愛の夜

寒い寒い冬の夜。授業が終わり、部屋に戻ったトニーはそこに大親友の姿を認めて感極まりました。ああ、ジェフがいる! あの夜、突然このスノーウッドを出ていって、長いこと僕を一人ぼっちにした罪深き忠実な親友が! 彼はついこの前、スノーウッドに帰って来た。言葉数の少ない彼は、ただ「ただいま、帰って来たよ」と言っただけで。長い留守の間、どこで何をしていたのか教えてもくれないで。でもきっと、彼はなにかとても重大なことに関わっていて、そしてこの地球にとってかわるぐらいに大切なことをしていたのだろう。だから僕は「おかえり、疲れたろう」とだけ言ってあげて。そして僕らはまた前みたいに、一緒の部屋で一緒に勉強して、一緒におしゃべりできるようになった。…すっかり、前のとおり。元通り。

だけど前と違うことがひとつある、それはドアを開けて部屋に入るとき、僕の胸の内に一瞬「ジェフはいるかな」って不安がよぎること。続いてジェフのいない机が僕の頭をかすめて、僕はすっかり怖気づけいてしまう。ジェフの不在があまりに長過ぎたせいか、あのからっぽの部屋の記憶はいっこうに僕のもとから去ってくれない。…そうして恐る恐る部屋に入ると、ジェフはちゃんと彼の机に腰掛けて、僕を待っていてくれるんだ!

この上なく甘美な至福の喜び! 前には手にすることのできなかった恍惚とした陶酔感! 僕は我を忘れてジェフの腕に飛び込んでしまう。なにか特別な力が僕の体の中で爆発して僕をジェフのもとに吹き飛ばしてしまうみたく…。

「トニー」
困ったように顔をしかめて、ジェフは純朴なルームメイトの頭をよしよししました。
「君の腕がしばりつけなくても、ぼくはもうどこへもいかないよ。さあ顔をあげて、早いところあの忌々しい宿題を片付けてしまおう、そしたらみんなでコーヒーブレイクだ」
「いや、離さないよ、今夜ばっかりは!」
トニーはジェフの腰にまわした腕にぎゅっと力を入れます。今日は大切な日、他の友だちやましてガウス先輩にジェフを渡してなるものか!

「留守の間、君がどこで何をしていたか、僕は全く知らない、ただ唯一分かるのは、君が昼間の奴隷になっていたんだってこと」
押し殺したようにトニーは呟いてジェフの体から手を離します。
「だから君が喜んでくれるように昼の世界の慣習に則って僕は君にこのチョコレートをプレゼントするよ。今日は、バレンタインデーだろ」

あふれ出そうな感情を抑えようと軽口を叩くようにトニーはジェフを真上から見下ろし、そしてさっと可愛らしくラッピングされたバレンタインのチョコレートの箱を差し出します。トニーの愛を象徴するその虚しく甘美なプレゼント。ジェフは黙ったきりその箱をそっと押し開け、許されぬ恋人の想いを口にほかします。そしてあきらめにも似た感情でもってそれをかみ砕いたとたん―!

体中を心地よい鈍痛が走ります。震える手から箱が落ちます、それをさっとトニーは奪い取りジェフにならって自分もチョコレートを口のなかに押し込みます。上から下へ、下から上へ、絶望と永遠にむかう物狂わしいどん欲な感情が2人の体を襲います。渦巻くように持ちあがったそれは2人が互いに目を合わせた瞬間がっちりとぶつかり、目に見えない爆音とともに歓喜に満ちた恋人たちの魂が一つになった刹那、2人は両腕を差し出しお互いを力強く相抱きました。

「…ああ確かに、ぼくは昼間の奴隷だった、昼間に殉死してもいいとさえ思っていた…だが君の面影が、ぼくを昼間の奴隷から解放してくれたのだ。そしてぼくは帰ってくることができた、今、ここに、ここで、こうして君を腕にかき抱くために!」
「愛しい人!」

これは錯覚ではなかろうか、だれが腕の黒縁眼鏡で小麦色の髪の青年を「ジェフ」と認めよう? だれが腕の中のこげ茶の帽子に縮れ毛の青年を「トニー」と認めよう? ああ、一体化した魂の歓喜よ! この上なく大胆で美しい愛の狂喜! とうとう巡り合わせた運命の導き! これまでどれほどこの苦しい想いを閉ざし黙り合ってきたことか。どれほどまで悩み惑わされ互いに互いの気持ちをぶつけあうことができずにいたのだろう。

