別れのプレゼント

北国の真っ暗な夜。耳をすませば雪の降る音が聞こえてきそうなぐらい静かな夜です。スノーウッド寄宿舎では消灯時間をとうに過ぎ、先生や徹夜で実験に関わっている一部の上級生の部屋をのぞいて、どの部屋も電気は消され、ひっそりと静まり返っています。

しかし、窓の奥がかすかに明るい部屋がありました。―ジェフとトニーの部屋です。もう何日も前から、ジェフは消灯時間を過ぎても机に向かってなにかをこしらえているようでした。

彼は友人のトニーの眠りを妨げないようにと電気スタンドをとっぱらい、二本のキャンドルの弱い光に頼っています。しかし気配り屋のトニーは大の親友がなにをしているのか気になってなかなか寝付けません。それに、もし見回りに来た先生に彼がまだ起きていることがバレたらどんなお叱りを受けるだろうかと心配でたまらないのでした。

「ジェフったら、昨日も今日もなにやってるのさ」
布団から頭を覗かせトニーはふくれっつらをします。しかし、返事は得られませんでした。よほど集中しているのか、それとも毎晩のように声をかけられてうんざりしているのか、ジェフは黙々と作業を続けています。
「早く寝ないと体に悪いよ、今日だって授業中ずっと眠そうだったじゃないか」 ―実際のところ、時たま授業中に船をこぐジェフを起こすのもトニーの大切な“仕事”でした― 「それに目にも悪いよ、それ以上悪くなったらどうするつもりなのさ?」
あいかわらず無視されてばかりなので、トニーも黙り込みました。ジェフの、金属をいじる音が時たま聞こえます。
「まったく、秀才さんの考えることは凡人の僕にはわかりかねるよ」
溜息交じりトニーは沈黙を破りましたが、この言葉もむなしく宙に浮いていきました。


トニーが初めてジェフに出会ったのは寮のカフェテリア、そのときジェフはたった独りで隅のテーブルに腰かけ悩み事をしているように見えました。その様がなんだかとても寂しそうで、悲しそうで、トニーは一緒にいた他の友人をそっちのけにジェフに声をかけたのです ―トニーは人見知りを全くしないタイプでしたから、誰にでも気さくに声をかけてしまうのです―。見知らぬ少年に気安く声をかけられ、ジェフはたいそう驚いた様子でトニーを睨みつけましたが、毎日のようにトニーが話を続けるうち、彼は次第にトニーに心を開いていきました。

話を聞いてみれば、彼は天才科学者である父の肩書きのせいで周りから過剰に特別視され、己の優秀な成績すらねたまれ、ずいぶんと肩身の狭い思いをしてきたというのです。正直、自分に優しくしてくれたのはトニーが初めてだとさえ言いました。それはトニーをとても得意な気分にさせましたが、実際彼はトニーの想像している以上に思いつめていたのです。

ある日、ジェフは高熱を出し寝込んでしまったのですが、トニーや彼の友人が必死で看病しても一向に治る気配がないので医務室の先生に頼んで徹底的に診察してもらい、うつ病の一歩手前だと言われ大騒ぎになってしまったのです。 ついには、そのときの彼のルームメイトが必要以上に彼をいじめていたことが分かり、すぐにでも部屋を変えるように言われトニーの部屋に移って様子を見ることになったのです。一時的な治療のためとはいえ、トニーの喜びようと言ったらありませんでした。お陰で数ヶ月するうちジェフは全快しました。しかし、そのまま、また部屋を戻しても同じだと言うことでトニーが説得に説得を重ね、結局それから何年もたった今でさえ、二人は同室で暮らしているということなのです。そんな二人の仲は今や寄宿舎中の誰もが知るところとなってしまいました。


