ソットヴォーチェの大見得

白い衣の裾をひたひたと引きずりながら、彼は胸の内に渦巻く捉えようのない苦しみをなんとか掬い上げられまいかと必死になっていました。


…えー、さてと困った。此方が彼の気持ちを代弁してあげられれば何よりなのですが、あいにくと加齢に伴う語彙力の低下と表現力のマンネリ化、さらに白状すれば再起動とともに初期化されるも同然なほどにスペックの低いこの脳のみそ。その脳のみそを包むやわな頭蓋骨なんざいくら逆さにはたいてハンマーでトントンしたところとて、彼の悶々にぴったりの言葉が出てくるわけもなく、彼の助けにちっともならない我が身と来たら新年早々あけましておめでとう、残念無念の有馬記念と言った具合。

別の手段を考えるとしましても、硬派な彼はそれはそれはガンコな衣を身にまとっておりますので、アロンダイトもデュランダルも、彼の心中をえぐりだすにはおよそ力足らずと言ったところ。神さまがこのワタクシのために、およそ一家の大黒柱になるとは冗談も休み休み言え、ばげ! と笑い飛ばしたくなるほどひょろんとしたあのトネリコとかいう木の幹に、「苦難必須之剣」とやらでも突き刺しておいてくれれば、どうにかそれを引っこ抜いて彼の胸を切り開き…と言いたいところも、その何とも言えない名前の剣では実のところわんこにも勝てないらしく、とどのつまり「クーゲルシュライバーは剣よりも強し」とこう落ち着くわけでして、結局この話の行方はワタクシの手の中にかかっているという事実。今更ながらどうしてこんな難物と対峙しなくちゃならんのか、自分で自分が分からなくなるほどです。

ええ、そうですとも。ペンは剣よりも強く、今やそのペンすらキーボードやスマホを叩く音には敵わぬご時世。彼の胸の内を綴ることからこの物語を始めようとしたことがそもそも間違っておりました。とりあえず、ワタクシの知る限りをお伝えしましょう。


ここは田舎の中のジ・田舎、遠い海の向こうにどういうわけか奇跡的に存立しているミネラルタウン。先ほど「彼」と申し上げましたのは本名(苗字)なのか肩書なのか判じ難い名を持つドクター。先祖代々このミネラルタウンに生まれ育ち家業を継いできたのか、それとも大海原をどんぶらこっことわざわざ渡ってこのミネラルタウンにやってきたのか、とにかくこのミネラルというよりもはやミラクルな田舎町の唯一の町医者として、長いこと仕事一筋まい進してきたドクターさんです。

一人で内科から耳鼻咽喉科まで兼ねているらしく、耳鼻鏡を常に頭に乗せ、その頭を覆う豊かな黒髪と来たら、かの有名なベートーヴェンとやらを思い出させるほどのうねり具合。その艶光りする黒の頭髪をさらに映えさせる色白の肌、お医者さまですから羽織っている衣も真っ白で、その白衣に包まれた心の奥まで何色にも染まっていないまさしくタブラ・ラサな若き名医。

彼は、今はやりの裏も表も書き上げてくれるプリント印刷の年賀状よろしく「失敗しません」な雰囲気さえ―もちろん、「失敗しない」のはプリンターのみで、ヤツは律義にもワタクシの打ち間違いまで「失敗せず」に刷り上げて下さいますが―まとっておいで。その冷静な物言いと所作ときたら、あたかも空気中の水分を氷結させる摩訶不思議な力を繰り出し、液体窒素による麻酔の力を借りることなく足裏の厄介なタコの切除処置をやってのけるのでは、と期待させてしまうほど。

その実彼は毒きのこを見ると無駄にテンションが高ぶる、およそ一般人からは数センチずれたデフォルトも兼ね備えているわけですが、その稀有な嗜好をひっくるめたとしましても、彼のような医者がこんな殺伐とした田舎町でぽつねんと診療所を開いていることが、全く不思議でならないほどの逸材です。


さて、そのクールな名医がなぜまた苦しまなくてはならないかと申しますと、ええそうです、確かワタクシはしょっぱな、「捉えようのない苦しみ」と書いたはずですので彼は苦しんでいるのです、もう少し詳しく描写を試みてみますと、今まさに、まっさらな胸の中で燃え上がる誓いを彼はほとんど制御することが出来ずに途方に暮れて―ああ、そうなのです! こんな、白衣だの失敗しないだの氷だの、回りくどい例えを使うよりもう少しばかりおいしそうな表現が見つかりました、…チョコレートです!

