NIE MAID

目の前にずらりと並んだ牛羊牛羊牛羊牛にドクターは眉をひそめるどころかさっさと降参の白旗、あいにく白旗は持ち合わせていないので降参の白衣を振りたい気持ちになってしまいました。

クレアとの生活はまずこの洗礼を受けることから始まりました。それは牧場に住むにあたって避けては通れない通過儀礼のようなもの。「これを受けずしてこのクレアさまと結婚しようなぞ100年はおろか10世紀ぐらい早いお話よ」とクレアはさらりと言ってのけましたが、その1000年、可能であればお待ちください、と正直答えたくなるほど。と言いますのもそれは、その道のプロでないとまずもって完遂不可能な注文なのでした。

クレアが言うには、坊主愛しければ木魚まで愛し! だから私の家畜ちゃんのことも私と同じぐらい愛してちょうだい。―ごもっとも! 犬のことも、牛のことも、馬も羊も鶏も、学べる限り学びましょう。とりわけ家畜の病気に関しては獣医と同じぐらい頼りがいのある夫になるよう勉めましょう。―それも大切だけど! やっぱり男には愛人を名前で呼ぶことのできないエルザの気持ちがイマイチわからないようね、大切な家族の名前を知らないで平気なんて言わせません、そのうえ個体識別ができないなんて言い出したら牧場生活もままならぬ。

…要するに、まずはなにより、牛ちゃん、羊ちゃんの顔と名前を覚えてちょうだい。朝、なんとかちゃんの毛を刈り取って、てお願いしたのに別のコを丸刈りにしたら、あなたの毛も刈り取って出家…いや出荷箱に入れますから。

患者の顔と名前を覚えるのが仕事でもあるドクターに、当初それはさほど難しいことではないように思われました。しかしいざ取り組んでみると動物の顔と名前を覚えることとひとの顔と名前を覚えることはビーフストロガノフとレモネードぐらい別物で、そればかりかそれとこれとは脳ミソの使う箇所まで違うのではないかと思わせるほどに別物で、ドクターは改めて、ひとの知覚能力の脆弱さを痛感せざるを得ませんでした。

ドクターが牧場に住むようになって始めの数日は、クレアは家畜たちの首にかなり大きめのネームタグをぶら下げて、夫に牛と羊の名前を覚える機会を持たせてくれたのですが、ついにある朝、彼女より心持ち悪戯っぽく、
「それじゃ、今日はネームタグとっちゃうわよ。ネームタグ無で牛ちゃんと羊ちゃんの名前当ててちょうだい」
との宣告がありました。ネームタグ有でも正直まだ7匹分の名前をしっかり覚えきったとはいえない状況なのに! おまけにクレアときたら、愛犬には「ジョン」と名前を付けているのに、牛や羊には定説外の名前を与えているのだから全く手にも頭にも負えません。どうしてこう―羊にユキちゃんとかいかんのだろうか…いやユキちゃんは馬の名前だったか、ヤギの名前だったか、羊はペードロにナンドーだったか…はて。

クレアに手を引かれ畜舎に入ります。目の前にずらっと並んだ、牛羊牛羊牛羊牛! 黒白ふわもこ、黒白ふわ…ええと、丸刈り、黒白ふわもこ、黒白、なんという壮絶な眺めだろうか。ドクターに課せられたのは、彼女たちにそれぞれ名前で呼びかけながら向かって左よりブラシをかけよの任務、ヒントはなにも「見ないで」。
「さ、あなた、がんばって! 早くしないと、みんながブラシの順番、モ〜メェ〜あっちゃうわ!」
―分かってる、分かっているよ、クレアくんに牛羊牛羊牛羊牛…! だけどまず、7匹の名前をすべて諳んじられるかすら僕は怪しいのだから!― 必死で牛たち、羊たちの名前を思い出そうとするうち、なぜか脳裏をぼんやりとある懐かしい記憶たちが巡り始めました。…

***

あれは初めてクレアがミネラル医院に顔を出したとき。慣れない牧場仕事で早くも参ってしまった、ちょっぴり頭とそれから耳が痛いの、と彼女は額に皺を寄せていました。簡単な問診の結果、それは農作業によるストレスからきたものだろうと判断したドクターは、たまたま試したいと思っていた水薬を彼女に飲んでみるよう打診したのです。

それは都会ではエレメール病もといメニエール病とかいう耳の病気に処方される薬で、主な作用はめまいを改善し、脳内の圧を下げるというものでした。ただしその味はおよそカンパリにそっくりで、苦い薬の中でも相当苦い部類に入る難物。しかしそれについては「ちょっと苦いかも」と見て見ぬふりで彼女に飲んでもらったところ、彼女はごきぶりを踏み潰してしまった時のような恐怖とふがいなさの入り混じった顔で「に〜が〜い〜ぞ〜」とそれを飲み下してくれました。