そんなわけで、トニーはジェフのことはなんでもよく知っていました。議論好きなお国柄にしては物静かでちょっぴり空想家。機械工専攻のくせにどの科目も抜群にできる天才。見かけによらず臆病で引っ込み思案だけれど、芯は強く時に大胆な一面さえのぞかせる。それから生まれつき目が悪くて、かなり度の強い眼鏡をかけていて…。でもトニーがジェフに惹かれ、そして嫌味なことに呆れたことは、彼のその根性でした。それは彼の魅力であり悪癖でもありました。とにかくジェフは何かに熱中すると満足いくまでそれをやりこまないと気がすまない性分なのです。

それがあまりにひどい時には周りがなんと言おうと止めようとしない。寝食忘れるなんて当たり前、雪崩が起きようと霙が降ろうと、雷が落ちようと、とにかく頑固なまでに作業を続行する彼。もし、この地をあの恐ろしいと聞く「地震」が襲ったとしたら、まっさきに被害にあうのも絶対に彼。ましてや実験なりメカの組み立てが失敗しようものなら地球が滅んでも机を離れないのではないかと思わせるほどでした。


だから今の彼の姿はちっとも不思議ではないはずなのです。 でも…。いつもとは違う、とトニーは感じていました。普段なら、いくら作業に集中しているとは言え、トニーの声かけには何かしら反応してくれたのに ―それは時に皮肉で、時にジョークで、そして時には逆にトニーを心配する言葉でした―ここ数日のジェフときたら、トニーのお小言に答えてすらくれません。そればかりかまるでトニーがそこにいないかのように、黙々と作業を続けています。

トニーがまた何か言おうと口を開きかけたとき、ジェフはふっとキャンドルの明かりを消しました。どうやら作業が終わったようです。ゆっくり腰を上げ、回れ右をすると、彼はそのままふらふらとベッドに倒れこんで安堵を思わせる深い溜息を吐きました。
「そらごらんよ、まともに歩けもしないぐらい疲れちゃって。何をしていたの?」
「…」
「何だよ、僕に言えないことなのかい? たとえば『悪魔の発明』とか?」
「それはないな」トニーのその大切な親友は苦笑しました。「それはぼくの分野ではないもの」
温和な性格からそう言ったのか、それとも完璧なジョークなのか、トニーは笑い出してしまいました。

「ねぇジェフ、明日は何の日か知ってるよね? 知らないなんて言わせないよ?」
ジェフは驚いてトニーのほうに顔を向けます。
「…まさか試験日じゃなかったよね?」
その言葉に逆にトニーは飛び起きて、目を見開きました。ショックで言葉が出ないのか、かすかに唇を震わせてジェフを見つめています。そんなトニーを妙な表情で見やって、ジェフは目をつぶりました。よほど疲れて眠かったのか、着替えもしなければ眼鏡もかけたままで―。


しかしトニーはすぐには眠れませんでした。そう、実は明日はトニーの誕生日なのです。本当のところ、今も彼の友人たちの数名はクッキーをプレゼントボックスにつめているらしいのです。ところが、トニーの一番の親友であるはずのジェフは、どうやら明日がその親友の誕生日であることすら知らなかったというのです!

―まさかとは思っていたけれど…本当に忘れていただなんて!―

真面目な彼の性格に免じて許してあげようか、それとも明日の朝起きた瞬間に怒鳴りつけてやろうか、トニーはどうしたものかと思考をめぐらせます。しかしそうこうするうち、とうとう彼も深い眠りに落ちていきました。

真夜中、ジェフははっと目を覚ましました。いつの間にか、額にびっしりと汗をかき、呼吸も乱れています。再び目をつぶりますが、何か気がかりな夢を見たような気がして、なかなか寝付けません。
―ジェフ、聞こえる? 私はポーラ。そしてもうひとりネス。スリークの墓場に閉じ込められているの。あなたの力が必要なの、早く来て。南へ向かって―
なんだろう、これが俗に言う精神感応(テレパシー)とかいうものだろうか? まるで体全身に流れ込み響く甘い少女の声。しかもそれは恐怖におびえ、震えているようです。そう思うとジェフは慌てて目を開け、体を起こしました。汗をぬぐって、息を整えます。それが夢なのか現実なのかまだよくわからない、第六感なんてものは絶対認めたくないし、仮に百歩譲って認めたとしても自分にその能力があるとは信じられない。もしかして、連日の徹夜がたたって疲れ切っているだけなのか、それとも着替えるのをすっかり忘れていたのがいけなかったのか…。

