愛の答え

赤茶色に染まった秋の葉がいたずら者の北風に絡まれくるくると舞い落ちます。灰色の空にうっすらと浮かんだちぎれ雲は薄くたなびき、そこからのぞくお天道さまはかすかにほの温かい光をローズ広場に注ぎ、凍てついた空気は心もち淡い黄金色に染まっています。時折吹きつける空っ風は冬の到来を予言するかのよう。広場をぐるりと取り囲むように植えられた木々はだいぶ前に赤や黄色の衣をはぎとられ、広場のあちこちに色とりどりの落ち葉のじゅうたんが広がっていました。…けれども。そうした晩秋のわびしい情緒とは正反対に、街の人たちでにぎわう広場は明るく温かな活気に満ち満ちていました。

秋の豊穣を神さまに感謝する収穫祭、広場の中央におかれた鍋からは早くも胃袋をくすぐるすばらしい香りが漂い始めています。子どもたちは年に一度のお祭りに寒いのも忘れ、すっかり有頂天でごちそうの周りを走り回っています。こぞって自慢の品々を用意してきた井戸端会議常連のマダムたちは、よき話し相手ござんなれと自分の絶品を話のだしに普段にまして立て板に水流す饒舌ぶり。祭りを仕切るトーマスに、物静かな雑貨屋の亭主ジェフまで、男どもは浮き立つ心をおさえきれず飲めや歌えやの大宴会。果樹園のバーテンダーがワイングラスを、宿屋のオーナーが大きなジョッキをかついで走り回り、得意満面の酒飲みたちは次から次へとコップを開けては陽気に笑い、歌います。そしてこうしたお祭りの浮かれ騒ぎはいつまでも続くように思われました。…

―広場じゅうが喜びに溢れている…―
ローズ広場の片隅に置かれたベンチに腰をおろし神父は呻きました。彼はぐっと両手を目に押し当て、苦渋の気持ちに顔をしかめます。秋の空のように寂しく乾いた蒼穹がその肥えた男の胸の内にぽっかりと広がり、推して計ることのとうていできない巨大な力がそこで荒々しいけだもののように暴れ始めます。得体の知れぬ焦燥感に駆りたてられ、カーターはそっと手を下ろし真一文字に口を結びました。立ち上がって、猛々しい心の魔物から逃れるためこの広いローズ広場を飛び出しあてもなく駆けてゆきたい、そんな虚しい衝動に打ち勝とうと無理に体をこわばらせベンチにしっかりと腰を据えます。唯一力の抜けた両腕はだらりとだらしなく膝の間に垂れ下がり、なにを見ているでもないうつろな瞳は乳白色の空のある一点に向けられていました。

―神父でありながら…、神に仕える身でありながら…、神さまに感謝の気持ちを捧げるこのお祭りを心から楽しむことができないとは!―

なんという罰あたりであろう! 雷に打たれたように体が痺れ、そこはかとない自責の念に彼の良心が大きな叫び声をあげます。しかしそれすら喉の奥に押し込み、彼はかすかに肩を震わせました。

「やあ、どうしました、神父。ここにきて禁酒宣言ですか? …まあ、なに、今日ばっかしはそんな堅苦しいこと考えてくさくさしても体に毒ですよ。どうです、一杯ぐらいは?」
普段は冷静沈着な医師がいつになく上ずった声でカーターにそっと歩み寄り黒の瞳を緩めます。医者の不養生とは知りつつも、この日ばかりはついつい飲み過ぎてしまう、それはまたそれでたまらないんだな、自嘲気味に笑いながらドクターはカーターにならってベンチに腰を下ろしダッドを呼んでジョッキを持ってこさせます。これを断っては私が祭りに溶け込めない理由を誤解されかねない、カーターは成仏すると、それではお言葉に甘えまして、と麦酒を受け取り素知らぬ顔で飲みほしてみせると、ドクターに目配せしました。
「ここまでしないと型破り神父の体面が保てませんかね…だがこれでおわかりでしょう、私がここにいるのはなにもお酒が飲めないからではないのですよ」
神父の淡々とした口調にドクターもじっと押し黙ります。

