ひとはなぜちんちんのやかんに素手で触れてしまうのか?

「ふむ、クレアチンか。…おや、クレアくんか、どうしたんだい。いつにまして浮かない顔で」

新薬の研究でびっしりのノート越しに彼は目を吊り上げる。優秀な医師が敢えて「いつにまして」という言葉を選んだのにさも一理ありと言いたげ、クレアはうなだれたまま黙りこくっている。

「わかった。またうえだくんが悪さをしたんだね」

はずれー、とクレアは首を振り、上目づかいにドクターを見る。

「もう、ドクター! お馬が原因ならなにもここに来たりはしないわ」
「なるほど、馬は馬屋か」
「そうじゃなくて! あのね…バラの花が私をぶぢょくするの!」

ドクターはノートをわきにのけると、わざとらしく鼻で深呼吸し咳払いひとつ、そして吊り上げた目を細め、結果的には眉をひそめることになる。

「けしからんバラだ、君に何をしたって?」
「あのね…白いバラと赤いバラを一輪ずつ買ったの。同じようにいけておいたのよ、紙コップに。そしたらね…白いバラだけ開いたの!」

クレアが無邪気な調子で思いがけずエロティッシュなことを言うのでドクターは内心どきりとし、しかしその内面の動揺を見せては公私混同たる悪事に手を染めるに他ならないと自分を叱りつけ、努めて穏やかな顔をひねり出すと、クレアと同じぐらいに無邪気な調子で彼女をなだめにかかる。

「それじゃあ明日には赤いバラも開くはずだ、花が開くのは自然の摂理で、タイミングのずれはあるにせよ、極めて正常な現象なのだよ」
「違うわ、ドクター! 違うの。赤も白もドライローズにしようと思っていたのよ、それなのに白だけみっともなく開くなんて!」

必死で必要以上に医者の立場を装っていたドクターの色白の頬がほんのりバラ色に染まる。なんだ、そんなことだったのか、変な妄想をしてすまなかった…。

「クレアくん、それじゃあドライローズにするつもりのバラをわざわざ水にいけたお天気屋はだれかな?」
「あら、私はドクターを信用しすぎていたのね。ドクターはもっと奥ゆかしい人だと思っていたのに」
「それはお気の毒に。もっともらしい前振りはいいから、さあ言ってごらん、具合の悪いところは診てあげなくちゃね」
「胸がずきずきするの、つまり、そのう…最近私の心を奪う人がいて困っているの」

ドクターはほんの一瞬、忌々しく眉間に皺を寄せる。その一瞬をクレアは見逃さない。

「クレアくん、ここは情愛セミナーじゃないんだ。その手の話なら、となりのカーターさんのほうが安全にかつ慈悲深く説いてくれるはずだよ」
「安全? そう、確かに安全かもしれないわ! でも神父カーターさんの慈悲で済む問題ならやっぱりわざわざドクターに相談に来るかしら?」
「うーん、そうか…そうやって君はボクの脳のしわを増やすのだから」
「頭の中がきゃべつなのは私のほうよ! 私ね、ようやくわかったの。本命は対抗になりうるけど、心は本命と違うって」

クレアは金の長髪をローレライのように手ですきながら思いつくままに語り始める。

「彼はね、私がどう頑張っても手が届きそうにない遠いところにいるの。ときどき近寄ってもくれるけれど、それが本心ゆえか義理なのか、私には分からない、だから長いこと、私も彼を誤解していたのね。自分が彼に射抜かれているなんて、ちっとも気が付かなかった! もちろん、初めて出会った時から私、彼にはそこはかとなく魅力を感じていたのよ、彼は大胆な中にほんのりと繊細な心遣いを忍ばせるんだから。ううん、もっともっと、言葉じゃ言えない奥深さが、彼にはあるはずなの! それってきっと、私にしかわからない彼の魅力なんだろうけど、惹かれている私にも分からない始末なの!」

ドクターが苦々しい顔で自分の話を聞き流していると気が付き、クレアはさらに口調に熱を込める。

「不思議な感覚なの、抱いている私ですら、分からないのだから! 私ね、彼は私の本命さんって思っていたの。だってお隣のリックくんのこと、私、信じられないぐらい大好きなのよ、リックくんの前じゃ膝が震えて、言いたいこともちっとも言えないぐらいなのよ。だけどそれじゃあリックくんと彼とでどっちのほうが意味不明な魅力を持っているかって、そりゃぁ、彼のほうがよっぽど得体が知れないのですもの。その神秘的な力っていうのか、私の手が届かない、天井の星飾りみたいな存在こそが本命って言うものなんだろうって私、思ってたの。

…でも違うみたい、この町の、彼以外のどんな男の子のうわさも評判も、私、ちっとも気にならないわ。ローズ広場で、ほら、毎日のように、淑女たちによる井戸端会議が開かれるでしょ、私の大好きなリックくんとか、よぉーくやり玉っていうのか、議題にのぼるのよ。そこでね、大好きなリックくんのこと、どれだけ褒められようがけなされようが、私にはとんじゃかないの。大好きな人が理屈であろうが屁理屈であろうが、けなされるのを聞いて嫌な思いをしない人も珍しいと思うけど、どういたしまして、リックくんのこと、どれだけ言われようが私にはなんにも刺さらない。恋は盲目、あばたもえくぼってこのことかしら、そう私、思ったりもした。