―ジェフ! お願い、早く来て! あなたの力が必要なの!―

ああ、まただ! ジェフは下を向いてこぶしを握りしめます。抗し難い感情がぐっと沸き起こり、頭はしびれ理性は全く働かなくなっています。

―早く、早くして! 私たち狙われてるの、あなた以外に頼れる人がいない、さあ、ジェフ! もう一分も無駄にできない―
―わかったよ、わかった!―

まるで体が自分の体でないような気がしてジェフは身震いします。何者かに操られるようにベッドから降り、再度深呼吸し息を整えると、そのままトニーには内緒で部屋を後にしようと歩き出しました。


しかし、敏感なトニーにはかないません、彼が戸口に手を触れた瞬間、目を覚まされてしまいました。
「ジェフ? どこに行くの?」
―ごめん、トニー…―
ぎゅっと目をつぶりジェフはいやいやと首を振りました。
「ポーラという少女がぼくを呼んでいるんだ。一刻も早くスリークに向かわないといけない、君にも聞こえるだろう?」
「僕にはそんなの聞こえないよ! ジェフ、やっぱり疲れちゃってるんだ、医務室に行ってきたらどう?」
トニーの懸命なジョークにジェフは力なく微笑みます。
「ありがとう、でも幻聴だとは思えないんだ。テレパシーなんだろうと思う…」
必死で平生を保とうとしますが体がビリビリとしびれ立っているのもやっと、そっとドアに寄りかかって懸命に言葉を絞り出します。

―本当はトニーの言うとおり、疲れているだけかもしれない…こんなの絶対におかしいもの…―
―ジェフ! 私の声が聞こえる? 聞こえるなら早く、南に向かって!―

「スリークに…行かないと」
ほとんどかすれ声で言ってジェフはぐいっと額の汗をぬぐいます。
「スリークって言ったら別大陸じゃないか、定期船に乗ったって何日かかると思っているの? おまけに最近は強風とか豪雪で運航中止便があいついでいるのに…、今晩出て行こうと明日の夜出て行こうと一緒だよ!」
可哀想にトニーは涙声です。
「信じておくれ、なにが何でも今行かないといけないんだ。君はもう横になって、これは夢だったということにしておいてくれよ」
「ダメだよ、ジェフったら!」横になるどころかもうトニーはベッドから飛び降りています。「疲れてるんだろう? 眠いんだろう? 無理したらろくなことないよ! それに明日は…」
ああ、そうだ、この秀才さんはそれすら知らないって言ったっけ。そうだ、それだからこそこうやって気安く出て行けるんだ。

「…トニー」
トニーの言葉にジェフは申し訳なさそうに頭を上げ、机のほうに歩き出しました。ところが…。
「いいよ、もう。最後だから教えてあげるけど、明日―というか今日は僕の誕生日なんだ。でも君はそれすら知らなかったんだろ?」
その言葉にジェフはどきりとして足を止めてしまいました。違う、そう言いたげに口を開きかけますが、それを制してトニーは残忍な眼で彼を睨みつけました。
「いまさら思い出して祝ってくれたってこれっぽっちも嬉しくないね!!」
ジェフはさっと血の気が引くのを感じました。ふっと全身の力が抜け、ついにその場に崩れるように座り込んでしまいました。そんなジェフの哀れな姿を見ても、トニーの怒りは一向におさまりません、むしろ今まで無視され続けてきた自分が初めて優位に立ったような優越感を覚え、つかつかとジェフのところまで歩いていくと、必死で立ち上がろうとしている親友の頭を片手で乱暴に押さえつけ、相手を真上から見下ろしました。