あの薬の名前はそう…! 「イソバイド」。彼女にそれを伝えると、そのよほどの苦さに一発で中身と名前を覚えたとみえ、彼女はそのあとドクターの処方する薬はすべて「イソバイド」だと思い込んだらしく、「つかれと〜る」も「ちからで〜る」もそれぞれ「疲れたときのイソバイド」「もうひとふんばりのイソバイド」と―余計長ったらしい名前で―呼んでくださるようになってしまいました。

―彼女の軽い頭痛と耳痛を治すために僕は、彼女の記憶に一生癒えることのない傷をつけてしまったのだ、大変申し訳ないことをしてしまった…。


ともあれ彼女に「イソバイド」という苦汁をなめさせたあの日から、彼女はなぜか毎日、病院に来るようになりました。それも毎日、なにかしら色のついた草を持って。ドクターは薬草に興味がありましたので彼女が持ってきてくれる草はとてもありがたくいただいていました。

それがかれこれ数か月続いたある日、クレアはとうとう何か堪えていたものが堰を切って溢れだしたらしく、目尻が涙でにじむぐらいに大笑いを始めてしまい―なにかと尋ねてみると、「ドクターってそこらに生えてる草でも喜んでくれるのね、それもこぶし付きで!」と…。その何がそんなに面白いのかよく分からず、ドクターは「この町には七色の草が生えているはずで、そのどれを持ってきても僕は嬉しいのだよ。だけどもっと嬉しくなるのはエリ草と言って、それは外に生えるものではない。雑草を使った料理とかなり疲れたときのイソバイドとかなりもうひとふんばりのイソバイドをミキサーに入れると、ミキサーのなかに生えるそうなんだ」と彼女の好意に甘えようと口添えしました。

それがまたさらに不可解なことにクレアのツボを直撃してしまったらしく、彼女は「エリ草、エリ草!」とさらに勇み勇んで帰宅し、次の日には「エリ草」がミキサーに生えた! レシピも栽培法も見ないで生やすのは大変だったわ! と彼女はその高貴な雑草を持ってきてくれました。それをドクターは、まるでこれから社運ならぬ院運のかかった生涯一度の学会にでも望むぐらいの気合が入ったグーで受け取ったのです。


そんな、「イソバイド」と「エリ草」の初心な春がかなり長いこと続いたある日、ドクターはイソバイドの罪滅ぼしに…とクレアに癒しの健康グッズを渡しました。それはマイナスイオンが出る杓子で、癒したい部位にあてて使うもの…らしい。取扱説明書はいつものクセで見ないで捨ててしまったから詳しい効能や使い方については半信半疑。―でも試しに僕の関節にあてて試してみたから大丈夫、大丈夫…大丈夫!―

天然なクレアはドクターからの癒しアイテムをとても喜んでくれて、「ドクターそのものが私にとってはマイナスイオンで、病院は私のパワースポットなんだから」なんて可愛らしいことを言ってくれたので、ドクターは「しかし僕が関節と言うと男性の5つめの関節を指す場合もあるのだけど、それではいやしがいやしいになってしまうね」と付け足そうとした卑猥なダジャレを引っ込めざるを得なくなってしまいました。


そこから数日経ってクレアは絶頂のテンションでやってきました。

「ドクターのマイナスイオン杓子をイゾルデのお乳にあてたらおいしいミルクが搾れたのー!」

あのときの彼女の衝撃的な言葉が頭に鳴り響きドクターは眩暈を起こしかけました。

…なに、聞いてみればイゾルデは彼女が初めて買った牝牛の名前で、彼女はそのミルクをおすそ分けに来てくれたとのこと。その彼女のミ…げふん、イゾルデのミルクは確かにとてもおいしかったのです。まずそれは搾りたてそのままの濃くておいしい爽やか生乳ですからふつうのホモジナイズされた高温殺菌牛乳よりはるかにおいしいのは当然なのですが、そのはるかのなかでもさらに格別おいしかったのです。

しかしドクターはドクターでそのときよもやらぬ妄想に目が眩み、クレアの喜ぶ顔もイゾルデのお乳も彼の目にはちっとも見えていませんでした。―「癒したい部位」をそんな捉え方するとはさすがは純真無垢な牧場娘! つまりあのグッズは人体だけでなく牛体にも効果があったということか、これは驚き、樫の木、欅の木! 牝牛の乳房に効いたということは、牡牛の5つめの関節にも効くのかもしれない、これはもし確証が取れたら、『マイナスイオンの癒しぃ効果』と題して論文を一つ書かずばなるまい…―