チョコレート、いや厳密に言えば、冷凍庫でしっかりと凍らせた生チョコを、カカオ入りのケーキの生地に包みこんでオーブンにつっこんだとき起こる現象を思い浮かべて下さいまし。それではピンとこぬと言われる方は、ほとんどお時間頂きませんから騙されたと思って、一袋のなめこを念入りにフードプロセッサーで砕いてふんわりとさせて、それを電子レンジでチンしたチョコレートと少々のミルク、たっぷりのお砂糖に薄力粉となめなめ混ぜ合わせ、そのいっしょくたを手のひらサイズのアルミのカップに分けて入れ、そのアルミのカップを熱々のオーブントースターに突っ込んでみてくださいまし。

どういうわけか、これで出来上がってしまうのです! ドクターの手の中にある、それ。たった今、金髪の牧場娘が「なめこって卵のかわりになるんですって、養鶏場がいよいよ転業の危機に立たされてしまったわ、リックさんったら可哀想に!」と豪語しながら持ってきた、それが。

その頭頂にさっくりとスプーンを入れたとたん―ねっとりと甘く熱いものが、カリっと焼けたチョコケーキの壁を破って溢れ出たのです! そのさまはイタリア語で言えばさしずめドルチェ、ドイツ語表記ですと確かツァールト。してその心は「胸が痛くなるほどのほろ甘さ」。これまで苦いお薬ばっかり相手をしてきたドクターさんのことですから、甘みとの戦いなんてまるで丸腰の手負いで敵の館に転がり込んだも同然。せめて装備を調える時間が欲しいところ、彼がそれをする前にその甘い何かは彼の眼下で溢れ出るチョコレートと同じぐらいの勢いで、彼の胸の内にぐるぐると盛り上がってしまったのです―たった今、彼女から受け取ったそのチョコレート菓子に入刀ならぬ入匙したとたん。


冷静沈着な名医が熾火のごとくにくすぶっている間に彼女についてもできる限りをお伝えしましょう。ミネラルタウンの南端よりやや北に位置する日当たりのよい一頭地、西の果てに自然の恵み豊かなマザーズヒルを臨むその開けた土地は、一時は先代の死と共に廃墟と化しかけたところを町長のつまらぬ冗談を真に受けやってきた彼女の手にわたり、リアルお化け屋敷化を免れ、今や緑の牧草地帯と、色とりどりの野菜がぽこぽこと植えられた畑に、ぐるりと一周贅沢にかつ丁寧に耕された馬場を抱えた大牧場となっていました。

牧場の女主の名前はクレア。都会から来たというわりにはジ・田舎の町長のジョークを見抜けないところ、どこか純朴さの残る無邪気な乙女であることはあるのですが、その「純朴さ」は耽美小説に出てくるようなか弱い少女のそれとはまた別のベクトルを差し、彼女はマンドラゴラすら吹き飛ばしかねないほどのパワーでもって荒廃寸前の大地から大岩やら切り株やらを打ち砕くと、早速そこに根菜やら牧草やらを植え付け、挙句には大きな馬場までこさらえてしまい、いまやベルを片手にぐいぐいと大きな乳牛の尻を押し、栗毛馬をフルギャロップで駆ってもけろっとしている有様。

よほど都会で肉体労働に明け暮れていたのか、否、むしろ、もともとミネラルタウンと同じぐらいに途方もない田舎育ちで力仕事にも動物相手にも馴れているとしか考えられず、その脳天に落雷でもない限り、将来は立派な肝っ玉母ちゃんになること間違いなしのなめくじもお墨付きの有望蕪、いや「かぶ」は「かぶ」でも、有望株といったところ。