「君はいつもいっつも自分のことばっかりで、僕がせっかく心配して声をかけたって何も言わないし、言ってもうるさがるだけだし…。でもそれがジェフ、君っていう人間なんだよね、今だってこうやって僕が止めるのも聞かずに出て行こうとする。…あんまりだ!」
「トニー…違うんだ、お願い、聞いておくれ」
「いやなこった! 部屋のインテリア以下同然の扱いをされ続けてきて、おまけに誕生日まで忘れられて、なにが分かるかってんだ!」
「…」
トニーの思惑通り、ジェフは相当ショックを受け、力なくうつむくとかすかに身震いしました。

なんとかしてトニーに誤解を解いてもらわないと、それから出発しないと…、大好きなトニーと大喧嘩で別れる何て辛すぎる…。それなのに…。
―ジェフ、今どこにいるの? もう歩き始めてる? お願い、一刻も早くスリークに来て! ネスも必死で祈っている、さあ―
ポーラからのテレパシーはよりいっそう強く体に応えます。ダメだ、行かないと…。どうして知りもしない人の声がこんなにぼくを駆り立てるんだろう? まるでぼくじゃないぼくが早くスリークへ向かうように攻め立ててくるようだ…。


まだ恐ろしい剣幕でトニーが自分を上から睨みつけている。急がないといけないのに体は動かない。ジェフは息をするのもやっとです。うつむいたまま、やっとのことで彼は声を出しました。
「…トニー。そうだ…ぼくは大バカだ、もう君の親友なんかじゃないんだ」
トニーの顔を見るのも恥ずかしくて、彼は顔を上げずにふらふらと立ち上がり、大親友に背を向けました。
「こんな自己中心的で身勝手なぼくを赦してくれなくたってかまわない、…でもありがとう、トニー…こんなぼくと仲良しになってくれて…ぼくは行くよ」
かすれ声でそう言うと、ジェフはドアノブを回します。
「勝手にすればいいじゃないか」相変わらずトニーは冷淡な口調で言い放ちます。「でもガウス先輩には一言言っておいてくれよ。黙って出て行ったら、どうして止めなかったんだって明日の朝僕が先生や先輩に責められちゃうもん…、いや僕がとんだとばっちりをうけても平気だってこと?」
小さく首を振って、ジェフは逃げるように部屋を出て行きました。


カチャリとドアの閉まる音がしてトニーははっと我に返りました。少しずつ少しずつ、今自分が何をしていたのか思い出し、頭の中が真っ白になっていきます。すっかり我を忘れ、感情に任せて、なんてひどいことをジェフに言ってしまったんだ! いけない、追いかけないと、そして謝って見送らないと…。そう思うのに、なぜか体が動きません。もしかすると、自分の誕生日を忘れられたことにまだどこかで反感を覚えていたからかもしれない。せっかく心配して声をかけてあげても無視され続けてきたことが憎らしくてたまらなかったのかもしれない。またむらむらと怒りが湧き起こってくるのを感じます。

―そうなんだ、謝る必要なんかない。ジェフは散々僕を傷つけて平気な顔をしていたんだもの、今度はその報いを受けて苦しむ番だ、親友として上等なお見舞いをくれてやったではないか…、いい気味だ! おまけに女の子に呼ばれて行くだなんて、単なるノロケじゃないかっ―

気がつけば目から涙があふれ出て、トニーはベッドにうつぶせになりました。
「そうだよ、君なんかもう僕の親友なんかじゃないんだ…赤の他人なんだ…勝手にしろ!」
冬の凍てつく冷たい空気がずっしりと、残された独りの少年にのしかかります。トニーが泣きつかれて眠ってしまうころには、もうジェフは、タス湖のほとりまで出ていました。


