水の反映

足早に、クレアは教会へ急いでいた。灼熱の太陽がじりじりと照りつけ、うだるような暑さ。額にふきだす汗をぬぐう余裕もなく、ただただ早く灼熱地獄より脱したいという思いで彼女は走り続けていた。

ミネラルタウンに越して、牧場を経営するようになってから早数年。都会のクーラーのきいた涼しい部屋での生活に慣れていた彼女にとって、炎天のもと鍬を片手に作業をしなければならない夏は、大嫌いな季節であった。おまけに彼女の経営する牧場ときたら、町の最南端に位置し、太陽が昇ると同時に気温が一気に上昇する始末。クーラーはおろか扇風機すら存在しないこの村で暑さをしのぐためには、村を北へ北へと急ぐほかなかった。

彼女の牧場とは正反対に村の最北端に位置するのは、小さな妖精の家を別とすると、教会や雑貨屋と言ったところだ。特にここと決めているわけでもないが、クレアは大抵教会へ避難するようにしていた。必要がないのに雑貨屋に入るのは、主人のジェフに対して失礼だと気が引けてならない。教会ならば、神父のカーターやよく懺悔に来ているクリフとおしゃべりできる、さらに床が大理石なだけあり他の建物より少しだけ涼しいという特典つきだった。

クレアは息を切らし、はあはあいいながら教会のドアを押し開けた。それで普段なら「おや、また遊びにこられたのですね」とカーターが彼独特の間延びした声で言うのだが、今日は勝手が違った。神父は珍しく―少なくともクレアが知っている限りでは初めて ―パイプオルガンの椅子に腰を落ち着かせ鍵盤に手を添えていた。よほど集中しているのか、彼はクレアが入ってきたことすら気がついていない様子である。

美しい旋律が彼女の頭を掠める。カーターの手元より、美しく滑らかなメロディが湯水のように生み出されクレアの体に溶け込んでいく。そしてそのメロディが教会の中で反響しあい、クレアは幻想的な静けさと、柔らかな清涼感に包まれ、自分がまるで自然にわきあがる原水の中にいるような感覚を覚えた。それ自身が意志をもち、静かな揺れから湧き上がり、奔流となってほとばしる自然の生きた水。それを両手ですくって口元に運びたいという衝動に駆られ彼女は腰をかがめた。

ふと、曲が途切れ、カーターが振り返る。慌てて立ち上がり、クレアは微笑んだ。

「いつの間にか来ていらっしゃったのですね」カーターの口からも笑みが漏れる。「それにどうやら恥ずかしいところを見られてしまったようで」
ぶんぶんとクレアは首を横に振る。カーターの太い指があれほどの美しい旋律を紡ぎ出せるなんて。人は見かけによらない、そう思いながら彼女は彼に近づき楽譜台を覗こうと身を乗り出す。
「水の反映」それを察したようにカーターは呟いた。「水に映った風物の輝き、ゆらめき。また和音とすべるように奏せられるアルペジオとの得も言われぬ透明さのうちに音の響きが表す水鏡に伸び縮みする緩やかな影像…」
この季節にぴったりじゃないですか、そう彼は付け加え楽譜をめくり始めた。しかし少しもしないうちにぱたんとそれを閉じ溜息をついた。クレアは黙ったまま首をかしげる。

どうしたのかしら、声をかけようにもなぜだか言葉が浮かばず、彼女は彼女なりに眉間にしわを寄せる。ひとまず、「どうなさったのですか」とでも呟いておこうか、しかしそれを制し彼女は「暑いですね」と口走っていた。どうしてどうして、これ以外にききたい事があろうか? カーターは微笑み、そうですね、と答える。

「少しでも涼しくなるような曲を、とか思うのですが。弾く側は全く涼めないものでしてね」
そういって彼は苦笑した。いや、この場合は自嘲的な笑い、といったほうが適切なのかもしれない。つられてクレアもお気の毒様、と言った様子で肩をすくめた。

それでも自分の牧場と比べれば断然涼しい教会で、優雅にパイプオルガンを奏でているカーターに少し嫉妬の念を覚えた。いっそのこと畑に彼らを運び込んで一日中バックグラウンドミュージックを奏でてくれていたら、畑仕事も少しは楽になるかもしれない、そんなどうでもいいようなことを想像して彼女はいい気分になっていた。

「おや、そろそろクリフが来る時間ですね」
不意にカーターは顔を上げ教会の入り口を振り返る。物音一つしない。しかしそれが開くと同時に、むっとするくらいの熱風が教会の中になだれ込み、2人の息が詰まることは九割がた、確実だ。それを思うとクレアの気分はいっぺんに台無しになった。カーターはそんなことお構いなしに、再び楽譜をめくると、妙にしんみりした口調でつづけた。

「ずっと昔、縁日の露店で金魚すくいをやったことがありましてね…」
彼の手元から波打つメロディが流れ出す。きらきらと光る何かがいっせいに教会の天井めがけて駆け上るように思えた。
「金魚すくいですか。アレって結構難しいですよね」