…でもね、他人の欠点をいいように解釈してうふふ♪が出来るなら気も楽なもん、いまから思うとリックくんこそが、敢えて言えば、私の本命だったんだわ。で、これまで本命と思ってきた彼のことが議題に上がると、私、もう、すべてが悪口に聞こえてしまうの。リックくんには許せる酷評も、彼には許せないし、淑女たちが彼を誉めてもそれは皮肉にしか聞こえない。淑女たちに自分を強要したくもなる、彼のことを分かって欲しい、っていうのは同時に、彼に惚れてしまった私のことを分かって欲しいってことでもあるの。でも私だって分かってるのよ、彼女たちと私とは生まれも趣味も感性も全然違うって。強要なんてできっこないし、私は私だけに分かる彼の魅力を甘んじて感受すればいいんだって。

それなのに彼のこととなると、褒め言葉だろうがけなし文句だろうが彼に惚れた私の感性まで頭ごなしに否定され、自分がとても矮小な存在に思えてしまう。そうするともう、彼の魅力ってなんなのだろう、なんで私、あんな田吾作野郎好きになっちまったんだろうって思っちゃうの。心変わりしたんなら、素直に諦めていいのよ、神さまと違って人間なんて、変化を好む生き物なんだから…って言うのは淑女たちの弁。

それができるならとっくにしてるわ、どれだけ私に対する彼の魅力が翳っても、私は彼を諦めることはできないの。リックくんになら簡単にできることが、彼となると無理なのよ。

…ねぇ、ドクター! つまり私の本命の定義がそもそも間違っていたのよ! だって、ちょっと考えてみればわかることじゃない、本命って言うのは、ある意味その場限りのものなんだわ。だからいつか心変わりしたらあっさり切ることも、対抗に下げることもできる。もっとも、いよいよ愛想をつかして切った途端に絡んでこられると、身も心もお豆腐みたいになって、涙ぬぐって徹夜で反省会だけど…でもね! 心変わりをしても、懐疑の念を抱いてしまっても、それでも離すことが出来ない相手、それこそが本命ですらない、もっともっと高次の何かなんじゃないかって、私思うの!

高次でかつ天井のお星さまでもない、すぐ手の届くところに居て、疑えども最後まで信頼できて、安心して、くだらない相談も、楽しいことも、大喧嘩も、些細な揚げ足取りもできる、それよ!!

リックくんがなにかすっこけたら、あらあの人頑張ってるのに、いやん、可哀想! て、私、言うわ。そして彼がこけたらもう…乙女を泣かせた見返りに極悪人っ! て心の底から言ったげる、情け容赦もなく。なんでそんなことできるかって、もう言わなくてもいいでしょ。リックくんへの憐憫は判官贔屓みたいなもので、そう、憐憫でしかない、リックくんは彼よりもはるかに私のなかでは弱者でとるにたらない存在なんだから。安んじて、リックくんに、ううん、リックくんだけじゃなくって、宿屋の3人組やら、グルメマンさんやらホアンさんにもよ、安んじて極悪人! なんて言えるわけないでしょ。カーターさんなんて勿怪のほかよ!」

なんと! ドクターはそこまで苦渋の面持でくそまじめにクレアの話を聞いていたわけだが、どうやら自分がとんでもない思い違いをしていた、いやさせられていたことに気が付き目を見開く。勝利の笑みが薄く開いた口より漏れ、彼はすんでのところでクレアの言葉を遮りそうになる。

「…ああ、ドクター! 一体彼は私になんてことをしてくれたのでしょう? 私から不遜なあざけりを買う羽目になってしまった哀れな極悪人は? どうしてその田吾作野郎のこととなると、私はこうも理解不能な感情になってしまうのでしょうか?!」

するとやはりさっきの白バラは!

「君がボクを心安く極悪人と呼べるのなら、ここまでボクに散々嫌な思いをさせたご褒美までに、ボクは君を心から性悪女とでも呼んであげよう」

ドクターは辛辣な言葉を無邪気な笑顔にのせ、まったくそこに深刻な真意はないような口ぶりで言ってのける。思いがけない彼の言葉にクレアは面をくらって口をつぐむ。

「白バラが奥ゆかしさをかなぐり捨てて熱狂的に開いたというのは君を心安く侮辱している証拠ではないか…そればかりか白バラは皮肉にも、君の苦しみを祝福してさえいるのだよ!」

彼の言葉で言うところの「たくましい」彼女の体を白衣の花びらに抱え込むと、何の所作によるものか体中の力を抜いてぐったりとしている彼女にじっとりと官能的な接吻を重ね、ドクターはクレアの問いかけに無言の返事をした。むせかえるような熱き花の抱擁のなかで、クレアはじんわりと感覚のもどってきた手に力を込めドクターを抱き返す。土いじりのなかで冷え切った手先が腫れ上がりそうに熱くなる。…

**

ぱちんと夢がはじけ2人は我に返る。

「すまない、ちょっと気が早かったね。モエ・シャンドン…ではなくてお茶でも飲もうか」

ストーブの上でちんちんになっているやかんの取っ手をつかみ、ドクターはクレアに打診するが、とどのつまりクレアは、答える代わりにやかんを素手でつかんでしまい、傍から見れば結果の分かっている己の愚行で大火傷を負ってしまったということなのである。

ドククレお題「時には熱く」。ある人のことで悩んでいると相談に見せかけドクターに告白を試みるクレア、一方のドクターはライバル出現を宣告されたと覚悟したらその「ある人」が当の自分であることに気が付いて…というストレート路線かと思いきやこのオチ。本当の勝負は「えくぼ」が「あばた」になった時に始まるのですよ…。


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