独楽

年の瀬の忙しい時期に、ここの町では有名な植物学者であるバジル君がのこのこミネラル医院までやってきた。
「いいですか、みてくださいよ」と満足そうに微笑みながら持っていた小さな袋から古びた独楽を取り出す。「懐かしいなぁ、昨日家内が家を掃除していて見つけたんですよ。植え込みの間に落ちていたってね」
“植え込みの間”というのが、いかにもバジル君らしい。僕はそんなことに構っている時間もないから適当に流して彼を追い出そうとした。
「はあ、そうですか」
「そうって、これ、昔ボクが遊んでいたモノですよ。思い出たっぷりなんです。ドクターさんも昔は遊んだんでしょ?」
そりゃあなあ、と言いかけて僕は躊躇する。ふと思い返してみると、僕が独楽とか凧とかといった玩具で遊んだのが遠い昔の話のように感じられるのだ。何代にも渡ってつづいている医者の家に生まれた僕は、子供の頃から親の後を継ぐよう期待を寄せられていた。日々机に向かって関数や数列、微積分など今から思えば医療とどう関係があるのかよく分からない勉強を強いられ、遊ぶ暇なんかどこにもなかった。それに年中ほとんど無休で働いていた両親は僕と一度たりとも遊んではくれなかった。同年代の友人が独楽を回したり、羽根突きをしたり、凧をあげたりして喜んでいる最中、机と白いノートを見つめていた自分を思い出すとなんとも情けない、僕は独楽の回し方を知らないかわりに、難しい幾何の問題をいとも簡単に解ける医者になってしまったのだ。

こんなわけで僕が答えないでいるとバジル君は紐を取り出して、いいですか、見ていてくださいよ、と言いながら実に簡単に独楽を回してみせる。赤と青の色あせた独楽がくるくると回ると、なるほど、それはそれで可愛らしい。ふっと手をやって独楽を止め、バジル君は得意げに独楽を拾い上げた。
「ね?思い出しました? いいです、独楽って『独りで楽しむ』って書くでしょう? だからご自分でやってみないとどんなに楽しいものか分からないんですよ」

そういいながら何度も何度もまわしてみせる。こう見ていると、独楽という遊びが実に単純で愉快なもののように思われるので、つい、「僕にもやらせてください」と口走ってしまった。さあ、どうぞ、と嬉しそうに渡された独楽を指でつまんでじっと見てみる。はて弱った、と思いながら紐を受け取って独楽に巻きつけようとするのだが、この時点でもう僕とバジル君の間には大きなギャップが生まれてしまっていた。僕があんまりにも長い間、独楽と紐で思案に暮れているのでバジル君も痺れを切らしたのか、
「貸してごらんなさい、こうやるんです」
などといって手を伸ばすので、根っから負けず嫌いの僕は、いやいや、大丈夫、はあ、こうだと思ったんだ、と言ってゆずらない。


ところが、大丈夫であるわけがないのだ。それで、バジル君は、そうですか、といって僕を見守るのだが、さて、僕が相変わらず苦戦しているので、いよいよ嫌気が差したように、違う違う、こうですよ、といって僕の手を押さえる。いい加減疲れて気がめいってしまったので僕は独楽をバジル君に返して、
「いやはや、もう忘れてしまったよ。大体、肺と肝臓を同時に切ってしまうくらい不器用な僕が、こんな回し方も満足に知らない独楽を回せるわけがないじゃないか」
などと、つい自分の無力と無教養を暴露してしまったのでバジル君は驚くよりむしろ哀れみの目で僕を見た。
「そうですか、それじゃあ、ボクが教えてあげましょうか」
「なんならそうしてもらったほうが嬉しいでしょうなあ」

こう答えてしまったのが間違いの大本であった。バジル君は熱心に独楽回しについて解説を始め、時間だけが刻々と過ぎていく。もう今日はいいだろう、と言うのだが、いやいや、ドクターさんが回してくださるまで、といって引き下がらない。それでいらだってやみくもにやろうとするといよいよ上手く行かないので焦るばかり。


やっとのことでバジル君の期待に沿う結果を出した時には、隣の教会から晩鐘さえ聞こえてくる始末だった。バジル君は大満足して、授業料はタダにしておきますから、などと冗談を言って僕を少々馬鹿にしている。思わず僕は机の引き出しからノートを引っ張り出して、
「それでは今度はこちらの番といきましょうか」
と復讐を宣告すると、バジル君は顔をしかめ、
「いや、それはまたあとで。なにせ、もう夜中ですから」
はあ、それにしても今日一日で独楽回しが出来るようになってよかったですなあ、と言いながらバジル君は逃げるようにして帰って行った。


僕はふっと時計を見る。あの晩鐘は…除夜の鐘とも言うべきか。

牧物創作を書き始めたころの、習作中の習作です。これはまた、ドクターとバジルという珍しい組み合わせ。しかもどことなく台詞回しが北杜夫テイスト…;(何故)ドクターはありがちではありますががり勉くんで遊戯を知らずに大人になってしまった優等生のイメージです。


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