慈雨

遠い遠いどこかの国に、ロッセルドルフという名前のとてもとても変わった村がありました。その村はどの家にも必ず一つは馬小屋があって、そこに住んでいる人たちはみんな、犬ぐらいの大きさの馬と暮らしていました。

ロッセルドルフの村はずれ。質素な一軒家に小さな畑で家庭菜園を営んでいる徹さんは、おおらかで懐が深く、甘い和菓子が大好きな、馬想いのユーモアあふれる太ったおじいちゃん。丸顔に、見事な白髪と黒縁のロイドメガネ、そして銀色の口髭がお似合いの、灰色の瞳のちょっぴり小粋なおじいちゃんです。

彼の家では、彼の大切な3頭の仲良し馬、トル、ヘル、ヴァルが楽しそうに笹飾りを作っています。そう明日は七夕さま。昔から、願い事を書いた短冊を笹につるして笹飾りを作り、七夕さまの夜に川に流すとお願い事がかなう…と言われています。

トルたちは一本の立派な笹に紙で作った提灯飾りや星飾り、さらに飼い葉の切れはしやにんじんの葉っぱなど、それぞれ思い思いのものをつるしていきます。馬たちがせっせせっせと飾り付けているその笹は、徹さんの畑の裏手にある笹やぶからとってきたもの。そこには、徹さんの昔の愛馬、力持ちで物静かな黒馬イカルスのお墓があって、そのまわりをぐるっと小さな笹やぶがとりかこんでいました。

さあ、いよいよ最後にお願い事を書いた短冊を飾れば笹飾りは完成です! 今年はどんなお願い事しようかな!

「ぼかぁ、こんど、村の草競馬で一等になれますようにって書くぞ!」
快活な声でヘルが叫びます。ロッセルドルフでは夏初めに馬競べのお祭りがあって、ヘルは毎年のように一等賞。村一の韋駄天ヘルにもう敵はいないと言ったところなのに、その陽気な栗毛馬は今年も優勝を狙っているのです、―でも本当のところ、ヘルの一番の願いは一等賞でもらえる和菓子の福袋を徹さんにプレゼントすることなのでした。
「ヴァルはどうだい?」
「ぼくはまた、おいしい七夕料理が食べられますようにって書こう」
のんびり屋でしっかり者のヴァルですが、お祭りとなるとおいしい料理に目がいってしまうよう。それもそのはず、徹さんが七夕の夜に作ってくれるお料理は、他のどんなレストランに行ったって食べられるものではありません。ヴァルはお祭りのときに食べられる、徹さんの手料理が大好きなのです。
「トルはどうするんだい?」
トル、と呼ばれた素朴で正直者の芦毛馬は長いこと思案にふけっていたのかすぐには答えられず、はっとしてあわてて顔をあげると、さらに少しためらって、そしてとうとう蚊のなく声で言いました。

「雨が降りますように…」
「え、なんだって?」
「雨がたっぷりたっぷり降りますように! って書くんだ!!」
「そりゃまたなんで!」
「雨なんか降ったら、織り姫さまと彦星さまの年に一回のデートが台無しじゃないか」
目を丸くするヘルとヴァルに、トルはなにかとても悲しい思いを堪えるように目をうるませ、思い切って続けます。
「あのね…徹さまが、少し前からずぅっとしょんぼり落ち込んでて、元気がないんだ」
「知らなかったな、だけど畑専属草むしり係で一日中徹さんの近くにいるトルが言うなら間違いないね」
ヘルとヴァルはお日様が昇っているうちは、村に徹さんの野菜を売りに行くのです。
「でも徹さんがしょんぼりするところなんてぼくら見たことないよ」
「ボクもだよ、だからどうしたのかなって思って徹さまに聞いたんだけど、徹さまったら、『なに言っているんだいトルや、ボクは元気だよ!』って言って教えちゃくれないんだ…でも元気なわけないよ、ボク、見ちゃったんだ、昨日、徹さまと市場に七夕料理の買い物に行ったとき、ちょうど和菓子屋さんが笹だんごを売っててね…だけど徹さま、あんなにも大好きな笹だんごに…見向きもしなかったんだ!」
ヘルとヴァルは今度こそ驚いて聞き耳を立てます。三度の飯より和菓子が大好きな徹さんがまたなんで…!
「それで…ボク、悲しくなって。夕べ、徹さまのお部屋にこっそり隠れてたら、徹さまが…水神さまにお祈りしてる声が聞こえたんだ、どうか一滴でもいいから、雨を恵んでくださいって、こんなにも長い間日照りが続いたら、畑の野菜たちが干上がってしまいますって…それとも、ボクはもはや自然から恩恵を賜ることが許されないのでしょうか? ―ええ、たしかにボクみたいな田舎の老人ただの爺は勝手に干上がってもかまわんでしょう、だがせめて、ボクの可愛い可愛い愛馬たちにはほんの少しでも、刈りたての青草を食べさせてやりたいのです、って…」
…それで、自然素材から作られた笹だんごを敬遠したんだ、トルは言って目に浮かんだ涙をぬぐいます。
「ボク、徹さまに元気になってもらいたい…やせ我慢してる徹さまなんてボクの知ってる徹さまじゃないよ! いつもの、陽気で、明るくて、大胆で、冗談もたくさん言って、そして和菓子が大大大好きな徹さまに、戻ってもらいたい…だから、だから、雨がたっぷりたっぷり降りますように! って短冊に書くんだ!」