楽しい宴会の席で神父の心をしめつけているのは恐らく間違いなくこの自分、その賢明な医師は感づいていました。むしろだからこそ、彼はそっと、お祭りの浮かれムードから身を引いて、カーターのいる寂しいベンチのところにやって来たのです。
「申し訳ない、カーターさん。彼女との間であったことは、あなたにしか伝えていない、だからそれがきっとあなたを苦しめているのだろう…でも。あれはもう…終わった話なんだから。いまやクレアくんは…」


* *


クレアと出会ったのはもうかなり前、彼女がこの街に越してきたばかりのある晴れた水曜日の朝。 休日だから、と白衣には袖を通さず清潔でさわやかな普段着で山に薬草を探しに行ったとき。タケノコ狩りでもしていたのか、山の中腹でうっかり足を踏み外し動けなくなっていた彼女とばったり出くわして…。怪我した彼女をそっと抱き起こし、彼女の傷ついた足に摘んだばかりの薬草で応急処置をして、そしてポケットからハンケチを取り出しそっと結わえてあげて。―すべてが抜かりなく完璧のはずでした…ただひとつ、あまりの一大事でよほど慌ててしまったからに違いありません、彼は彼女に、自分が医者であることを伝えそびれてしまったのです。悪いほうへと働く偶然は、良いほうへと働くそれよりもはるかに強力で、そして恐ろしいぐらいにきちんと噛みあうものです。幸か不幸か体の丈夫なクレアは長いこと、怪我も病気もひとつしないで、それゆえミネラル医院のお世話になる必要もありませんでした。

その代わり彼女は毎週必ず、晴れた水曜日の朝にマザーズヒルの中腹に現れて、山の幸をリュックにつめながら、鼻歌交じりに野の花でかんむりを編んでいました。そしてドクター、白衣に袖を通していない普段着のドクターと出会うたびに、ムーンドロップやピンクキャットの花かんむりを頭に飾って、歌うように言うのです
―「あなたのクレアは今日も可愛いかしら?」

純真な彼女を傷つけるのがどうしても嫌で、ドクターは山で彼女に会うたびに、医者以外の何者かの仮面をかぶって、そして彼女の恋人役を演じ続けてきました。―というのもその仮面を脱いだら最後、彼女の恋人役を演じることが不可能になることを彼は自覚していたのです、それは化けの皮を剥いで彼女の本当の恋人になるのが嫌だという意味ではなくて…家業を継いで医者になった彼が、どこの馬の骨とも知らぬ牧場の娘と結婚するなぞ、保守的な彼の両親が承知しないでしょう。彼らは息子の許嫁にはさしずめ看護師のエリィが最適と考えていましたし、そればかりか息子がエリィ以外の娘と結婚するなぞ言語道断の極みと割り切っている節さえありました。

真実を口にすることが出来ず、とはいえこのまま一生涯クレアをだまし続けることにも限界を感じるようになった刹那、ドクターの仮面劇は呆気ない幕切れを迎えることとなりました。いよいよ生家から電話がありエリィとの縁談もまとまりそうなところに、ペットの馬に足を踏まれたというのでクレアが病院に担ぎ込まれたのです。そうして全てが明らかになった時、彼女は絶望のあまり意識を失い、ドクターはすっかり、彼女と、彼女はおろか自分にさえ犯してきた大罪の報いを受けることとなりました。


「ああ、そうとも、カーターさん。自業自得なんだから。そして僕がこのことをこっそりあなたに打ち明けたとき、あなたはたいそう悲しい顔をされて、けれども善意の兆し、僕が犯した罪の中にうもれた善意の兆しを、きっと神さまはお見逃しにならないだろう、と告げられた。神よ、そして神父、僕はあなたがたを固く信じている…この期に及んで罪の帳消しを願うなんて虫のいいことはしない、でも確かに神は慈悲を垂れてくださった、意識を取り戻したクレアくんは僕を赦し、僕とエリィを祝福してくれて、そして僕のことをきっぱりとあきらめてさえくれた、僕はそれだけでも救われた気持ちでいっぱいだ。医者と言えどしょせん田舎者で僕は要領が悪い…そんな僕という人間にたいして、あの金髪の天使さまが下さった憐憫の情は…あまりに大きすぎるぐらいで」