翌朝、ジェフが無事出発したという話をガウス先輩から聞いてもトニーはなんとも思いませんでした。半ば絶交した友人がなにをしようともう自分には関係のないことだと必死で割り切ろうとしていたのです。


授業が終わり、友人たちからのささやかな誕生会が終わって、トニーは部屋に戻りました。ふと、たった昨日までここで一緒に仲良く過ごしてきた痩身長躯の友人の姿が脳裏に浮かびます。つい、いつもの癖で「ジェフ」といいかけてはっと口を押さえます。
「あんなヤツ、知らないっ…!」
自分でも信じられないぐらいに大声で怒鳴りつけ気を紛らわそうとしますが、心は言うことを聞きません。もしそのポーラとかいう子の声が聞こえなかったらジェフは今日もここにいる。たとえ誕生会に居合わせなかったとしてもちゃんとここにいて、「お疲れ、トニー」と微笑んで声をかけてくれる…。そう思うと切なくて目の前がかすかに潤んできます。
―馬鹿馬鹿しい、もういいんだ…―
こみ上げる苦しみをぐっと抑えたとき、無意識に彼の目はジェフの机に向けられていました。

昨日までここで黙々と作業をしていたジェフ、いったいなにをしていたんだ。それは僕を部屋の一部以下扱いしないといけないほど重大なことなのか? それを確かめる権利ぐらい、僕にあるはず…。そしてはっとしました。普段の彼なら作業が終われば消しゴムのカス一つまみすら机の上に残さないはずなのに、ドライバーもしまわなければ、使わなかったらしいネジも、金属の削りカスも机の上一杯に散らばったままです。おまけに小さなオルゴールまで置いてあります。

「おいトニー、いくらなんだって、あんなヤツ、とはあまりにひどいじゃないか」不意に戸が開き、ガウス先輩が顔を覗かせました。「聞いたところでは精神感応ってヤツは恐ろしくて、特にそれを信じられない人の場合、身動きができなくなるほどその人を苦しめるそうだぞ」
一息にそこまでいうとガウス先輩はつかつかと部屋に入ってきて、憤るトニーの肩に手を置きました。
「それにジェフがどれほど今日という日を楽しみにしていたかお前知らなかったのか?」
「知るもんか! あいつは今日僕の誕生日だってこと、忘れてたんだもん!」
ほお、そうか。そいつは驚きだな、そう言いたげにガウスは顔をゆがめて見せると、トニーの腕を引いて実験室まで走っていきました。

「お前の言うとおりなら俺はスノーウッド校の屋上から飛び降りたってかまわんぜ」
どうやら、誰から電話がかかってきていたようです。ガウス先輩は受話器を取り上げ、「やはりトニーは出る気はないそうだ」と言ったまま、受話器をトニーの耳元に押し付けました。


電話の主はジェフでした。彼の声を聞くや否や、トニーは自分がどれだけ残酷なことをしてしまったのか思い知らされたのです。

『…すみません、先輩。トニーが、もう二度と口を聞いてはくれないことは承知の上でしたが。それでももし一言でも謝ることができればよかったと、虫のいいことばかり考えていました。…あのオルゴール、もうトニーにわたしてくださいましたか? 約束したとおり、どうか、ぼくからってことは伏せておいてあげてください。それを聞いたら、きっとトニー、取り乱してしまうと思いますから』

―オルゴール? 君から? 一体どういうことだい?―

心の中で思います。ジェフはまだ、ガウスがトニーに代わったことに気がつかず続けます。

『…ぼくみたいな鈍感な人間だから…よかったんですよね、前の誕生日の日に、トニーたちがサプライズパーティを開いてくれて、純粋に喜ぶことができたのは。ぼくは、今まで誕生日なんか祝ってもらった覚えはありませんし、誕生日を忘れられるということがどれだけ辛いことなのか全く想像できなかった、でもトニーがその辛さを教えてくれたんだと思っています。どうか、ジェフがありがとう、そしてごめんなさい、と言っていたことを伝えてあげてください。聞いてもらえなくてもかまいません…彼にだまって誕生日プレゼントを用意して、彼を驚かせてあげようなんて、バカなことを考えて彼を傷つけてしまったのは他でもない、ぼくなのですから』