気持ちよく晴れあがった七夕の夜。馬たちの短冊をつけた笹飾りが天の川を仰ぎます。…だけど。トルも、ヘルも、ヴァルも、星の瞬く空の下、いまにも泣きだしてしまいそう。
「おや、どうしたんだい、お前たち?」
笹飾りの下でうなだれている愛馬たちを見て、なにも知らない徹さんは首をかしげます。そして、ぽろぽろと涙を流し始めたトルの頭をなでようと彼はゆっくり腰をかがめ…その拍子にふと顔をあげてしまって。―毎年、七夕のお願いは人馬同士盗み見しない約束になっているのに、年老いた馬丁が見上げた先にはトルの短冊が静かに揺れていて、そして徹さんの目はそこに書かれたあどけない字に釘づけになりました。

―トルや…―

トルが健気にも短冊に込めた思いをそっと慮って、徹さんの灰色の瞳も潤みます。トルの頭を温かい手でやさしくなでてあげて、徹さんはしんみり微笑み、そしてきれいな星空を見上げます。どう考えても、雨なんて一滴も降りそうにない紺碧の夜空を。
―そうか…ありがとうね、トルや…―
喜びと照れ隠しに徹さんは感謝の言葉すら口にできず、かわりに笹飾りに手をかけます。
「さあ、笹飾りを流しに行こうね」


家の近くの森の中。ランプの光を頼りに暗い小道をかき分けしばらく行くと、開けた川べりに辿り着きました。月明かりがこうこうと、清らかな流れを照らしています。笹飾りをそっとその自然の流れに委ねると、冷たい水に乗って笹飾りはさわさわと流され見えなくなりました。

―七夕の夜に、笹飾りを川に流すとお願いが叶うはずなのに! 

しばらくだまって川の流れを見つめていた馬たちはとうとう感極まって徹さんに飛びつきます。
「「「ごめんね、ごめんね、徹さん!!」」」
「お前たち…」
「トルが短冊に雨が降りますようにって書いたんだ」
「だけどぼくらの願う気持ちがあんまりにもちっぽけで…」
「だけど死んじゃいやだよ、徹さま! 元気になってよ…!」

思いがけず馬たちに飛びつかれ柔らかい草の上に尻もちをついてしまった徹さんは、そのまま立ち上がろうともしないで、泣き叫ぶ愛馬たちを肥ったやさしいお腹にそっと抱き寄せ、甘い声で首を振ります。そして馬丁は黙ったきり、何度も何度も馬たちをかわるがわるなでて、思う存分泣かせてあげて。徹さんの目からも涙があふれて馬たちの小さな頭に落ちます。今までずっと気丈を装ってきた強情な気持ちがほろりと緩みます。でも、徹さんはそれを口にも、表情にも出さずに、ずっと微笑んだまま、黙って、馬たちをなでていました。そうして馬たちが落ち着いてくると、彼はやおら口を開きました。
「ごめんね、トルに、ヘルに、ヴァルや。ボクこそ黙っていてごめんねェ…」
ううん、ううん、と馬たちは駄々をこねるように首を横に振ります。馬たちには分かります、徹さんは僕らを思いやって、僕らに心配かけたくなくって、それでずっとずっと、日照りで作物がダメになりそうなことを黙っていたんだってことが。でもついにトルがぷるぷると頭を振って、徹さんの襟元に顔をうずめ叫びます。