ぴちゃぴちゃと跳ねるように泳ぐ金魚。赤、橙、黄の微光をきらめかせながら走り廻る。気まぐれな生命力が跳ね踊り、手元を掠めて底に沈む。これが音楽の呪文と言うものなのだろうか、金色の魚が群れをなし、一糸乱れることなく彼女の前を泳ぎだす。魚たちは突如跳ね上がりそして足元まで降りてきて身を潜める。もう今度はだまされまい、そう思いながらもクレアは魚たちをすくいあげようと手をかざす。ぱっと彼らが天井へ散る。そして何事もなかったかのように得意げに体をきらめかせ、カーターの手の内に吸いこまれていった。

「金色の魚」目をしばたたせクレアは楽譜を覗き込んだ。「それで金魚なんですね」
「夏の風物詩でしょう?」
ふふふ、とカーターは微笑む。その時、カチャリと小さな音ひとつたて、クリフが“禁門”の扉を開けた。想像していた通り、ぶわりと熱い空気がなだれ込む。そんなことお構いなしにゆっくりドアを閉め、クリフはあれれとでも言いたげに首をかしげた。
「カーターさんにクレアさん、どうしたのですか?」
確かに、パイプオルガンの近くに2人で固まっているのは不思議がられて当然だ。それもクレアは熱風がよってこないように手を顔の前でぱたぱたさせている。カーターは入り口付近で硬直しているクリフを手招きし、楽譜をしまった。

「賛美歌でも歌っていらっしゃったようですね」
その栗色の髪の少年はカーターが楽譜をしまうのを見落としはしなかった。さあどうでしょうかね、とカーターはケラケラ笑って彼の言葉を受け流すとクレアの肩を持った。
「さて、クリフも来たことですし、今晩の最大イベントを始めましょうか」

は。

クレアはぽかんと口を開けてカーターを見る。この際、相手からどう見られていてもどうでもよい。クリフも見てみろ、2回も不意打ちを食らってより石像みたいになっているじゃないか…。 頭の中ではカレンダーを思い浮かべ、本日の日付にイベントマークがついていたかを必死で思い出そうとしながらも、クレアはそのすっとんきょうな表情を依然保ったままカーターを凝視していた。2人に一瞥与え、カーターは別の楽譜を取り出す。さて次は何を弾くのかしら、クレアは急いで思考をそちらにずらす。もしここで「婚礼の合唱」とか弾かれたらいくらカーターでも度を越しているし。でもそれくらいの冗談をかましてもらえたほうが、気分は秋の空のように晴れ渡るだろう。くっくと彼女は笑っておいた。クリフはクリフで石像から脱し、どんな神聖な賛美歌が流れるか、またはバッハの作品でも期待しているかのように目を輝かせている。

そんな2人をこっそり横目で見ながらカーターは1人ほくそ笑んだ。そして楽譜台に置かれた別の楽譜をめくり鍵盤を手でなぞる。
「ご存知ですか? 7月14日。パリ祭の夜空に咲く美しい花…」
教会中にすべるような旋律が打ち上げられぱっと消える。そしてまた足元で火花が廻りだす。2人は一瞬顔を見合わせ、大急ぎで海岸へ向かった。

「違う、花火大会は来週よ」

はっはっと息を切らしながらクレアは呟いた。
「でも…」クリフが空を仰ぎ見る。「去年見たのと同じだろう? カーターさんの“花火”は」
そうね、そっけなく彼女は答えると唇を噛んだ。クリフはゆっくりうなずいて、足元に落ちていた貝殻を拾い上げ海に投げ捨てる。貝殻はやんわりと彼の手を離れ、まっすぐ海に落ちた。

真っ赤に燃える太陽が海水に反映し、美しい波紋と共に揺らめく。驚いた魚が跳ね上がり、金色にきらきらと輝く。

「水の反映、金色の魚…」クレアは呟いた。「ドビュッシーの映像第1集と第2集」
そして花火は前奏曲第2集の最後を飾る曲…。彼女は砂浜にしゃがみ、砂を両手にひとすくいした。
「素敵ね、ありのままの自然をそのまま譜面に描くって」
ふふっと笑ってクリフも彼女に習った。彼の指の間からさらさらと白い砂が流れ落ちた。
「ドビュッシーは映像第1集を出したとき、『ピアノ作品の中でシューマンの左か、ショパンの右に位置する』と出版社宛に書いている。相当自信があったようだね」
「でもその自負は間違ってはいないわ」
クレアの言葉にクリフも大きく2つうなずいた。気がつけば夕日は半分以上海に沈み、東の空にはすでに一番星が輝いていた。

「僕も自信を持って言うが…」クリフは不意に立ち上がった。「君は来週、またここに来る。そして桟橋から本物の花火を見ることになるよ」
クレアはまたくっくと笑った。
「そうね。私、カーターさんを見直したわ。いつか、彼の弾く結婚行進曲を聞いてみたくってよ」
そしてゆっくり立ち上がり、優しくクリフの手をとると、赤い夕日に背を向け歩き出した。


外は随分涼しくなっている。昼間の暑さが夢のようで、彼女の心はすっかり晴れ渡っていた。

カーターさんをキューピッドにほんのりとクリクレ創作。もちろん「婚礼の合唱」とか「結婚行進曲」には微妙なニュアンスが含まれています。ともあれ、ある熱帯夜に思いついたミネ仲の夏のお話。カーターさんは全知全能なので(違います・怒)パイプオルガンでドビュッシーまで弾いてしまいます。


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