夏の旅

「量子力学。ニュートンの運動法則やマクスウェルの電磁法則に代わる新しい運動法則。せんきゅうひゃくにじゅう…えーと、にじゅう…」
「1922年」
「1922年ハイゼンベルクの『不確定性原理』に帰結し、超マクロ…」
「超ミクロ」
「…現象においては、確率的な予測しか行えないという特徴を持つ」

もううんざりだよ、とトニーはげんなりして肩をすくめます。そう、ちょうどいまスノーウッド校は前期課程修了の試験期間、ジェフもトニーも山ほどの試験とペーパーを抱えて夜も眠れぬほどの多忙っぷり。もっと俗な言葉で言えば目下修羅場中。神経が参るのもいた仕方ありません。

「電子や光子の構成要素を粒子でも波でもない『量子』とし、量子的状態は『波動関数』を用いた偏微分方程式の解で記される。これはシュレーディンガー方程式と呼ばれ、これによって超ミクロ現象を確率的に正しく予測することができる」
「なんでジェフはそうスラスラと言えるのさ!」
ぷっとふくれっ面をしてトニーが机に肘を立てます。
「ぼくが必死で相対性理論についての論文を書いている横で君が大声で音読してるもんだから耳にこびりついてしまったんだよ!」
お陰でご覧、ぼくの論文はたった3行しか進んでない! ジェフが書きかけのレポート用紙をぴらっと広げます。A4サイズのレポート用紙に

『20世紀初めにアイゼンシュタインによって発見された理論で、特殊相対性理論と
一般相対性理論の二つから成り立っている。特殊相対性理論は一定の速さで運動する
観測者に対するもので、相対性原理と光速度不変の原理の二つを指導原理とする』

の3行。

とたんにトニーは笑い出します。
「よかった、トニーがご機嫌になってくれた」
にっこり笑ってジェフはレポート用紙を机の上に戻し、アイゼンシュタインの文字を正しく「アインシュタイン」と書き直しました。トニーもやっと笑うのをやめて机に向きなおります。

となりでがんばっているジェフがいる。田舎者のトニーとは違って、偉大な科学者の息子のジェフが凡人のトニーとおんなじように試験やレポートに頭を抱えて苦しんでいる。初めてジェフに会った時にはきっと彼は神さまみたいに頭がよくて講義の内容から試験問題まで全てをいとも簡単に理解して解いてしまうのだろうと思ったものでした。でも本当は、ジェフにも分からない問題はたくさんあるし、講義中に彼が先生に質問することも何回もある。天才科学者の息子と言えど、やっぱりジェフはトニーと同じ人間で神さまなんかでは決してなかった、それだけでずっと気持ちが楽になります。

それにジェフは、いまだってこうして苦しむトニーを手伝ったりジョークで笑わせてくれたりして、そうやってトニーといっしょにがんばってくれるのです。そう思うとトニーはとても幸せな気持ちでいっぱいになるのでした。

「あのさ、ジェフ。この試験地獄が終わったらどっか遊びに行こう」
「一緒にかい?」
「そりゃ、君の論文のほうが僕の試験より早く提出期限が来て、君のほうが僕より早く地獄から解放されることぐらいわかってるよ! …でも」
「冗談、冗談! わかってるよトニー。君の地獄が終わるまでぼくは待つよ、そしたらオペラを観に行こう。ウィンターズ歌劇場の公演パンフレット、この前ガウス先輩が分けてくれたんだ」

あそこ、ほぼ日でオペラやってるから、ジェフは机の引き出しを開けかけます。慌ててトニーは顔だけジェフのほうにむけて首を振ります。
「後でいいよ、ジェフ! これ以上君の論文の邪魔はできない」
「…そうだね、ありがとうトニー」引き出しから手を放し、ジェフは照れ笑いを浮かべます。「それに君の試験勉強の邪魔もできないし」

書きたてホヤホヤの論文を教授の郵便受けにつるんと投函し、ジェフは十字を切りました。悲観的な自分のわりには珍しく入魂の逸品、少しでも良い評価がもらえますようにとお祈りを済ませると、彼は廊下を歩きながらトニーのことを考えます。トニーの試験は明日。そうしたらぼくらはオペラを観に行くんだ、ウィンターズの町の、スノーウッド通りに面した小さな歌劇場、ウィンターズ歌劇場に! 明日の演目はなんだろう、少なくとも失恋や悲哀な物語のオペラじゃないといいな、だいたい恋愛もののオペラなんてそんなやつばっかりだけど。台本も音楽も美しいのがいい。なにせレポートと試験地獄から解放されたぼくらが観に行くオペラなんだ。悲劇モノでは気が滅入ってしまうよ。だからできれば喜劇がいいな。