―まさか! あの机の上のオルゴールは…―
はっとしてトニーは下を向きました。

そうなのです、研究熱心で家庭を顧みない父親と、大病院で朝から晩まで働き息子に構う時間すらない母親を持つジェフは常に孤独でした。最後に誕生日を祝ってもらったのがいつなのか、そもそも自分がいつ生まれたのかさえよく思い出せないと彼が自嘲気味に話すのを聞いてトニーはひどく胸をつかれました。そこでそんな彼を驚かせそして喜ばせるためにガウス先輩まで巻き込んで、いわゆる不意打ちの、「サプライズパーティ」を開いたのです―ひとつ問題だったのが、ジェフが自分の誕生日すら忘れかけていたということでしたが…。

ともあれ、生まれて初めてのお祝いにジェフがどれだけ驚き、喜び、感謝したかは言葉にできないほど、トニーはまだあのときの幸せそうなジェフの顔を忘れてはいません。


―そうだ、あの時のお返しのつもりで…―
電話口ではジェフがなにやらマシンの話をしているようです。相変わらず、彼はガウスと喋っているつもりなのです。しかし、トニーには彼の言葉はほとんど聞こえていませんでした。


ジェフは今までずっと僕へのプレゼントを…。連日のあの徹夜も、すべてあのオルゴールを作っていて…。知らず知らずのうちに目から涙があふれ出ます。ジェフは、ジェフは本当は今日が僕の誕生日だってことをちゃんと知っていて! そればかりか僕に気づかれないように、それから今日までに完成するように寝る時間まで削って、一心にあれを作っていたなんて…。通りで僕の呼びかけにも答えてくれなかったんだ。

トニーははっとしました。あの時、部屋を後にするときのあのジェフの表情。せっかくギリギリで出来上がったプレゼントを、結局は自ら大親友のトニーに手渡せなくなったと悟った辛さ。 そして彼にしか聞こえないらしいその不思議な呼びかけは現実主義者のジェフを縛りつけ彼の思考をストップさせてしまった。呼びかけに支配され、ほとんど身動きができない中で懸命に言葉を絞り出していた彼。

―そう言えば、あの時、机のほうに引き返したのは…―
せめてトニーに少し早いお祝いを言ってプレゼントを渡すことができたら、いや、むしろずっと今日が大親友の誕生日であることを知らない振りをしていたから、その誤解を解こうと思ったからに違いありません。ところがそれを阻止したのはポーラからの不思議な呼びかけではなく、怒りに任せて言いたい放題に怒鳴り散らした自分…。

―トニー…違うんだ、お願い、聞いておくれ―

一体どうしてあの時、素直に彼の話を聞けなかったのでしょう! 彼の苦しそうな言葉が今も耳元で響きます。目をつぶってしきりに頭を振りますが、ジェフの声と表情はよりいっそう鮮明に浮かび上がるばかりです。真冬だというのに滝のように汗を流し、荒々しい気を吐きながら必死で本当のことをわかってもらおうと訴えていた、ジェフの、その苦しそうな声と表情が…!

