ピースオブマインド

夏真っ盛りのマザーズディ。その片田舎に立つ小さな一軒家。土埃の舞う一本道を歩きながら、彼は首を曲げ、楽しげに後ろをついてくる友だちに話しかけます。
「暑いなー。とうとう、夏休みなんだね!」

青と黄色のボーダーシャツに赤のキャップをかぶった黒髪の青年はにっこりと笑います。野球少年でサンフランシスコジャイアンツのファンの、ニンテンです。額ににじんだ汗を首にかけていた手拭いでぬぐいながら、彼はとうとう体ごと完全に振り返って続けます。
「ぼくさ、この右に出るものは誰もいないってんで悪名高い通信簿を母さんに見せるっていう試練を乗り越えたら、ぱっと海でも山でも遊びに行きたいな。ざぶんと大海原に飛び込んで、思いっきり自由を満喫するんだ。山もいい。カブトムシやクワガタムシがぼくを待ってるんだ。あ、だけどちょっと無理だな。だってサマーカード書かなくっちゃ、先生とか、もちろん君たちにも! 今年の柄は何にしようかな、まず、早くはがき買いに行かないと。あれ売り切れるとホント、どこに行っても売ってないんだもん。郵便局はだめなんだ、前ちょっとしたことでケンカしちゃって! 行きにくくなっちゃったんだよ。色鉛筆も買っておかないと、毎年それで大失敗するんだぜ。怪我には注意だ、おととしなんて野球に没頭しすぎて手に豆作っちゃってさ、それがサマーカード書き出したらはぜるんだもん、たまったもんじゃないよ。とにかく、今年は早いとこ、カード書いちゃおっと。それがすんだら、スイカをどっさり食べるんだ。お昼ごはんはスイカ! 暑い日にはかき氷つきだ。夏バテにはうなぎのかば焼きも…」
「あなたはいつだっておしゃべりで、話が長いのよ! 動かすのは口じゃなくて手にしなさいな」 と眉間にしわを寄せて呆れるように言ったのは、金髪の髪をツインテールに結んだ少女。
「わわ、ごめん! じゃ、今年の夏ぐらいは羊のようにおとなしく、宿題ちゃんとやろうっと」
へへっとニンテンは笑います。そして彼は歩みを止めて、ぱっと手を広げます。
「アナは今年の夏、なにするつもり?」

アナと呼ばれたのはさきの金髪の少女。寒い寒いスノーマンと呼ばれる街の、教会の娘です。でも彼女は南国の太陽のように、明るくて、そして陽気な少女、好奇心が強く、なんにでも挑戦する積極的な少女でした。

「私ね、まず、新しい帽子を編もうと思うの」
頭に手をやってアナは言います。
「前まで使ってたのは、ママが編んでくれたものなんだけど。もうボロボロになっちゃって。私、このまえ日曜学校の後で婦人会のおばさまたちから編み方を教わったから、自分でも作ってみるつもり!」
「え! ねぇ、ぼくにも麦わら帽子作ってよ! この暑さったらやりきれないや」
「私、あなたの頭の大きさなんて図りたくないわ、だって、それは本当にたいしたことないんですもの。それに、あなたは普段の赤い帽子がいちばんお似合いよ!」
アナは大変お上品にジョークをかまして、黒髪の少年に一撃加えると、さらに話をつづけます。
「それからね、またちょっとピアノを練習しようと思うの」
「なんだ、また、なんかほら、モーツァルトとかっての?」
「ううん、今度はドビュッシーっていうフランスの作曲家のよ。彼の≪雨の庭≫っていう曲を弾きたくなっちゃって」

たしかに、雨が恋しい季節です。

「でもすごく難しいの、その曲。だってまずエチュードなんですもの、毎日毎日何時間も練習しなくちゃ腕になじまなくて。おまけにアルペジョに規則性がありそうで、ないんですの」
「僕もその曲、大好きです」さっきからずっと黙って話に聞き入っていた丸眼鏡の少年がはっとして口を挟みます。「おわりにフランスの民謡が挟まれる、あの響きがなんともいえません」
まあ、ロイドも? 私もよ、よかった! とアナははしゃいでいます。そんなにいい曲なら、今度ぼくにも聞かせてよ、ニンテンも笑います。事実彼は、エチュードもアルペジョも、規則性も、フランス民謡の響きも、どれ一つとして理解してはいませんでした。
「あ、じゃあ、ロイドは? ロイドは今年の夏、なにするつもり?」
「僕ですか?」