悶々と悩みながらジェフは不思議な気持ちにとり憑かれていました。考えてみればぼくらは単に、レポートと試験から解放されて自由になったからオペラを観に行くに過ぎないじゃないか。ぼくらのこの辛い地獄での戦いの憂さ晴らしにさえなれば、その演目が悲劇だろうが喜劇だろうが関係ないはずなのに。なんで喜劇にこだわる必要があろう? なんで失恋や悲哀ものはダメなんだろう…

ああ、ぼくは自分で自分が分からない。こんなふうにあの崇高な舞台芸術の傑作を割り切っていいものなんだろうか。…いや。ぼくらがオペラを観に行くのは本当は憂さ晴らしのためなんかじゃない。ましてや論文や試験から解放されたご褒美でもないんだ。もし本当にそれが目的なら、ぼくはなにもトニーを待つ必要なんてないんだ、もちろん抜け駆けしたって構わないだろう。でもそんなことできやしない、ぼくはやっぱりトニーが明日解放されるまで彼を待って、そしてぼくらは2人そろってオペラを観に行くんだ! これはぼくらにとって、とっても大切なおでかけなんだ。他の何にもとって代えることのできない、大切な、大切な一大旅行なんだから!

部屋に戻ります。トニーはこの数日間ほとんど徹夜で粘っています。
「無理して根詰めないほうがいいよ、トニー。少し休んだらどうだい?」
「わかってるよ、ジェフ! だけど今回は本当にまずいんだ。やってもやっても頭に入らないんだもの」
ふうと一息ついてジェフはトニーの横に椅子を持ってきます。
「手伝うよ」
「でも…やっと論文終わったんでしょ? 少しぐらい気を楽にしておくれよ、君の悦びを邪魔したく…」
「トニー、なんてことを言うんだい! ぼくは論文が終わったら君の試験勉強を手伝おうって心に決めていたんだよ!!」
「ああ、僕の自慢のジェフ!」トニーはひょいっとジェフの首に腕を回します。「君はやっぱり神さまか天使さまだ!」

夜遅くまで2人は額を寄せ合って試験勉強をすすめます。ひと段落するたびジェフがカフェにコーヒーとクッキーを買いに行って、それをつまみながら休憩します。そんなとき2人の気持ちはすっかり試験終了後のオペラで一杯になっていました。ジェフが公演プログラムを取り出して明日の演目を確認します。

けれどもジェフがとても現実的な話―例えばチケット代とか指揮者、歌手、演出家の話ばかりをするのを聞いて、トニーは失望しました。ジェフの関心は自分とオペラを観に行くことではなくて、そのオペラが彼にとってどれだけの価値があるものか、その一点にのみ向けられているように感じられて。それならば僕なんか誘わないで1人で観に行けばいいのに…。トニーは内心うなだれます。…でも。

それがジェフのできる精一杯の励ましなんだ、そう自分をなだめます。夢想家の自分と比べたらあきらかにジェフは現実主義な青年、おまけに手先以外はまったくもって不器用ときているから、自分の理想を彼に強要するなんてあまりに惨たらしいこと。

―僕は本当はなんのオペラを観に行くでもいいんだ、誰が唄おうと、誰が演出しようと知ったこっちゃない。ただジェフといっしょに町に遊びにいけること、ジェフといっしょにひとつの芸術を楽しんで試験地獄のうっぷんを晴らせること、それだけが僕にとってこの上もない価値のあることなのに!―

「ジェフ、そろそろ勉強に戻らないと!」
そうだね、ジェフはいいながら頭を振ります。

なんだか気持ちが収まりません。ジェフにしてみても明日の演目がなんであれ、誰が唄おうなんてとんじゃかないはずなのに。トニーを前にすると妙な気持ちが邪魔をして、口をついて出てくるのは建て前だけ。そして公演プログラムはそんなジェフの心の弱みに付け込んで、そのうわべだけをしゃべるジェフの心の中の悪魔に加勢するのです。でも違う、ジェフは首を振りその忌々しいプログラムを丁重に机の中に封印しました。

トニーの試験勉強は夜中の3時頃まで続きました。そしてすっかり疲弊しきった2人は4時間ほどの仮眠をとって、そして試験当日の朝を迎えました。カフェで朝食を済ませて、眠気覚ましのコーヒーを飲むと、トニーはカバンの中にせっせと教科書やノートをしまいます。

