灰色の奇蹟

初夏の風ただよう心地よい夜。馬房の中でうつらうつらしていた芦毛馬は小さな物音で目を覚ましました。馬房から顔だけ出して、甘い声で愛するご主人さまを迎えます。 彼と出会ったのは今から2年ぐらい前。でもその日のことは今でもしっかりと覚えています。

その馬は本当の母親を知りません。確かに厳格なおばさん馬が自分の面倒を見てはくれました。 でも彼女ともう一頭、自分と同い年の牡馬もいっしょでした。…つまり自分は孤児(みなしご)なのです。 その厳格なおばさんが実は乳母で、自分の本当の母は自分が生まれたときに死んでしまったことを知ったのは、ずっと後になってからでした。

乳離れしたころ、それまではやさしかったおばさん馬の態度が一変しました。 さも「あなたは私の子供じゃないの」とでも言いたげな顔で自分を退け、実の息子ばかりひいきするようになったのです。 それと同時に仲の良かった義兄も、自分をいじめるようになりました。 彼もきっと、自分が本当の弟でないことを知ったのでしょう。

大きくなって牧草地に出されても、やっぱり自分はみじめでした。 どうしても他の馬たちとはうまくやっていけず、いつもひとりぽっち。 かけっこではいつでもびりっけつだし、ケンカごっこではいつも負けっぱなし。 そんな自分を、いつだって義兄と彼の友だちは笑ってバカにしました。

そんなある日。その日は突然やってきて、そして自分の人生―いや馬生と言ったほうが適当でしょうが―を一変させました。 いつものように仲間の輪から追い出され牧場の柵の近くでぼんやりしていたところに彼がやってきたのです。
(あそんで)
小さな声で話しかけます。ふっと顔を自分の方に向けた彼と目を合わせ、 彼のその驚いたような黒い目の奥に閃光がはじけるのが見てとれました。 彼は一目散に自分のところに来て、牧草地の柵の間から手を伸ばしやさしく自分の頭をなでてくれました。 その手に、くんくんと鼻先をこすりつけます。初めての匂い、どうやら牧場の「人間」ではないよう。

…でも。なんだか彼が自分にとってたった一人の大切な存在のような気がして、 何が何でも気に入ってもらいたいという一心でヒンヒン喉を鳴らします。

切なる思いが通じたのか、彼はよしよしいい子、と甘い声で言いながら柵をくぐって牧草地に入ってきました。 彼のジャケットからは燕麦と藁の香ばしい匂いがします。すっかり嬉しくなって彼の肩に顎をのせて鼻を鳴らすと、 応えるように彼も自分の体に温かい手で触れながら、何度も何度も頬ずりしてくれました。

それからしばらくたって自分は車に乗せられ、今自分のいる小さな牧場にやってきました。 そしてそこで自分を出迎えてくれたのは…とても感じの良さそうな中年男性と、 そしてあの日自分と遊んでくれたやさしい少年、トールくん。 彼はすぐに今まで「チビすけ」と呼ばれていた自分に 「アッシュワイト(白銀の妖精)」という素敵な名前をつけてくれました。 毎朝のブラッシング、ご飯の準備から蹄の手入れまで、彼は前の牧場の人間たち以上になんでも上手にこなしてくれて、 自分は何一つ不自由することがなくなりました。

それにトールは自分をメンタル面からも親身になってサポートしてくれました。 初めて見る物、不審な物、ぎょっとして白目をむくと彼はホォーホォーと自分の体をさすって、 満足いくまでそれがなんであるかを調べさせてくれました。

夜になってひとりぽっちにされるのが怖くて、いっしょに寝てよとお願いすればトールは一晩中添い寝をしてくれました。 ことにあのこの世の終わりをも思わせる雷が鳴りやまない夜には震える自分にトールは一睡もしないで付き添って、 大丈夫だよ、大丈夫だよとなだめ続けてくれました。

そんなやさしくて自分想いのトールのおかげで、 自分はこの世の中に自分に危害を与えるものなんてほとんどないことに気がついたのです。 そしてこの牧場に来て少しもしないうちに、臆病なチビすけは、おとなしくて賢明なアッシュワイトに変貌していました。

自分は好きなだけ彼に甘え、そのかわりに彼の言うことはなんでもおとなしく聞きいれました。 他のどんな馬でも最初は嫌がる「ハミ」や「蹄鉄」や「鞍」も素直に受けいれました。 彼や彼の父親が自分の背中に乗った時もちっとも驚きませんでした。

そして自分がそれらをうまくこなすたび、トールは大喜びで自分をほめてほめてほめちぎってくれました。

馬房の中にもぐりこみ、徹は大切な愛馬の体に身を任せます。 彼の片足には包帯が巻かれています。少し前、駆歩の練習中に乗っていた馬が突然転倒し、 500キロの巨体に挟まれてしまったのです。どちらにせよ、競走馬としての調教を受けているアッシュに乗ることはもはや彼の技量では不可能でしたが、そればかりか歩くことさえままならないのにこうやって会いに来てくれたということには、なにか特別な意味があるに違いありません。アッシュはカリカリと前足で地面をひっかきました。

「…いよいよ明日なんだね」
抱えていた杖をそっと置いて、よろよろと寝わらの上に腰を下ろすと、 芦毛馬の愛するご主人さまは苦々しく笑って見せました。

徹もアッシュと出会った、あの日のことはよく覚えていました。

父さんと新しく牧場に迎える若駒を選びに田舎の零細牧場を訪ねたとき。 牧場主といっしょに厩舎の中に消えてしまった父さんを追いかけるのも気が引けてあてもなく放牧地のほうに足を向けた徹を、みるからに貧弱そうでやつれ顔のアッシュが迎えてくれました。 アッシュがか細い声で話しかけてくれたとき、徹はすっかりその灰色の馬に釘づけになって、 まるで恋にでも落ちたかのようにアッシュのところに駆け寄って、 そしてそのかわいそうな馬と時の経つのを忘れて一緒に遊んであげたのでした。

