傷の名前

雪の上にくっきり残った足跡はてんてんとミネラル医院へ向かいます。朝の冷たく澄んだ空気を胸一杯に吸い込んで彼女は道を急ぎます。今日は冬の感謝祭! 大切な想いをチョコレートに託してあの人へ伝える日。無我夢中で走っているためか心臓が飛び出そうなぐらいにときめいて、息をするのも精一杯。背中のリュックでカタカタと音を立てるプレゼントボックスはまるで競走馬を操る騎手のように、早く早くとクレアの気持ちを駆り立てます。

クレアの向かう先で待つのは雪と同じ純白の衣を引っ掛けたドクター、もうずっと前から、クレアが都会を離れてこの町に越してくるずっとずっと前からここで医者をしている、ドクター。その冷静沈着で柔らかい物腰の良さから、町の誰からも信頼されている立派なお医者さまです。

診療時間の前にも関わらずクレアはそっとミネラル医院の扉を押し開けました。普段と変わらない、病院特有の匂いが、ツンとかじかんだ鼻を刺激します。薬品の匂いか、それとも殺菌に使うアルコールの匂いか。でもそれは同時に、彼女に彼女の大切なドクターを思い起こさせる優しい香りでもありました。

―ああ、やっとここに着いた! 高鳴る胸をおさえ、温かい院内に体を滑り込ませると、彼女は診察室に向かいます。はたしてもうそこでは、早起きのドクターが診療の準備を始めていました。

「おやクレアくん、おはよう。どうしたんだい、そんなに顔を赤くして…どれどれ、風邪かな。診てあげようか」
漆黒の瞳を細めて低い声で言うと、ドクターはつとクレアの細い喉に手を当てます。そんなこと急にされたら…! 相手はお医者さまと知りながらも余計に頭がのぼせてしまいそう! ぷるぷると頭をふってクレアはドクターの細い指の抱擁から逃れました。
「風邪じゃないわ、私は元気! 今日は違うの…今日はほら」
リュックからプレゼントの箱を出してドクターに渡します。今度はドクターが驚く番。患者さんから日ごろの治療の代償にこんな報酬もらえるなんて、…いやそうじゃありません。もしそれが本当に患者さんからの単なる差し入れにすぎないのなら彼は毅然たる態度と勇気でもって、それを断ることができたでしょう。でも、どうしても、クレアを前にするとその勇気は優秀な医者のもとを離れてどこかへ行ってしまうのです。

「感謝祭のケーキ! ドクターに!」
にっこり笑ってクレアがうなずくと、ドクターも、ああ…とバツ悪そうに口ごもりながら箱を受け取ります。雪のように白い医者の頬にさっと赤みが走ります。ドクターはもともと照れ屋で不器用な男でした、だからこそ余計に厳格なうわべで自分の情けない性格を隠しているのです。だけどそれも、クレアにかかっては形無しというわけ!
「ありがとう、クレアくん。…って、待った!」
さっと引っ込めようとしたクレアの右手をドクターががっちりと捉えます。クレアの人差し指から小指の先にかけて生々しく赤い筋が走っていました、―そう、それは彼女がうっかりチョコレートを湯せんして熱くなった鍋に素手で触れてしまい火傷した痕。慌てて冷やしたけれど間に合わなくて、くっきり傷が残ってしまったのです。

「みつかっちゃった!」
「みつけたよ、こりゃもう僕の職業病かな…なんて、隠してちゃダメだよ。さあ、おいで」


赤く腫れあがったクレアの指先に軟膏を塗ってあげながらドクターはしばし考えを巡らします。 この傷と引き換えに彼女は僕にケーキを焼いてくれたのか、患者の扱いには慣れていても恋には全くオクテなこの臆病者の僕のために…こんな傷を負ってまで、ケーキを、いや僕への想いの証を。くるくると包帯を彼女の指に巻きます。無意識なぐらいに慣れた手つきでクレアの傷の手当てを終えるとドクターは、さあこれでよし! と彼女の肩をぽんぽんと叩きます。
「いま塗ったのと同じ軟膏を処方しておくよ。腫れがひくまでは包帯をとっちゃいけないよ」
うん、とうなずいてクレアは小さくつけたします。
「…ドクターがじかに塗ってくれたほうがずっと効き目があるのに!」
びっくりしたように目を釣り上げドクターは黙り込みます。それと同時になにかずっと昔に聴いたある旋律が頭の中によみがえります。

―暗い部屋で鳴り渡っていたあの旋律、物悲しいひとつの震えを残して大気に吸い込まれ消えていった、あの旋律…。心の中でさっと手をのばすと、それはするりと腕を突き抜け彼の体の中に落ちて行きました。−ああ、そうだ、あの音楽は、あの頃…。

「君を見ていると母さんを思い出すよ―、僕の母さんは、仕事が終わって夜になると、よくほの暗い部屋の中でピアノを弾いていたものだ。そして僕は丈夫な長椅子に体を横たえ子守唄でも聴くように母さんのピアノを聴いていた、あれは何と言う曲だったか。―1人の姫が敵方の傷ついた戦士を癒す曲、母さんはその甘く切なく憂鬱な旋律のすべてを味わいつくすかのように、しんみりとそしてゆっくりとその曲をなぞっていた。身分や境遇を超えて結び付かんとする男女のはかない恋の歌、僕の子ども心はすっかりかきむしられて大きな傷を負ってしまった―だけれども」
ドクターはそっとクレアの怪我した右手に温かくて柔らかい彼の両手を添えます。
「君のお陰で僕の傷はすっかり癒された、ようやく分かったよ、身分や境遇が違ってもきっと、僕らの恋は、あの虚しい旋律とは違って―」
先を続ける代わりにクレアのジンと熱くなった頬の一点にそっと口づけして微笑むと、ケーキ、一緒に食べようか、そう言って彼は二階の仕事部屋にクレアを優しく招き入れるのでした。

ドククレお題「君の傷」で感謝祭創作です。クレアの外傷にドクターの心の傷。それぞれ癒しあう2人はとてもロマンティックなんじゃろうな〜なんてなんて。クレアはドクターが医者と知りつつ、治療で手を触られてはときめき怖気づき、でもドクターが手当てしてくれたら傷もすぐに治るのに!と思っている乙女推奨ですv


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