医者はことのすべてを反芻するかのようにゆっくり頭を上下に振りながら言葉を紡ぎ終わると、そっと腰をあげて広場のほうに引き返しました。重たい足取りで歩を進めるうち、採れたばかりのにんじんをたっぷり抱えローズ広場に駆けこんできたクレアと鉢合わせします。彼女はドクターの姿を認め、一瞬委縮したように足を緩めましたが…すぐに思い直したようににっこり笑ってドクターに会釈すると何事もなかったかのように過去の愛人の脇をすり抜けました。


すっと触れた肩先。ふわりと舞い上がる彼女の土と太陽の優しい香り。それがドクターの脆く弱い心に爪を立てます。口ではどれだけ強がりを言っても心は言うことを聞いてくれません。彼女のことを諦めきれぬやるせない気持ち、そして純朴な少女を欺いてしまった自責の念。

―曖昧な言葉を並べて重ねて、結局僕は彼女に対する愛の答えをなにも出さなかった。そのくせいざ彼女が去った今になって、こうも悲しい気持ちになるのはなぜだ、いまさら涙を流したところとてもう手遅れだというのに! 強情っぱりめ、男のくせしてなんと優柔不断で往生際の悪い野郎なんだ、俺は! …男らしさだと? ああ、恐らくそいつは当の昔に俺の胸から逃げ出して俺をまったくの木偶の棒にしてしまったようだな。それでもよかろう、それが卑怯な人間に対する復讐の神々の報いと言うものだ。

ドクターは顔を曇らせいやいやと首を振ります。にんじんを抱えた彼女が遠ざかっていく姿が見えます、そうだ、そのまま真の恋人の胸にとびこむがよい、そのにんじんに換えて、君の腕いっぱいの幸せを君に抱かせることができる恋人の胸に…!

「私が苦しんでいるのは、ドクター。あなたが依然、あることに気付かずにいるためです」
にんじんを抱えたクレアが養鶏場の家族に迎えられる姿を見ながらカーターはドクターのそばに歩み寄り深く頭をたれます。胸の内で湧き上がる言葉、それを音にして口に出すことさえはばかれるといった気持ちでため息を吐きます。

―どうか神よ、私の唇に力を下さい…―

『彼女は医者でないあなたを愛していた以上に、医者であるあなたを愛している。たとえそれが叶わぬ恋だと知った今でも、彼女の気持ちは揺らぐどころかますます強くなっている。…けれども。あなたが彼女を傷つけまいと仮面をかぶって真実を口に出さなかったように、彼女もまた彼女の本当の気持ちを口に出すことができないでいる。―あなたをまた困惑させて、あなたとエリィの、そしてあなたのご両親の…あなたがた全員の未来を台無しにしたくないために。ドクター、あなたとクレアさんには恐らく、もう至上の幸福は訪れないでしょう…けれども。あなたが彼女の幸せを望むのと同じように、彼女もまたあなたに対する想いを捨てず、あなたの幸せを望んでいることを…お忘れになさいますな』

クレアのにんじんが鍋に注がれます。口には出さない悲痛の祈りに込められた幸せを願うけなげな心根が、目に見えない煙となってむくむくと膨れ、冷たい秋の空気の中を天の神さまのもとへと昇っていきました。

ドククレお題「口には出さない」。あまりに失恋しているように見えるのですが、相思相愛でお互いを思いやるあまり、2人のカップリングは精神的な面では破たんしておらず。それを憐れむカーターのほうがむしろ表面的で単純。そんなお話のつもりです…。お医者さまと結ばれるのは難しいものです。


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