「トニー、鉛筆削っといたよ」
「ありがとう、ジェフ! 言ってくれなきゃ、忘れるところだったよ!」
ぼくもよくやらかすから、ジェフは苦笑交じりに肩をすくめ、そしてふと穏やかな表情になってトニーの美しいサファイアブルーの瞳に見入りました。どしたのさ、ジェフ? トニーが首を傾げる前にジェフはそっとトニーの疲れ切った右手を両手で包みこんで無邪気ににっこりと笑います。

「両手握手! がんばれ、トニー!!」

ぎゅっとジェフが両手に力を入れます。ずきんと体の芯が痛くなるのを感じます。ジェフの温かい手から何か特別な霊力のようなものが注ぎ込まれたよう。突如右手が注射針を打たれたように動かなくなります。そのとたん言いようのない甘美な倦怠感が全身を襲い、トニーは頬を赤らめバツ悪そうにうなだれました。いつも自分を励ましてくれるジェフだけど、こんなふうに元気づけてくれたのは初めてのこと。全くどうしたらいいのか分かりません。ジェフの笑顔がかすんで見えて、なんとも言えない感覚に頭がぼうっとなります。ジェフは…試験が終わったら一緒にオペラを観に行こうって言ってくれて。そればかりか、彼の優秀な手、試験じゃいつでも最高点をとる神の手で自分の手を握ってくれた。

…ああ、僕はがんばらなくちゃ。こうやって大切な友だちでかつ憧れのジェフにこんなにも優しくしてもらって。励ましてもらって。それなのに。嬉しい以上の苦しみが、苦しみ以上の喜びがふつふつとわき上がります。硬く凍りついていた自分の魂が熱く燃え上がるのを感じます。苦々しいため息が口から洩れます、同時に胸が熱く高鳴り震えます。こんな感覚に朝から晩までとり憑かれていたら…でも難しい量子力学の試験を受ける苦しみより、このやりきれない苦渋の中にいたほうがよっぽど愉しいだろうな!

じんわりと痺れていた脳が覚醒していきます。靄が晴れるように気持ちの整頓がついていきます。 トニーはぎゅっと右手を握り直しました。なんだか自分が前よりずっと賢くなったような気持ち、もしそれが独りよがりの錯覚にしかすぎないのだとしても、それでもこの右手でどんな難しい問題でも真っ向からぶち当たっていけるという勇気と自信だけはしっかりと自分の内で確立されていました。

「お疲れさま、トニー!」
「すばらしかったよ、ジェフ! 君の助けのお陰できっと満点だ!」
そいつはよかった、ジェフは疲れ切ったトニーを最高の笑みで迎えました。これでぼくらの戦いは終わったんだ、ぼくもトニーも最善を尽くせたし…言うことなしってわけだ!
「早く着替えておいで、トニー。ウィンターズの町までだいぶかかるからね」


よそいきのスーツに着替えなおし2人は寄宿舎を後にしました。冬場は雪に閉ざされるウィンターズもいまは短い夏を迎えたばかり。足元の雪はとけて、黄色や紅色の小さな花がちらほらと顔をのぞかせています。スノーウッド通りの両サイドに植えられた菩提樹は青々と茂り、クリーム色の落花が通り一面を覆っています。リンデンフラワーの柔らかいじゅうたんを踏みながら、ジェフとトニーは地獄で味わった苦しみを互いにぶつけ合っては笑います。ひとしきり試験とレポートに対する文句を放出したところで、トニーは心配そうに顔をゆがめました。

「…今日の演目、なんだっけ?」

ジェフはうっと黙り、大きく深呼吸するとゆっくり首を横に振ってたちどまり体をこわばらせました。しかし彼はすぐにトニーの手を強く握って朗らかに笑います。
「いきあたりばったりで、いいよね?」
今度はトニーが黙る番。でもトニーもすぐにジェフの胸の内を感じとって嬉しそうにうんうんとうなずきます。ジェフとつないだ手がまるで磁石のように、自分をジェフに引き寄せていきます。

「歩こうか?」
「うん」

かぐわしい花の並木道、夏の夜の長旅に2人の気持ちは大きく弾んでいました。

調子に乗って評価基準最終レポートの講義ばかりとってしまったある学期…修羅場を抜けてなんとか落ち着いてからたまりたまった憤懣をジェフとトニーに託して解消しました(ごめんなさい)。お二人はこのあとホントにオペラを観に行くのかきわめて怪しい限りですが、ワタクシは自身のレポート地獄明けたあと3日で6、7つぐらいオペラ(DVD)観ましたです…。


inserted by FC2 system