おまけに、信じたくもないテレパシーに縛られ、大親友と思ってきたトニーに睨まれ、一瞬にして二重の苦しみを強いられ逃げ場のなくなったジェフは、なんとトニーが不本意に口走った言葉を真に受け止めて自らを汚し『トニーの親友ではない』というレッテルを自分で自分に貼り付けて…。そして必死で謝って逃げるように出て行ったのです。


―それなのに僕は…―
大親友でありながら、ジェフのことはなにからなにまでわかってあげていると思っていながら、本当は全くわかっていなかった。本当の親友失格はジェフではなくて自分のほうだった。怒りに任せて、ただでさえ不思議な力に取り憑かれて動けなくなっているジェフをさらに苦しめて、それで謝りもしないで逆にいい気味だと思ってしまった自分。なんてひどい、憎らしい人間なんだ…。


『…すみません、長々と。実験の妨げになってしまいますね、それでは…』
「ジェフっ、待って、切らないで!」
『…!』

ガウス先輩がにやりと笑って実験室から出て行きました。
『ト…トニー? 一体…いや…』
すっかりジェフは取り乱してしまったよう、一体どこまで彼を苦しめるつもりだと心の中で繰り返すのですが、いつもは相手がうんざりするほどおしゃべりなはずのトニーの口は、半開きになったまま動きません。
『ああ…トニー! お誕生日おめでとう、…忘れていて…本当にごめんね…』

ああ、ジェフ、君は嘘をつくのはめっぽう苦手なんだろう?!

『今も怒っているんだね。すぐに切るから…、夕べはありがとう、本音をぶつけてくれて。ぼく、本当に本当に、自分のことばっかりで君のことなんか蚊帳の外だった。もう謝っても聞いてくれないことは承知のうえなんだけど…』
「ジェフったら!」ついにトニーは叫び、何故か笑い出していました。「あんなの冗談に決まってるじゃないか!」
ああ、後が続かないよ、どうやって謝ればいいんだ? もう笑いはおさまって頭の中は真っ白です。

「僕…僕、いつも真剣で真面目なジェフのことが大好きなのに、なんであんなひどいことを言ったのか自分でもよくわからないんだ。そのう、そんなジェフの姿が見られるなら僕、花瓶でも額縁でもなんでもなるよ」
『トニー…』
「違う、僕が言いたいのはジョークじゃなくって…」明るく振舞おうとすればするほど舌が回りません。「僕こそ謝らせて、本当にほんっとうに、ごめんなさい、ジェフ」
もうダメだ、せき止めていた涙がどっとあふれ出、もう話しても言葉になりません。

気がつけば、電話の向こうでもジェフが咽びかえっている声が聞こえます。ジェフがそんな大胆に泣くなんて…キリキリと胸が痛くなります。思ったとおりだ…ぼくは、ジェフの心を血まみれにしてしまった、両手両足縛られてがんじがらめにされた彼を、鋭利な刃物でグサリとさしてしまって、それを手当さえしなかったから…。とたんにトニーには今なんて言ってあげるのが最善なのか分かりました。

「ジェフ…本当はちゃんと僕の誕生日、覚えていてくれたんだね?…あんなひどいこと言っちゃって、僕、…僕のほうこそ謝りきれないよ」
涙で声がでないのか、言葉をさぐっているのか、なかなか返事は返ってきません。やっと聞こえたジェフの声は、震えすっかり自信を失い、トニーの知っている彼の声とはとても思えないものでした。

『トニー…ずっと前に、君と君の友達みんなでぼくを祝ってくれたろう? あの時、正直とっても嬉しかったんだ…。だから…、ぼくもあんな感じで君を驚かせてあげたかった…。でも、本当はどうやればいいのか…さっぱりわからなかったし、なにからなにまで内緒にしておかないとって思ううちに、君が心配して声をかけてくれるのまで全部無視していて…気がついたら…』
「君は僕よりやり手だったよ、ジェフ…」また涙がこみ上げてきてトニーも息を殺しました。「完璧にしてやられちゃった…、完敗だよ」
言いにくい言葉が喉元にひっかかります。でもそれを言ってしまえばきっとジェフと仲直りできる、そうトニーは思って覚悟を決めました。