ロイドと呼ばれたのは小太りの丸眼鏡の少年。銀髪で丸顔の、天才科学少年です。物静かで大人しく、気弱な彼は友だちの問いにすぐには答えられなくて、じっと黙って考えを整頓します。人の話を聞くのは大好きなんだけど、いざ自分が話す番になるとなかなか口が開かなくて。でもそんな自分を、彼の大切な友だちは一言もとがめはしませんでした。
「まずはなによりいっぱい勉強しなくちゃいけないんだ、僕、進学することに決めててさ、その試験が秋口にあるから、過去の問題を研究して、その対策をして、単語や用語もいっぱいいっぱい覚えて。それにたくさん本を読んで見識を広めなくちゃいけない。あと、今年度最後に理科の先生に研究論文を提出することになってて。それに関係するDVDとか映像資料をいくつか見て、それらを比較しなくちゃいけないんだ」
さすがは、がり勉少年の名にふさわしい夏休みです。
「君はいつだって真面目で、積極的だよね! だけど、ちょっとぐらい息抜きしたらどうだい? 勉強って退屈じゃないの?」
勉強という言葉を聞くと吐き気を催すニンテンは顔をしかめます。
「いえいえ、大変だけど。退屈じゃないですよ、だって。自分の好きなことをしてるんだから!」
「へぇ、ロイドは勉強が趣味なのね!」
アナまで感心します。
「それじゃ、あんなに成績がいいのもうなずけるわ。むしろ、物足りないんじゃない?」
「なんだって、ちょっと通信簿見せろよ、ぼくのすばらしいやつも見せてあげるから!」
ま、まって! とロイドが自分の肩に下げていたショルダーバックに手をやる前に、黒髪の少年はもうそれを奪い取って中を開けていました。

ロイドのかばんの中には、たくさんのレポート用紙に黒いシンプルな筆箱、理科に関する実用書や、ノートがいっぱい入っていました。しかしそのなかに、見慣れない表紙のペーパーバックを見つけてニンテンはびっくりしました。なにせそこに書いてある題名が、分かるようでいて分からない言葉だったのです。

「これ、なんだい、ロイド? 英語っぽいけど英語じゃないよね」
「ああ、それは」
相当まずいものでも見つかったかのようにロイドはしどろもどろ。
「ドイツ語の小説なんだ、前に翻訳を読んで気に入ったからこの夏、ほんの少しでも原文で読んでみようと思って。先生に聞いたら、心安く貸してくれてね」
「ロイド、ドイツ語なんてわかるの?」
「ほんの少しだけだけど、だってほら、理科のヴィムシュタイン先生はドイツの生まれで、よく僕にドイツ語教えてくれるんだ。すごく論理的で分かりやすい文構造なんだって。…Aber es ist wirklich schwer, dass diese Grammatik zu lernen und zu beherrschen, da man sie durch viele strenge Regeln binden. ―でもそれ実際大変なんだ、それらの文法を覚えることと使いこなすこと、なぜなら強いたっぷりの規則がそれらを縛ってるから」

ロイドはたどたどしくドイツ風の言いまわしとイントネーションをつかってそこまで言うと、その分厚い本を奪い返します。
「あと、僕の家系はもともと、ゴールドラッシュの時にドイツから移り住んできたって言われてて。どこかその血が残っているらしいんだ」
「じゃ、この前、ワインをヴァインって言ったのはそのせいかい?」
「ああ」恥ずかしそうにロイドは頬を紅潮させます。「うん、ドイツ語じゃ、wとvの発音が英語と逆だから」
「それにしても、難しそうな本ね、理科の本なの?」
「いえ…純文学です」
「ロイドって理科の本しか読まないと思ってたよ!」
「そんなことはありませんよ!」

