笑ウ門ニ福来ル

廊下を歩きながらジェフはあることに気がつきました。それは彼にとってとても大切なもの、それがないと実は自分の生きがいの8割は海底に沈んだも同然なぐらいに重要かつ貴重なものが失われてしまったということです。

そうです! ジェフの大親友のトニーの顔から、あの宝石のまたたきがきれいさっぱり消え失せてしまっていたのです! 

何時の間にその純真無垢な青年が微笑むことを忘れてしまったのか、ジェフには考える力もありませんでした。今はそれよりトニーの微笑みを取り戻すほうが先決です。トニーのエンジェルの笑みはジェフの生きる活力のようなものだったのです。しかし、不器用なジェフにはどうすればトニーがまたアマリリスのようにぱっと輝いてくれるのかまったく見当がつきませんでした。

「とりあえず」と彼は心の中で思います。「トニーのふさぎの虫の原因を突き止めよう、そこをくすぐればきっとぼくのエンジェルは機嫌を直してくれるだろうから」


さて、ジェフのエンジェルの純白の羽をむしり取って、それを悪魔に変えてしまったのは一体何者でしょう? 一番に考えられるのが、次の授業です。次の授業は天使様が一番苦手とする微積分の授業です。きっと先生にあてられるのが怖いんだろう。それで思いつめているんだ。

いや…。それともガウス先輩かもしれません。昨日クラブで先輩が何の前触れもなくエンジェルのスケジュール帳を覗き込んでいたのです。先輩が、トニーの私情を無視して理不尽な予定を無理やり組ませたのかもしれない。

それとも…。幸運にもこの美しきエンジェルの愛の接吻を受けたバンドが最近3年ぶりにニューアルバムを出したな。歌詞があまりにショッキングだったんじゃ? 曲があまりに理想とかけ離れていたんじゃないか?


「トニー、微積分、わからなかったら教えてあげるよ!」
精一杯の笑顔でジェフはトニーに話しかけました。
「いいよ。それ、夕べエリックに聞いたから」
振り返りもしないでエンジェルは残忍な言葉を吐きました。これはジェフにとってかなりの痛手でした。つまりジェフは心のどこかでエリックという冷静で頭の切れるクラスメイトにライバル意識を燃やしていたのです。

「じゃあ、来週ヒマかな? 本屋さんに遊びに行こうよ」
胸の傷を隠しながら詰め寄ります。
「いいよ。来週はガウス先輩とライブに行くんだ」
すっかりしょげかえってジェフは歩調を緩めました。どうやらトニーはぼくよりガウス先輩とライブのほうが大切らしい。そう思うだけでなんとなく自分が負け組になった気がします。
「そうそう、あのアルバムどうだったの? ずいぶん、熱心に聴いていたみたいじゃないか」
「べつに。変態とお祭りとしっとりと官能な曲だったよ」
「変態」と「お祭り」と「しっとり」と「官能」な曲って一体どんなものなのだろうか…ともあれ、口達者で自分の心中を周囲にぶちまけないと気が済まないトニーが、そんなそっけない返事をするとは尋常じゃありません。

そうか、エンジェルの笑顔を奪ったのはあのバンドだったんだな。ジェフはそう思ってさらに思案を巡らせます。でも彼が次に口を開く前にトニーは教室に消えて行きました。


トニーの笑みを失ったジェフは、今まさにバッテリーがだんだん減っていく携帯電話と同じ状態でしたから、電池交換サインが出る前にエナジーを補給しなくてはいけません。トニーの笑顔が自分にとってこんなにも大切なものだったなんて! 健康にしてもなんにしても、大切なものというのは失って初めてその価値が分かるものです。授業が終わって部屋に戻ったジェフはふらふらしながらトニーごひいきのバンドに探りを入れてみることにしました。エンジェルには内緒でこっそりアルバムを開いて歌詞カードを読んでみます。でもそれだけでは「変態」と「お祭り」と「しっとり」と「官能」の意味がよく分からなかったのでCDを聴いてみようと思います。…が。