「君はバカじゃないよ、身勝手でも、自己中心でもない…。僕のほうがずっと愚かでわがままだった、だから…。僕こそいまさら君に赦しを乞うなんて虫の良いことはできないけど」一息にそこまで言って深呼吸し、トニーは続けます。「ごめんなさい…本当に本当にごめんなさい」
『よしてくれ…トニー、まるで罪人みたいじゃないか…。悪いのはぼくのほうなのに…本当に謝らないといけないのは…ぼくのほうなのに…。トニー、君のことずっと無視していて…』

しかし、トニーは続けさせませんでした。ジェフが「ごめんなさい」と言うのをあからさまに遮り、大声で叫びました。
「ジェフ、とんだサプライズをありがとう、やっぱり君は僕の大親友さ!」
『トニー…』返ってくるのは暗く沈んだ声です。『こんなぼくを…赦してくれるのかい? そればかりかまた親友って言ってくれるのかい?』
「当たり前じゃないか、ジェフ!」
いつの間にやらまた笑顔が戻ってきていました。しばらく黙ってからジェフが、心持持ち直したような声で、でもまだ涙声で続けます。

『ありがとう、トニー。ぼく…ぼく、君と友達になれて本当に幸せだよ…』
「嫌だなぁ、ジェフったら、照れるじゃないか」さらりといつもの調子で言うとトニーは目に浮かんだ涙をぬぐってガッツポーズをしました。「もう泣くのはよしてよ、君に涙なんて不似合いだよ。…今どこにいるの? 定期船の中?」
『ううん…もうスリークに着いている。パパのラボから乗り物を借りたんだ』
「さすが、ジェフだなぁ! じゃあもうポーラさんに会えたんだね? 僕のことよろしく伝えてよね、お願いだよ!」
どうやらジェフも泣き止んだようです、トニーには慣れっこの沈黙がしばらく続いた後、やっと普段の落ち着いた声でジェフは言いました。

『もちろんだよ、トニー。だって君はぼくの大切な大切な大親友なんだから!』
―ああ、ジェフが僕のことを大親友って言ってくれた!―
あまりに嬉しくて、トニーは思わず電話を切ってしまって…。そして上機嫌で部屋に戻ります。

ジェフの傷をすべて手当してあげたわけではないけれど、すっと胸が軽くなるのを感じました。むらむらと立ち込めていた雪雲が晴れ、弱弱しいながらも暖かい太陽の光がさしこむように、トニーの心は晴れ渡っていました。

「あ。先輩…どうか屋上から飛び降りる話はなかったことにしてください!」
ほお、そう言って部屋で待っていたガウス先輩はトニーの手にオルゴールを手渡しました。
「ジュピターだぜ、ホルストの。去年のチャリティコンサートでおまえさんがこれに聴き入っていたのをちゃんと知っていたんだな、これをたった一人で作り上げるとはジェフのヤツ…」
「先輩、もういいんです!」
これ以上続けられたら、また切なくなって泣いてしまうかもしれない。世話好きのガウス先輩を部屋から追い出すと、トニーは小さなオルゴールのネジをそっと回しました。


甘美な音色がその小さな金属の中で反響しあい、耳に心地よく聞こえます。世界中のオルゴール店を探しても絶対に手に入らないその音色は、まるでジェフがここにいるかのような不思議な錯覚さえ与え、トニーの胸を一杯にします。

「ありがとう、ジェフ…、僕のほうこそ君みたいな友達をもてて幸せ一杯だよ」
そっと独りごち、トニーは目をつぶって、その美しい音色に耳を傾けました。

寒い寒い北の台地。今日も静まり返ったスノーウッドの個室に、甘く暖かいオルゴールの音が響き渡っています。

ジェフとトニーのお話処女作。最初の最初からオリジナル要素満載です…。トニーがジェフにほれたジェフの「根性」は、ジェフの魅力であり悪癖でもあった、と!あばたもえくぼとは言いえて妙でありますことです…。


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