終には昼間の煩悩から逃れ、時空を超えて繋がりあった法悦の境地。昼間の高慢な諦めの気持ちが一時は僕らの間を切り裂きはしたものの、昼間の思い上がった偽りはとうとう、夜をも見える僕らの眼差しの前に、神聖な夜のチョコレートの魔力によって清められた僕らの瞳の前に、屈するほかなかった。硬く閉められた胸の錠前は開け広げられ、そして僕らはまるで死んで生まれ変わったようにふるまうことができる。

降りてこい、僕らの愛の夜! 僕らの待ち望む忘却を僕らに授けたまえ。お前の法悦をもって僕らを押し包むのだ。そして欺瞞と別離の世界から僕らを永遠に解き放て。

…見よ、とうとう僕らの中の最後の灯は消えた!

昼間の光のなかで照らされていた世界が、幻が、色薄れ、僕らの憧れを悩ますすべての幻影がこの世から消え去ったとしても

―それでもなお僕らは世界の表象なのだ!

昼間にはなんと、僕らのこの至上の喜びを遮り邪魔する障害物が多いことか。だがその昼でさえ、僕らの愛に向かい合わせ怯ませてしまえばよい。…ああそうとも、もう決して起きるものか! どこの誰がどれだけ妬もうとも。どこの誰がどれだけ嘲り笑って噂話を広めようとも!


「ジェフ」トニーがそろりそろりと体を起こします。「僕は幾度となく考えたものさ。君と僕、ジェフとトニーを結ぶ『と』っていう小さな言葉のもつ甘美な響き。この『と』っていう言葉の響きと一緒に君がスノーウッドを去ってしまったとき、それは僕らの絆が消滅したことになるんじゃないかって」
「ぼくらの絆が、ぼくらの愛の絆が死んでしまうって? そんなことあるまい。ああ、確かに昼のあの世界、あの忌々しい世界にはぼくらの可愛い『と』をどういうわけか無理やり剥ぎとって、ぼくらの絆を『ジェフトニ』と縮める連中までいる、いわんや、ぼくらの愛は『ジェフトニ』か『トニジェフ』かで違ってくるという…だがそうやってぼくらを遠ざけるもの、ぼくらの愛に一定の方向性を与え、一心同体のぼくらを引き裂こうとする邪魔以外なにが、死と消滅の手に倒れると思う? ぼくらの可愛い『と』のみがぼくらの間を強く結び付けているのだ、もしぼくらのどちらか一方でも魂の合致を抜け出して愛の優位に立ち、この『と』を否定しようとするならば、もう一方の生でもってその行為を断ち切るしかない」

朦朧とした意識のもとでジェフは喘ぐように言うと、汗のにじんだ額を拭います。夜の闇、永久に別るるのことのない愛への憧れ。名状しがたき希望の中で、がっちりと結びついた彼らの魂が一気に融けあいます。

―甘き愛の夜よ、永久に彼らを目覚めの不幸から解き放て、煩悩と迷情からはるか遠く、偽り、恐れもなく、安らかで穏やかな憧憬の果ての悩み知らぬ消滅、無限の中にあって至高なるまどろみ―! そのなかにあってもはやジェフはジェフでなくて、トニーはトニーでなく…。


突然廊下をコツコツと歩く音が聞こえ、ジェフとトニーは、はたと意識を取り戻しました。ドアの向こうからなにやら強いドイツ語訛りの声が聞こえます。―ガウス先輩か。わなわなと力なくベッドに崩れ、2人はもう一言も、言葉を交わしはしませんでした。

2人の顔にはうっすらと至福の余韻に対する困ったような微笑が浮かび、そして2人の目はあてもなく、また光を失ってしまうほど大儀そうに、部屋の明かりの中をさまよっていました。足音と話し声はだんだん部屋に近づいてきて、扉の前に来た途端、ぴったりと止んでしまいました。

ゆいいつ、まともに「ジェフ×トニー」という話も書かないといけない!と自らに鞭打ち…どうしたらこうなってしまうのか謎は深まるあまりです。これを書いた冬、新国立劇場に《トリスタン》を5回ぐらい観に行ったのですよ…たしか。。…ともあれ寄宿舎の2人部屋でたかだかチョコレート食べたからって哲学問答するのはやめましょう!!


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