しかしなぜまた、牝牛にイゾルデなんて名前を付けたんだい、ドクターはそのとき何の気なしに尋ねたものです。すると彼女は心外! とでも言いたげにぷっとほっぺたを膨らめて、そしてクスクス笑って―だって、前の感謝祭でドクター、教えてくれたじゃない。ドクターが子供のころ、ドクターのお母さんは毎晩ピアノを弾いていたって。それが『トリスタンとイゾルデ』の第二幕だったって

―そうだったか、そんなことを僕は彼女に言っていたのか、イマイチ覚えていないけれど―

ドクターが私の牧場のミルクを見るたびにお母さんの顔を見ないでもお母さんのこと思い出して、ちょっとでも懐かしい、幸せな気持ちになってくれたらいいなって、そう思って私、牛にイゾルデって名前つけたの!―


ところで牡牛の件は、僕は本気でムギさんに試してもらった。ムギさんは僕のクソまじめな説明に嫌な顔一つしないで、上等な牡牛を貸してくださった。さすがに牡牛の局部にマイナスイオングッズを当てるなんてピンクキャットも恥じらう乙女の彼女に見せるわけにも、いわんややらせるわけにもいかないから、その特別な細工はムギさんの指導のもと、僕が自ら行った。僕の手によってマイナスイオンの洗礼が施された牡牛をクレアくんのイゾルデに種付けしてもらったところ…

とても元気な子牛が生まれたそうだ! 彼女にはマイナスイオン夫婦から生まれたということで純粋かつ単純にも「マイナスイオン」と名前が付けられたそうだ。


さて、牛を巡るそんなお恥ずかしい過去もずいぶんと遠ざかったころ、いつになく元気のないドクターのところにクレアがマイナスイオンのお乳を持って遊びに来ました。―イオンから初めてミルクが搾れたの! これドクターに。ろんぶんに必要…なんでしょ?―その時彼女は素で言ったのでしょうが、真剣に思い悩んでいたドクターにそれは天使のささやきにすら聞こえたのでした。

しかし次の瞬間、クレアは首をかしげました、―ドクター、今日は元気ないんだね、なにか悩み事でもあるの?―さすがは言葉を話さぬ動物相手のエキスパート。ひとの顔から感情を察するなんぞ、動物のそれと比べたら一切れのケーキのようなもの。ドクターは成仏して、ああ、そうだよ、と額に手のひらを押し当てました。

―君からアドバイスがもらえたら嬉しいのだけど…。患者さんとの接し方について考えていたんだ。僕はどうもひとにとっつきにくさを感じさせてしまうらしいから―クレアはびっくりしたように目を見開いて「それはきっとドクターの思い込みよ、町のみんなはドクターのこと信頼しているんだから」そう言ったあと、さらに付け加えました。

―ドクターには医者としての責任と向上心があるから、きっとそんな風に思い悩んでしまうのね。それなら、医者の不養生なんてけしからん…って美意識は捨てて、もっともっと自分から心を開いてみたらどうかしら、お医者さまだって病気もするし悩むこともあるんだってね。町のみんなは安心するはずよ、全知全能の聖人君子と思っていたドクターさんも、実は自分たちと同じ悩みを持っているんだ、って。あのね、家畜ってね、となりに仲間がいるとすごく機嫌がいいみたいなの。病気になった時も、ほかのコにうつさないよう隔離はするけど、仲間の声が聞こえて姿が少しでも見えるようにしてあげるのよ、そうするとすぐに元気になるの。でもそれって人間も同じじゃないかしら、きっと私たちだって、同じ境遇、同じ心境、同じ心情の仲間が近くにいるって思うだけで、ずっと気持ちが楽になるはず。…ドクターはちゃんと分かってるわ、だっていつも診察の時、私たちと目を合わせてくれるもの。患者さんと同じ目線に立つって、口で言うのは簡単だけど、そう実行できるものでもないんじゃないかしら―

すでにクレアに相談を持ち掛けた時点でドクターは、彼女にも、そしてなにより自分自身にも心を開いていたのでしょう。常に自分に厳格であらんとする普段の彼であれば、「それは僕のプライドが許さない」と強情を張ったに違いありません。

―そうだ、なにも白衣の権力を笠に着ることはないんだ―クレアの言葉と笑顔が眩しくて、ドクターはそのとき暖かな春の日差しに身を浸しているような、そんな恍惚とした幸せに包まれたのでした。…

