兄さんとねこと少年

初夏の緑薫るすがすがしい朝。朝露をしっぽりまとったセントジョンズワートが舗装の行き届いていない牧場の柵いっぱいに細い茎をのばし、聖ヨハネが流したといわれる血の色がほんのりとその表皮を染めています。まるでマメ科の植物のように、丸くて小さな葉を房状に茎にぶら下げたくましく地面を這うセントジョンズワート。その健気な一葉さえ傷つけまいと、あえてしっとりとぬれた地面で靴を汚しながら、ロイドはバレンタインの町を目指していました。

かつてはサンクスギビングとバレンタインの町の間に鉄道を通し、二つの町の距離を近づけようとのインフラ計画がもちあがったこともありました。しかしサンクスギビング駅を出てすぐのアドベント砂漠の苛酷な気候と、砂漠そのものの灼熱よりも篤いモルモン教徒の信仰心から、敷設工事はしばしば難航を極め、ようやくのことでバレンタインの隣町イースターまでは路線が通ったものの、今度はイースターとバレンタインの間に横たわる湿地帯に行く手を阻まれ計画は頓挫。そうこうするうちに、頼みの綱とされていたこの国きっての資産家ダンカンが、ミサイル製造の密約とともに合衆国政府から安く土地の払い下げを受けていたことが取り沙汰され、挙句の果てには氏が、湿地帯の埋め立て費用と線路敷設のための資金を自身の趣味であるストリップ劇の箱建設に横領しようとしたことが大スキャンダルとなり、国を挙げてのインフラ計画は永久にごみバケツ入り。とうとうイースターとバレンタインの町は、その間に十分な土砂を流し込む費用すら確保されないまま、完全に引き離されてしまいました。

サンクスギビング生まれのロイドがバレンタインの町まで赴くには、そんなわけで、とりあえず極楽特急でイースターの町まで向かい、イースターからは徒歩で、バッファローや強いワニがのんびりと暮らしている湿地帯を横切らなくてはならないはず…でした。しかしあの「事件」が、その不便解消という副産物をうまいこともたらしてくれたのです。なにより、あの「事件」のお陰で、ロイドの親友であるマザーズディ生まれのニンテンの幼馴染ピッピの別荘が、その湿地帯のど真ん中で発見されたことが勿怪の幸い。ニンテンは、彼のその無鉄砲な幼馴染が、この広い国のどこか、もっともゲフェアーでもっともアーベントイヤーな場所に別荘を構えていることこそ知れ、その「もっともゲフェアーでもっともアーベントイヤーな場所」がどこなのかまでは知らなかったのです。

小麦も育たぬ湿った低地にのっそりと白亜の建物が浮かび上がった時には、ニンテンもロイドもアナも、そこはこの湿地帯の大地主さまの棲家で、建物の奥ではブルドッグのような大地主さまがビロードの椅子にふんぞりかえり、バッファローの肉を食っては骨を床に並べ、白骨標本を眺めながらもっと可愛い小動物が迷い込んではこないかと生暖かい息を吐き、舌なめずりして自分たちを待ち構えているに違いないと覚悟を決めてしまったほど―動物園で宇宙人と戦ったり、ハローウィンのホテルでクラークに襲われたり、無人の豪邸でお化けたちに脅かされたりしてきたニンテンたちは、あまりに存在感抜群な建築物を見ると、その奥に野獣の存在を妄想する悪い癖がついてしまっていたのです。ところがそこにはそんな血に飢えた肉食動物は住んでおらず、ゾンビが出ようが物怖じしない男勝りの天然少女が暮らしていたのですが、ブルドッグのような破廉恥男が飛びかかって来るものと信じて建物に乗り込んだニンテンたちは、すんでのところでバットとレーザー光線とフライパンで乙女を絞殺しかかり―反対にピッピの返り討ちにあって全治3日の重傷を負ってしまったのでした。

この思い込みによる大失敗が功を奏したのか、ニンテンたちが別荘で手当てを受けているうちに外のごみバケツのなかから廃棄されたインフラ計画とともにロイドの実父まで発見されるという、ことは当初の想定からかなり斜め下を行く予想外の展開へ。とどのつまり、この別荘でインフラ計画を知り尽くしたロイドの父とピッピの父とが顔なじみになったことがいっぺんにことを進展させたのでした。ロイドのパパがなぜ湿地帯で半ホームレス状態になっていたのかは後々語るとしまして、天才科学少年の父親と自然の迷宮を知り尽くすアドヴェンチャーファミリーの父親とが結託すれば、この低温多湿の大地を効率よく横断する電動トロッコ・ごみバケツ便を開通させるなんざ関ヶ原の合戦より呆気なく決着がつくというもの。ダンカンなんぞに任せておけばマクベスの死から1000年経っても達成され得ないような文明の奇跡が、2人の名も無き偉人のお陰でものの半日もしないうちに達成されてしまったのです。