本をかばんにもどしてロイドは苦笑します。

「科学は確かに生活を便利にしてくれます。僕らの冒険を支えてくれた電車や複葉機に、戦車。戦車は生活を便利にするものじゃありませんが、あれが動かなければ僕らの闘いは失敗に終わっていたでしょう。それに電車が走るのも、複葉機が空を舞うのも、全部科学のおかげ。一昔前にはそれは、魔法とか魔術のひとつに考えられていたに違いない、だから僕は理科にロマンと魅力を感じてしまうんだ。だけど」
そこまで言って、口数の少ない少年は口をつぐみ息を整えます。
「まえに、ヴィムシュタイン先生が教えてくれたんだ、私の国では多少の不便を忍んでも、精神的に豊かに、人間として自分自身になろうとするんだってね。それで、ロイド、君も先生と愛弟子としてぜひ、先生の国の姿勢にならってくれたまえって」
「聖書にもあるわね、たとえ全世界をもらっても、自分自身を失ったらなんになるって」
アナがうんうんとうなずきます。
「にしても、さすがヴィムシュタイン先生だな!」

色白で、厳格な重々しい、いかにも北ドイツの神経質そうな先生の顔立ちを思い出し、ニンテンは眉間にしわを寄せます。

「先生はこどものころ、理科の実験や発明に没頭する一方で、教会に行ってバッハの音楽を聴いたり、近くのカフェでシューマンを聴いたり、博物館のサロンで週一回開かれるコンサートに足を運んだりなんだりしてたらしい、それは自分を満足させるためでもあったし、そこに集まった人たちとカンカンガクガク議論するうち、思いがけずよいひらめきを得ることもあったし、なにより研究に行き詰った時に自分を癒し、高めてくれたのは、バッハの、あの崇高なパイプオルガンの響きだったって言ってた。僕は先生の言葉ですっかり、いろんな音楽を聴くようになったし、残念ながらアナみたいに楽典には明るくなくて、家には電子ピアノしかないけど、バッハの平均律とか、モーツァルトとか、ときにはシューマンを弾いて楽しむようになった、第一それらから以外にも、論理的思考や、幾何学的発想、そして自由な発明力を得ることができたりするんだ」

芸術と科学が汎世界的なつながりを持っているとしたら素敵だな、そういってロイドはかばんに手を添えます。

「純文学を読むのも、自分を深めて、人間として自分自身になるため。自分の中に、自分を豊かにしてくれる何かを蓄えるためなんだ。僕の未来の仕事はきっと、みんなの生活を便利にするなにかを発明することだと思う、だけど次から次へと新しいものを目指すあまり、自分を見失ってまで、発明に没頭するんじゃ、逆に、なにも生まれないんだと思うんだ。じゃあ、自分は何をすればいいんだろう、自分って何なんだろう、自分はどこからきてそしてどこに行くんだろうっていうのを考え、決め、見つけるために、僕はいろんな種類の本や小説を読もうと思う。それに、ヴィムシュタイン先生は音楽だったけど、僕は…僕はこの本に慰めや励まし、心の葛藤や平安を覚えるんだ。ちょうど、この本の主人公、保守な姿勢とストイックな生活にこり固まった芸術家が、すべての法則や規則から自由な美の化身の虜になって、最終的にはそれと一体化し浄化されてゆくように、ね」

美は人をはにかみ屋にする、そう言ってロイドは恥ずかしそうに頭を垂れて、もう一言も口をきかなくなりました。

3人はまた歩き出します。田舎の小道を歩いて行くと、柵に囲まれた小さな一軒家、ニンテンの家が見えてきます。一学期が終わった今日、みんな家に遊びに来いよ、そう誘ったのは彼。きっとママが、おいしいクランベリーのパイを焼いて待ってくれているはずです。
「さっきの本さ、なんて名前なんだい?」
家の前まで来て少年はロイドに向き直ります。長いこと黙っていたロイドは、恥じらうように口を少ししか動かさないで、それを言うのがもったいないぐらいの細く透き通った声で答えるのでした。


「―Der Tod in Venedig―『ベニスに死す』」

いつぞやのブログお題「今年の夏休み」創作です。一説にはロイドはファミリーネームが「シュナイダー(Schneider=仕立て屋さん?!)」とのこと!それならぜひドイツ文学読んでね!ロイド君はドイツ語も話せるよね!きゃっきゃ☆とすぐさまはじまるこの悪乗り。。ともあれ、この年はなにゆえ『ヴェニスに死す』にはまってしまい…そういえばヴァーグナーもヴェニスに死んだ男でしたな。だけど私の語感としては「ヴェネチア客死」の訳の方が好きです←


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