しかしお別れのときは来るもの。 厩務員の一人がアッシュを厩舎に連れ帰るため牧草地に姿を見せたのです。 彼は、徹の姿を見るや否や、苦笑さえしました。
―その子は肉屋行きの仔馬だよ、坊ちゃん。幼いうちに母馬を亡くした、 人間がなんとかここまで育てたがたぶん競走馬にはむかんね、他の馬を怖がってばかりなんだ。 だからせめて肉屋にでも売っちまえば、こっちもゼニが手に入るってんでいいってもんでさ―

―…それならボクに売ってください!―

あの時、内気で引っ込み思案の自分がどうしてあれだけ思い切ったことが言えたのでしょう!  きっと、天国にいる母さんが力を授けてくれたからに違いありません。
彼もまた、母親の顔をほとんど知らないのです。 物心がつくかつかないうちに、母さんは病気で死んでしまいました。
おまけに徹は、ただでさえ生まれつき気が弱くて争い事はごめんまっぴらなうえに運動神経もそんなによくないし、 かといって勉強もそんなできるわけでもないしで、牧場の息子の肩書以外なんのとりえもなく、 学校ではいつもクラスのいじめっ子にいじめられてばかり。

そんな自分の境遇が、アッシュとあまりにそっくりで、そしてそれが運命的な出会い以外に何物でもなく感じられたのです。 勿論、自分専用の馬を持つのは徹の夢でもありました、でもそれにしてもアッシュは自分にはもったいないぐらい素敵な馬に見えたのです。

お目当ての若馬の購入契約を済ませた父さんは、 知らない間に息子が厩務員にとんでもないことを言い出していたことを知って一時は腹を立てたのですが、 徹の懇願ぶりが尋常でないと悟るとアッシュが連れて行かれた厩に足を運んでくれました。

そして…そこでそのみすぼらしい芦毛馬を見た父さんの眼の色が変わりました。

厩務員の人に頼んでアッシュを外に出してもらい、馬を数歩歩かせただけで、 熟練の馬主は確信しました―知らず知らずのうちに息子の相馬眼(そうまがん)(馬を見る目) は自分のそれを超越していたらしい、確かにこの馬は精神的に脆い部分もありそうだが、 それは生まれつきというよりこの馬のこれまでの境遇がそうさせているようにしか思われないし、 それ以上にこの芦毛馬の体のバランスや柔軟性は伊達じゃない…。

普段はおとなしい父さんが、妙に興奮した口調で自分の方に向き直った時、徹はしまったとさえ思いました。

父さんは、この馬を乗用馬でなくて競走馬として購入する気になっちゃったよ!

 ―お前が一目惚れしたこの馬は…きっととんでもない大物になるぞ。いや、とんでもない大物にしてやるんだ―

元来、馬に優れた走能力が備わっているのは恐ろしい外敵から逃げるためです、 仲間同士で生命(いのち)を賭けてまで競走するためではありません。 自分が一目置いた大切な愛馬が、そんなドロドロの世界に引き込まれてしまったとき、 徹は競馬界の不条理にひどい憤りと切なさを感じました。

競走馬と言えど、週末テレビに映る馬たちは同じ年に生まれた仲間の中のほんの一握りです。 いわゆる、今まで一勝もしていない馬が出走する「未勝利」戦に出る馬たちの大半は故障馬だという話も聞きます、 それもあの牧場の厩務員が言ったとおり「わずかな出走手当てだけでも、お金を稼いでくれればそれでいい」 という考えからくるやむを得ない決断なのかもしれません。 馬を遊びや趣味のためではなく、仕事のために使っている人たちは、 馬にある程度の情が移ってしまうと生活が成り立たないのです。 『限界に挑み、足を痛めてでも走り続ける根性と能力を持つ馬、悲劇のヒーローよろしくターフで倒れるような馬こそが、真の競走馬』なのだとか…。 でも、それではいつしか、競馬界は故障馬だけの世界になってしまう。とすれば…。 競馬というものも所詮、ギャンブルである以前に『人為淘汰』の一つなのだろうか…。 思えば機械化される前の戦争では馬は鉄砲や大砲といっしょ、つまり生きている兵器も同然だったのです。 いつの時代にも人間の勝手な欲望によっていかように左右されてしまう馬の一生なんて。 考えるだけで切なくて胸が張り裂けてしまいそう。

アッシュのデビュー戦が決まった時、思いきって父さんにこのことを尋ねてみましたが、 父さんは至極険しい目つきになって「馬は経済動物なのだから仕方がないのだよ」と言いました。 でも、もしアッシュが一勝もできなかったら父さんの負けだ、引退させて乗馬用として使いなさい、と賢明な父親は息子の深刻な悩みに解決策を残してはくれましたが…。

ところが徹の不安をよそにアッシュはデビュー戦から破竹の四連勝、気がつけば明日、 全てのサラブレッドが夢見る晴れの舞台、日本ダービー、 その主役候補の一頭に挙げられるだけの立派な競走馬になっていたのです! 

しかし、どれだけアッシュが有名になろうが、どれだけアッシュがビッグタイトルを手にしようが、徹の悩みは解消されるどころかさらに重い圧力となって小さな彼の体にのしかかっていくように思われました。


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