友人のつてと自身の親族が成し得た偉業に乗っかりロイドはゆうゆうとバレンタインの北の果て、広大な乳牛牧場のはずれに降り立ちました。ここの牧場で数多く飼育されているスイスブラウン牛のミルクから作られたチョコレートを、とあるイーストエンドの留学生が買い込み、滞在中に迎えた聖バレンチヌスの日に異性にお義理で贈ったところがまさかの大三元、以来この国でもバレンタインデーにチョコレートを贈り合う文化が定着したため、文化の火付け役となったこの牧場は自然「チョコレート牧場」と呼ばれるようになったとか。むろん、当のスイスブラウン牛たちはそんな外界の、いや人間界の出来事なんてモーの外(ほか)。

彼女たちは昨日も今日も明後日も、きちんと手入れされた牧草にどっかりと腰を下ろし、先刻食んだ丈のある草をゆっくりと反芻し続けることでしょう。牛のテーブルマナーは馬のそれとは異なり、彼女たちは草を少しずつ少しずつ無心にかじっては味わうことをせず、とりあえず一息に詰め込んでからあとで吐き戻し、ゆっくりじっくりお楽しみを独占するのを好しとするのでした。

牧場の柵の向こうより気まぐれに聞こえてくる乳牛の緊張感のない間抜けな吼え声にロイドが心和ませながら歩を進めていると、突然目の前に見たことのない広場が姿を現しました。何かの特設会場なのか、羽ペンを思わせる大きなのぼりが風にはためき、そこにはミルクと農産物の絵が大きくペイントされています。真っ白の仮設テントがいくつか並び、何とも言えないおいしそうな匂いが道行く猫の鼻をもくすぐります。ロイドが興味津々、テントの中をのぞき込むと、そこには驚くべき顔がありました。

「テディ!」
「お、サンクスギビングのメガネ野郎!」

仮設テントの下にいたのはほかでもない、この町生まれでこの町育ちのテディでした。逆三角形の割と整った端正な顔立ち、すらっとその中央を貫く高い胡坐鼻には若々しい赤のサングラスが輝き、丁寧に塗り固められたリーゼントはすがすがしい朝の空気につんと立っています。大きな胸とたくましい腕の大親友、不良集団ブラックブラッド団の若きリーダー。あの「事件」で両親を亡くし今はライブハウスで唄い、ライブスタッフも兼任し、唯一の家族であるシャム猫とイグアナを食べさせるだけは充分に稼いでいるらしいテディざえもん。例の「バレンタインにはチョコレートを贈り合おう」文化をこの国に開花させたヤーパーナーも彼の先祖の末裔…だとかなんとか。

まあともあれ、バレンタイン生まれの彼がチョコレート牧場の一角にいようが至極当然極まりないことなのに、それに驚いてしまったロイドは自分の軽率さと短絡発想に頭をかきました。

「わりぃ、わりぃ、ロイド、だな。あンの、ハロルド・ロイドとおなじナメェの」

ニヤッと悪戯っぽく口角をあげるテディ。彼の口調には何の嫌味もなく、いかにも「不良」らしい粗野な言葉遣いの中にも度量の広い人間のぬくもりが感じられるのですからなかなかの人格者です。

…は、ハロルドだって! そんな大人物と比べないでおくれよ、とクスクス笑いながら、ロイドはロイドで愛用の眼鏡をかけ直します。

「へェ。俺は知ってらァ、俺の遠いご先祖サマの生まれた国ンさ、えーと、ほら、国会ビルディングだっけ、トーキョース…カイツリーだったか、なんかとにかく、すんげェ建物建設したのもロイドって野郎だったんだろ?」
「帝国ホテルだよ、フランク・ロイド・ライトが建設したものだよね。ライトの手がけた建物はこの国にもたくさん残ってるだろ。どっちみち、ボクはユーモアのセンスにゃハロルドに負けるし、作図のセンスにゃフランクに遠く及ばないさ」
「へい、へい。スイへいリーベボクノフネ。おメェさんは天才科学少年のロイドさんでした」

あの嫌味ないじめっ子のひとりが同じ口を叩いたらボクは到底やりきれないだろう、ロイドは思います。丸い卵も切りようで四角なのか、そもそも比べる卵が違うのか、テディの軽口が今もあの「事件」のときも、自分に刺さったことなんて一度もありません。それどころか、その優しい不良の言葉は臆病で寂しがりの心をすっかり麻痺させ、自分の奥に眠る未知なる自己を引きずり出してくれるような、そんな錯覚さえ与えてくれるのです。―そしてそれはまさしく錯覚ですらないのでしょうが!

