でスピードに乗って、交叉襲歩に移行する技量”ってヤツが必要だ。馬のくせに走りの下手くそなグラーネがそんな高度な技を使えるはずがない。だのに、スタートダッシュは殊の外上手く行った。馬でも人間でも死ぬ気になりゃなんでもできるもんだな。グラーネよ、頼むからゴールするまで死ぬ気で走り続けてくれたまえ…。

とにかくこっちが手綱を緩めたりとか追うのをやめたりとかすると、グラーネも走るのをやめてしまうから、俺たちは体力温存のために“息を入れる”とか“馬なり”で駆けるとかはできない。これは馬はもちろん、乗っている俺にもけっこう負担なんだけどな。でも有難いことに、他の馬は猛スピードで逃げまくるグラーネを追いかけるようなバカなマネはしてこない。つまり俺たちはノーマークだ。あわよくば他の馬が追いつく前にゴールのラインを踏んでやれるさ…。そう思いながら、俺はぐいぐいっと手綱を引っ張って、ムチをグラーネの目の前でちらつかせた。

手綱は馬の口の中にかませてあるハミにつながっているから、手綱を短く持てばハミが引っ張られて馬の奥歯にガチっとかかる。こうなると馬も本気で疾走するってワケ。幸い、グラーネは俺のこの指示を素直にきいてくれたらしい。すかさず、さらに力強く手首を上下させて手綱をしごく。まだゴールまで五百メートルはあまっているから、ここで全力を出すために尻ムチなんかやったらゴール直前でバテてスピードダウンするのが関の山だ。他の後続馬のお望みどおりにな。残り四百メートルを過ぎるか過ぎないあたりから、グラーネのスピードが落ち始めた。まあ、前半のハイペースを考えれば少しぐらいバテたって無理もない。

だけど、後ろに待機している残り三頭に追いつかれたらおしまいだから、俺は手を休めなかった。加えて、彼女の肩にバシバシっとムチを入れて気を抜かないように促す。後ろでもそろそろ俺たちに追いつこうと他の三人の騎手がおのおのの馬を追い始めているだろう。手綱を片手で持って引っ張りながら、俺は後ろをちらりと振り返る。残り三頭は横一線に並んでいる。まだ本気にはなっていないらしい、だがジョッキーたちの手が動いていることは確かだ。向き直ってグラーネの鬣に顔をうずめる。勝負はココからだ…!


腕の下でグラーネがうなっている。後ろにいる三頭が雷のように蹄を轟かせ俺たちに迫ってくる。 はっはっと声を荒げ、手綱をぐいぐい押し、グラーネの尻にムチをあてる。グラーネの足が力強く砂をかいているのが分かる。砂の上を走るのは彼女にとってまったく苦ではない、畑での調教で知らず知らずのうちにパワーとスタミナが養われていたからな。

しかし…。

俺はだんだん手綱の手ごたえが怪しくなるのを感じて冷や汗をかいた。後続馬が迫ってきている。グラーネはその後ろから襲い掛かってくる魔物の姿を必死で探ろうと、耳をくるりと回して首を傾けていたのだ。三馬身、二馬身、一馬身…。ガッガっと砂を蹴る蹄の音に交じって荒々しい鼻息やステッキの飛ぶ音が聞こえた。

―ライバルはすぐ近くにいる!―

あともう一完歩で俺たちに並びかけるかもしれない…。わぁっと手を広げメイちゃんがゴール付近で微笑んでいるのが見えた。グラーネ同様、母親のいないメイちゃん。今日のグラーネのデビューを誰よりも心待ちにしていたメイちゃん。チケットは買えずとも、どんな競馬ファンにも負けないぐらいに精一杯に俺たちを応援しているメイちゃんが…。いかん、後ろを気にするな。前だけを見つめろ、栄光のゴールを!
「前を見ろ、グラーネ! 後ろは野菜畑だ!」
グラーネは俺の声に応えるように首を上げ耳をピンと立てた。だがそれと同時に、怒涛のごとくつっこんできた三頭が俺たちに並びかける。その瞬間手綱の手ごたえが全くなくなって俺は頭ン中が真っ白になった。

思ったとおりだ、グラーネはひるんだんだ…。ごめんな、メイちゃん、やっぱりムリだったよ…。しかし、残り百メートルで奇跡が起きた。一瞬緩んだ手綱が突然ピンと張り手応えが戻ってきたのだ! どうしたグラーネ、なにが起こったんだ…いやいやそんなこと考えているヒマはない! 半馬身遅れていた俺たちがぐっぐっと盛り返したときには大きな歓声が沸き起こった。

がんばれグラーネ、あと一歩、もう一歩…。

俺は体の下で彼女の末脚が炸裂するのを感じ夢見心地で手綱をしごいていた。グラーネ、これはメイちゃんが提案した名前だ、図書館でマリーちゃんに北欧神話を読んでもらったらしい。それに登場した“グラーネ”という名の天馬がとても気に入ったそうだ。メイちゃん、俺も、今なら彼女に“グラーネ”の名はふさわしいって自信を持って言えるよ、雲と雲の間を稲妻のように蹄を鳴らして走る天馬の名が、な…。

「グラーネ、がんばったね!」
レースを終えるとすぐメイちゃんが飛びついてきた。ぶるんと首を振ってグラーネはひょいと斜め後ろに跳ね上がり俺は危うく落馬するところだった。
「ホーラホーラ…なにおびえてんだよ」
情けないことに、グラーネときたらメイちゃんの勢いにビックリしてしまったようだ。彼女の首をさすってなだめると、俺はメイちゃんに微笑みかけた。
「声援、サンキュ、メイちゃん」
少女はぱっと顔を赤らめ、うん、と小さくうなずき、グラーネを見上げた。
「メイね、グラーネみたいなリッパなオトナになる…」
「おうよ、約束だぜ」
そ、俺は本当はその一言が欲しかっただけだったのかもしれない。それにグラーネも…。だから、さっき並ばれたときにひるまずなけなしのヤル気を出してくれたんだろう。

ああ、きっとそうだ。

やっと涼しい秋の風を感じることができて、俺は妙に幸せな気分になった。馬みたいに鼻をヒクヒクさせてそのいい香りを胸いっぱいに吸い込んで、愛馬の背に身を預け、その不思議な歓喜にどっぷりと浸りながら…今俺の下にいる愛馬も俺と同じ気持ちでいてくれたら、と切に願うのだ。

だけど、やっぱりどうも怪しいな。澄んだ秋の空気に乗って、奇妙なラッパが鳴り渡る、そう、俺の自慢の愛馬、グラーネの「ぶるるん」という“鼻ラッパ”が…。

秋になったので気合を込めて秋の草競馬!(誤)生まれてすぐに母親を失って精神的にもろくなった馬のエピソードを読み、この話を思いつきました。くわえて、初めて、気合を入れて書いた競馬創作です(苦笑)途中にひょっこりでてくる栗毛の逃げ馬は元競走馬の「ローエングリン号」のつもりであります。


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