「おい、ジェフ! よしといたほうがいいぜ、それ以上は」
背後で声、見ればガウス先輩です。ニヤニヤ笑いが彼の口元に浮かんでいます。これは彼がことのすべてを把握している証拠です。ジェフは向かっ腹立てて先輩に食いかかりました。
「だって! トニーがちっとも笑わなくなっちまったんですよ! これはぼくにとっては、賭けた馬が全部掲示板にいるのに4ドルしか儲からなかったのよりはるかに大大大問題なんです!」
「オット、ダス・ヴァイセ・イヒ・ニヒト!」ガウス先輩は母国語でおどけて見せました。「そりゃァ知らなかったな、俺は。だけど、トニーのふさぎの虫ってヤツァ俺のチョットふさぎの虫ホイホイでホカクしておいたぜ、安心しな」


授業が終わると、たまらなくなったトニーは実験室にとびこみました。そこではガウス先輩が試験管を握りしめていたところでしたが、トニーの剣幕に彼はうっかりこぶしに力を入れすぎて管を破壊してしまいました。
―最近…最近ジェフが大泣きして…! どうしたのって訊いても、ほっといてくれって言われて! 嫌われちゃったのかな、どうしたらいいのかわかんないよ―


「…と、まあ、そういうわけだ。あとはお二人さんでなんとかしておくれ、俺は試験管の代償を払わなくちゃァいかんからなァ!」

ガウス先輩はぱっと片手で泣きじゃくるトニーを部屋に押し込むと逃げるように去って行きました。ジェフははっとしました、トニーの話に思い当たる節があったのです。最近と言ってもそれはちょうど夏休みの始まるころのことでした。

「トニー…ごめんね、違うんだ。勘違いだよ。あれは君のことをつっぱねていたんじゃないんだ」
ジェフは言いながら頭の中で文章を組み立てます。
「あれはね、図書館で『黒馬物語』って本を借りたんだ。ずっと前に一度読んだことがあったんだけど、突然また読みたくなって。だけどそこに書かれていたことが、とっても残酷で、非情で、そしてとても感動的で…つい涙が…それでほっといてって言ったのはそれは単に余韻に浸りたかっただけなんだよ。だから…お願い、機嫌を直してよ、君のこと、嫌いになんかなってないよ、君のこと大好きなんだからさぁ」
ポケットからハンカチを出してエンジェルの涙を拭ってあげます。トニーはまだ半信半疑といった感じでジェフの顔を見上げます。本当だよ、そう必死で訴えながらジェフはにっこり笑います。
「トニーも、きっと読めばわかるよ。図書館、一緒に行こうか」
うん、と小さくうなずいてトニーはジェフの手を握りました。こうやってエンジェルの手をひいてあげるのは初めてかもしれない、ジェフは奇妙な気持ちになりながら、でもしっかりしないと! と思って図書館を目指します。

一冊の分厚い、でも優しい文体で書かれた本を借りるころ、トニーの機嫌もすっかり直っていました。こんな小さな一冊の本が、むっつり屋のジェフをあれほどまで号泣させる力があるなんて! そう思うとなぜかとても愉快な気持ちになってしまうのです。そしてこんな小さな本一冊のためにジェフに対してつむじを曲げていた自分がバカバカしくなります。

「あのさ、トニー」ジェフは喉から手でも出すように言います。「ギブアンドテイクっていうか。あのCD、ぼくも聴いていいかな?」
うん、とエンジェルはうなずき振り返りました。
「僕こそごめんねジェフ…ジェフの笑顔が見れて、なんかすっかり気が楽になっちゃった! 僕ね、ジェフの笑ってる顔が大好きなんだもん」

照れくさいのとおかしいのでジェフとトニーは同時にハハっと笑いあうのでした。


画・なるきさま!

いつぞやの「10月2日トニーの日」創作です。むっつりしているジェフに媚を売るトニーならイメージが付くので反対にしてみたら?と思い立ち…。その折、なるきさまが素敵なイラストを寄せてくださり、このイラストから最後の図書館デート?のくだりを思いつきました。トニーのCDはおそらくムーンライダーズの『Tokyo 7』であったと記憶しています。。


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