「んーで、その科学少年がまたなんだ?」
「それはむしろこっちのセリフだよ! 君こそここでなにを?」
言いながらロイドは初めてテディの手元に目を落とし合点しました。タッパに盛られたポテトサラダとドラムスティックにコンソメスープ、プラスチックのお椀にはふかふかのパンひとつか良い香りのジャスミンライスがひともり。その横にはチョコレート牧場でとれた低温殺菌牛乳の小瓶がずらずら。この特設会場は町のホームレスに食事を配るボランティア団体が定期的に設置するもので、テディはそのボランティアのひとり、というわけだったのです。

「言わねーでも分かるだろうがよ! 来てくれて嬉しいぜ」
「なんてことないさ、ちょうど学校も休みで、牛乳を買い足しついでにライブでもって思ってさ。今夜、ボクの大好きなウクレレとピアニカの四重奏が対バン呼ばれてて。フィフティーン・ロックとウクレニカ、面白そうでしょ? ま、ライブまではすることもないし、なにか手伝えることあるかな?」
「いよっ! 待ってました! そうこなくっちゃぁなぁ! やっぱ持つべきものはテクノ好きの戦友だぜ、バックステージ入れてやるよ、俺、DJもやってっから」
「そっちじゃなくてこっちの話!」
「おいおい、顔に『まんざらじゃないな』て書いてあンぜ、ウレシーくせに。なーに、こっちは簡単だ、ここにいもサラダ、こっちに鶏肉、ここに肉汁だ。パンかライスかはくれって言われたほうを渡せよ。…あと、こいつを忘れンな!」

大きな手で300ミリリットルの小さなボトルをカウベルのように振りながら、テディが農夫顔負けに牛乳の営業をするので、ロイドは自然、頬がほころんでしまいました。しかしおどけるテディの言葉の奥にはチョコレート牧場の抱える深刻な問題が隠されていることも、ロイドはよくよく知っていました。

―豊作貧乏。低温殺菌の技術が確立された時分は牛乳の出荷が注文に追い付かないこともあったほど牧場は潤っていました、しかし味を占めた牧場全体が酪農ビジネスに手を出してしまったのが、今から思えば運の尽き、羽振りの良さに目のくらんだ素朴な農夫たちは、牛の品種改良と種付けの回数、搾乳から瓶詰までの全工程の機械化を一気に加速させ、あたかも工場製品のように大量生産された乳牛たちは、農夫たちが夢から覚めたころには、市場に出回ることなく廃棄されてしまう牛乳瓶を生み出すだけとなりました。まだ若くて精力絶倫の牛たちの連続屠殺が社会問題となったのもそのころ。農場経営に付きまとう、家畜の過剰生産による悲劇を、バレンタインの人たちは深刻に、そして真摯に受け止め、乳製品の生産と牛産方法を見直すとともに、余ったミルクをこうやって無償でふるまうことで、なんとか問題解決の糸口をつかもうと必死なのです。

ブランド牛にさえも忍び寄るこの得体の知れない黒い影は、あの「事件」とは全くの無関係と言え、人々の心に深い傷跡を残すものでした。

テディとロイドは並んで「仕事」にとりかかります。お昼時に向かって食事をもらいに来る家無き人たちの数も増して行きます。この手のボランティアは初めてのロイドも、持ち前の頭の良さから全く乱れることのない手さばきで、ぱっぱと食材を器に盛っては目の前の人に手渡して行きます。申し訳なさそうな表情で受け取っていく者、ありがとう、ありがとうと口癖のように繰り返しながら受け取っていく者、目が見えないのか手探りでロイドの腕をつかんでくるひと、路上生活ですっかり根性がねじれてしまったのか汚い言葉で当たり散らして来るひと…入れ代わり立ち代わり暗い影を背負うひとたちが目の前に現れます。

そうしたひとたちが配給を受けてテントの脇に呆然と立ちすくんでいるさまは、自分がいつしか彼らのような境遇に晒されるかもしれない、ということを全く知らないものたちにとって、あまりにみるも無残な光景ですらありました。―


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