牧場仕事で満身創痍、病院へ駆け込み、やれ毛虫にかぶれた、やれムカデに噛まれた、やれ鶏につつかれた、やれ羊の毛と一緒に自分の手まで切ってしまった、やれ牛に踏まれた、やれ馬から落ちた、やれうっかりもぐらを鍬で切りつけてしまった、やれ…やれ…とだんだん町医者では手に負えそうにない怪我を背負い込んではドクターに助けを求め―さすがにもぐらの件だけは叩くべき戸を間違えたとお隣の教会へ飛び込み直し、小さなお墓をたててお弔いをしたらしいのですが―、その度ごとにドクターはできる限りの手当てを施し、幸いそれがすべて表目に出てクレアは幾度も命拾いしたものですから、彼女はその名医をいつしか「白衣の英雄」と呼ぶようになっていました。


白衣の天使ならぬ「白衣の英雄」。その響きはどこかドクターのなけなしの虚栄心を煽るものがありました。看護師エリィの祖母の足、雑貨屋ジェフの慢性的な胃病、そして養鶏場のリリアの病気。すべてが自分の手には負えないと悟った時、虚栄心なんぞ捨て去って謙虚になろうと決心したはずが、クレアの―恐らくは―何気ない言葉でドクターは勇気づけられたのです。

―何を言うか、クレアくん。君のほうが僕なんかよりよほど冒険心にあふれている、おまけにたくましくて、牧場を切り盛りするに充分なだけの力もある、君のほうが英雄の名にふさわしい―

感謝の言葉はドクターの率直な、クレアへの憧れの気持ちでした。ところがそれを聞くとクレアは真剣な面持ちになり「違う」と叱りつけるようにドクターを見据え、ゆっくりと首をふりました。―確かに私は牧場の娘、農具にも家畜にも野犬にも天災にも負けないたくましさと力の持ち主、それは認めるわ、だって事実ですもの。でも英雄に必要な条件って本当にそれだけ? そうだとしたら英雄だなんてなんたら一辺倒のつまんない、味気ないものってことね。ドクターがそんな意味で「英雄」って言葉を使うなら私、ドクターのこと「英雄」だなんて絶対に呼ばないわ―


さてそれでは逡巡に逡巡を重ねているドクターに話を戻しましょう。ドクターとクレアの「英雄」を巡る仁義なき戦いは実のところ、数日前にワタクシが見たとある夢に着想を得ているものでありまして、ワタクシはその夢のなかである方になんの前置きもお断りもなく「英雄」の言葉を投げかけたところ、その方よりぴしゃりとお叱りを食らってしまったわけなのですが、それは裏方事情としてこの程度にとどめるとしまして、いまだかつてない謎の敵と対峙しているドクターさん。この感覚はあの時、クレアくんに「英雄」のことで怒られてしまった「あの時」に感じた、あの気持ちにどこか似ているところがあるな、彼はクレアからの感謝祭のお菓子を眺めながら思います。

冒険心、たくましさ、力強さ。それだけが英雄に必要な条件かしら―そう言ったときのクレアの眼差しがまだ自分を鋭く貫いているように思われて。逃げてはならぬとドクターは立ち止まり、再度手の中のアルミのカップに見入ります。頑丈なケーキの壁を破って溢れた、たおやかでほろ甘いチョコレートのしずく。

そっと匙で掬い唇に触れると、それは胸が痛くなるほどの弱弱しい音色となって、そのくせいつまでも舌にとどまって忘れられないような重さを残して、得体の知れない誓いに熱く燃えるドクターの心の中へと落ちてゆくように思われました。

―一辺倒では味気ない…。僕は素直な気持ちを言ったまでだけれど、それが不本意にも君を傷つけてしまった。いや、僕は軽率過ぎたんだ、君が言わんとしていることはあの時も分かっていた、それなのに僕は言葉を選びそこね、時を殺めてしまったのだ。それなのに君はこうしてまた僕にチャンスをくれるのか―


「ドクター! 目を開けてちゃ只管打座にならないよ!」

突然、当の金髪娘の声がし、ドクターははっと我に返ります。


うむ、そうでした、ワタクシ、クレアをミネラル医院から立ち退かせたのか、ドクターが返事をするまでそこで待たせているのか、うっかり書くのを忘れていたか、言い訳がましく言えば、曖昧にしておき、読者の方のご想像に…の作戦へ持ち込もうとしていました。