―ところでドクター! なんのお勉強してたの? あれぇ、アルファベットの上にお目めがついてるわ、なにこれ!―
彼女の声が響きます。はたと夢から覚めた気持ちで我に返ると、詮索好きのクレアにノートの中をのぞき込まれていました。アルファベットの上にお目め?! そうそう、それはウムラウトのこと、アルファベットというより厳密にはそれは母音のAとUとOにつくもので、小文字のeが簡略化されたものです。とたんにドクターはいじらしい気持ちになりました。

―それはドイツ語だよ、クレアくん―
―すごーい、ドクター、ドイツ語もできるんだね!―
―…い、一応、医者ですから…―
―私も知ってる、カルテってドイツ語なんでしょ? あと、うーんと、盲腸も!―
―よく知ってるね、盲腸は確かにドイツ語のBlinddarmの直訳だ―
―だってなんで「盲」がつくのか純粋に気になったんだもん―
―そう、学問の道は素直に疑うところから始まるんだよ。それに遊び心も大切だ。ひとつ簡単なドイツ語を教えてあげよう、上掛けのこと、ドイツ語ではなんというでしょう―
―ワックス!―
―それは正しくは「ヴァックス」だけど、僕が言ったのは蝋の上掛けじゃなくて、ひとが着る上掛け。Kittelと言うんだよ―
―きってる?―
―そう、だから、「キッテルを着てる」と覚えるんだ―
―おもしろーい! じゃあドクターが着てるのは、ドクターキッテル!―
―外れー! 「ドクター」はドイツ語ではArzt、だから医者の上掛け、すなわち「白衣」は「アーツトキッテル」だ―

***

そんなクレアくんに、心はおろか、体まで許す日が来ようとは…! とうとうあの運命の日、それも狙ったように僕の誕生日に、クレアくんは羽を持ってきた。幸運を運ぶ青い鳥の青い羽根。金髪の天使からもたらされた神の祝福。僕はそれをこの上ない幸せと素直に受け取ったのだ。

イソバイド、エリ草、イゾルデ、ミルク、マイナスイオン、アーツトキッテル…クレアとの懐かしい春の思い出を印象付ける単語がドクターの頭の中をぐるぐるめぐっています。

イソバイド、エリ草、イゾルデ、ミルク、マイナスイオン、アーツトキッテル。イソバイド、エリ草、イゾルデ、ミルク、マイナスイオン、アーツトキッテル。イソバ…

―…ん? ちょっとまてよ―

Isobide, Elikusa, Isolde, Milk, Ninusion, Arztkittel...

―そうだ、あと1匹だ、あと1匹の名前。でもそれは簡単だ、なぜかってそれはクレアが、そしてクレアを、一番愛する者の名前だから…―


M I N A I D E
i s i r s o l
l o n z o c i
k b u t l t k
  i s k d o u
  d i i e r s
  e o i     a
    n t
      e
      l
      
ドクターは大きく深呼吸するとクレアに微笑みかけました。

「分かったよ」
左から、ミルク、イソバイド、マイナスイオン、アーツトキッテル、イゾルデ、ドクター、そしてエリ草! 落ち着いた低い声で呼びかけながら斑とふわふわの毛にブラシを滑らせると、どのコたちも嬉しそうに目を細めて喉を鳴らし、新しい家族を受け入れました。
「大正解! ふふ…やっぱり私の旦那だわ!」

まあ…今回は気が付いてしまえば名前と顔が一致していなくても答えられたと言うわけだ。しかし僕はまだまだ精進しなくちゃなるまい、なんせ、
「じゃ、夕方にはみんなを小屋に戻すのお願いねー! その時もちゃんと、1匹1匹名前で呼びながら戻してあげるのよー!」
…と、こう彼女から命令が下される日も、そう遠くはないだろうから。

ドククレお題「見ないで」。数年前にネタだけ出してずーっと放置していたものをようやく完成させるに至りました…。結婚後のお話で、家畜の名前をなにも「見ないで」当ててちょうだい、という相も変らぬ変化球モノ。しかしそれだけではさすがに場が持たないので、ドクターとクレアのじれったい春の思い出を振り返ってみました。出会いイベントの薬の名前はでっちあげ。ところで「エリ草」って「えりくさ」と読むのか「えりそう」なのか…。。
ネタを出すさらに少し前に、どこかの絵チャで「クリフは学もなさそうな青年なのにカレー粉は嫌がり、カレーは喜ぶぼんぼん。かたや高学歴のドクターはそこらに生えてる草で喜んでくださる、それもこぶし付きで」という話で大いに盛り上がったことがあまりに忘れられず…。毒キノコもこぶしで喜んでくれるドクターの奇行は牧物歴のなかでトップクラスだと信じてやみません(笑)


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