クレアはそう、じっと待っていたのです。ドクターの返事を聞こうと、ドクターが悶々としているのを、牧草地で草を食む家畜の無心さで見つめていたのです、それもあの時、ドクターを生意気にも叱りつけ、説教めいたことを言った、あの時の眼差しで。

「いや待て、クレアくん。僕はまずそもそも座ってすらいない」


こうしてワタクシの場面転換能力のヤバさも露呈されました以上、ドクターさんの捉えどころのない苦しみも掬い上げ、彼を幸せへと導いてあげなくては! 


ドクターはスプーンをカップに戻し、それをそっと机の上に置くと、やおらクレアのほうに向き直り、ゆっくりと腰をかがめ、クレアと視線を合わせると、大きく深呼吸しました。そして彼はおもむろに白衣の裏ポケットに手を入れると、そこから青い羽根を…と書きたいところがまたしても残念無念の有馬記念!

考えてみたら、ここミネラルタウンには「逆プロポーズ」の文化が無いのです! なんとも珍妙なジ・田舎クヴァリテート。あの時分は女は強かったのですよ、身も、心も…。ええい、もはやよろしい、なんとでもなればよい。

ドクターはスプーンをカップに戻し、それをそっと机の上に置くと、やおらクレアのほうに向き直り、ゆっくりと腰をかがめ、クレアと視線を合わせると、おもむろに口を開きます。

「今僕の胸で熱く燃える、そうだ、この誓いが」

そう重く、地を這うような湿った太い声で勢い彼はそこまで言うと、依然彼女がもたらしたたおやかな甘みの残る舌先から言葉を紡ぎ出しました、温かく、柔らかで今にも崩れ溶けてしまいそうな、しかしそれでいてずっとその余韻が耳の奥に、脳の奥に漂い続けるような、とろんと虚ろな響きで―。


「…この誓いが白衣の英雄と牧場の娘とを結び付ける」


クレアくん、僕のプロポーズを受けてくれたまえ、英雄がソットヴォーチェで春を呼んでも君はそれを拒みはしないだろう、君が憧れる「英雄」はまさに今日、この冬の感謝祭の日に、君が君の崇める白衣の英雄に持ってきてくれた、このフォンダンショコラのようであれ、ということ!

今日のフォンダンショコラが理想通りにうまくとろけたのはきっとあなたに焦がれる私の想いと、あなたが私の憧れを無下にしませんようにとのお祈りが宿ったから、そしてあなたのように迸る熱情をやんわりと伝えられるひとは他にはおりません、そっと目を開けるのと同じように、そっと言葉に想いを乗せるのは簡単に思えて至難の業。力だけが英雄のとり得ではないことをあなたは実のところ分かってくださっていた、やはりあなたは私の英雄―プロポーズ、喜んでお受けいたします!


クレアはおもむろにオーバーオールの胸ポケットに手を入れ、幸せを運ぶ青い鳥の羽をドクターの手に握らせるのでした。

ドククレお題「囁いて」。チョコレート菓子のレシピ集を見ていたとき、フォンダンショコラの写真に「これは…!ケーキ生地からとろんとチョコレートが出てくる…おお、これぞまさしくHeiss in der Brust brennt mir der Eid, der mich dir Edlen vermaehlt(今僕の胸で熱く燃えるこの誓い、高貴なあなたよ僕と結婚してくれ)の、Heiss in der Brust brennt mir der Eidがケーキ生地で、der以下でとろんとチョコが!」となにかが閃きまして…。なんかこう、医者で知性のあるドクターには肝心要のプロポーズをそっと囁いてほしいな、との想いからこの話が書かれました。英雄の定義は難しいけれど、なんたら一辺倒ではいくら力があっても真の意味で英雄とは言えないように思います。筆者が実際に登場するパターンはこれまで書いたことがあった…ような気もするのですが…ここまで顕著なのは初めてかな??実際…語彙力不足に低スペック脳、そして場面転換と心中描写に年々苛まれているワタクシです。。


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