「黙ってるなんてひどいよ、らしくないよ、徹さま! ボク、徹さまが元気になってくれたら青草なんかいらないよ!」
冷や水を浴びせるようなトルのその言葉に徹さんはすべてを悟りました。それと同時に徹さんは、トルの素朴な無上の愛に、突如自分に生気がみなぎってくるのをひしひしと感じ取っていました。

―トルもヘルもヴァルも、以前の飼い主に見放され、孤馬(みなしご)として徹さんのもとにやってきた、3頭とも多少なりとも人間たちを疑い、人間たちに不信感を抱いたままに…。だからもし正直に、日照りのせいでもうお前たちに食べさせてあげる青草がないんだ、なんて言ってしまったら、この子たちを傷つけてしまうんじゃないか、徹さんは不安でなりませんでした。一時トルに「どうしたの?」と疑われたとき、素直にすべてを打ち明け謝るべきか否か悩んだけれど…、結局黙っていたのはトルの想いを試したかったから。そして思ったとおり、トルは徹さんを心配するあまり、徹さんの秘密をこっそり聞き出してしまったのです。

「そうだね、トルや、ボクはお前たちにあんまりにも臆病者で、そして卑怯者だったね」
再度力を込めて、ごめんね、と震える手でトルを抱きしめます。
「なに言ってんだい、徹さん! 僕らだって徹さんのこと全部知ってるわけじゃないけど、でも徹さんが僕らを思いやってくれてたんだってことぐらい、よくわかってらぁ」
「それにきっと、甘いもの食べてないから頭がふらふらしてるんですよ、徹さん!」
ヘルとヴァルが懸命に軽口をたたきます、不器用な2頭にはそうするほかなくって…。でも、ヘルたちのその言葉に徹さんはすっかり勇気づけられました。暗い過去を背負った3頭の愛馬たちから、次々と戒めと励ましの言葉をかけてもらえて。どうやら馬想いの徹さんよりはるかに、トルたちは徹さんのことを想ってくれていたよう。徹さんの知らないうちに、彼の愛馬たちはそれぞれ、立派に己の精神的な影を克服していたのです。
―それに確かに、空っぽの胃袋にはどんな鋭い理性も敵いっこありません。

徹さんが言葉を探っているうちに、トルがもぞもぞと顔をあげて新しい涙を流しながら徹さんにしがみつきました。
「ボク、ボク、徹さまになんてことを…その、そのぅ…」
「いいんだよ、トルや。むしろ、ありがとう、お前の口からあんな風に言ってもらえて、ボクはなんと幸せな馬主だろうねェ。さあ、もうくよくよするのはお互いによそう、お前たちはボクの乾ききった心にたっぷりたっぷり、慈悲の雨を降らせてくれた、もうボクはこれ以上のものを望みはしないよ!」
トルの涙を自分の首にかけていた手拭いでぬぐってあげて、徹さんは純真な心で頬笑みます。
「…うん、ありがとう、徹さま!」
つられてトルも笑顔になります。涙の最後の一滴が素朴な芦毛馬の目じりできらきらと輝きます。 そして。暗がりの中、月影に照らされた徹さんの柔和な微笑に、馬たちの気持ちが和みます―徹さんとちょっとした喧嘩をしたのはこれがきっと初めて、だけど僕らの行き違いはすっかりなくなったし、やっぱり雨はたっぷり降ったんだと思う、だってほら、雨降って地固まるっていうし! 

そう思うとトルもヘルもヴァルも、すっかりすがすがしい気持ちになって、そして何の気なしに3頭が笹の流された川の下流にふっと目を向けた、そのときです…!


「あっ、徹さんみて」
「ホタルだ…!」
「ホタルだ!!」
「…!」
川のずっとずっと下流から1つの明るい光が舞いあがります―それはまるで御霊のようで、ふわりと、柔らかで、優しくて、神秘的な光が…! ホタルはためらうことなく3頭と1人に向かって飛んでくると、徹さんたちのまわりを楽しげに長いことぐるぐるとまわって、そしてふっと天に吸い込まれるように消えて行きました。とたんにあたりがほの暗くなります。月にむら雲がかかったのです。

―徹さん!― 馬たちが叫んだとたん、目も開けていられないほどの驟雨。あれほど望んでいたはずの雨に、すっかり驚きあわてふためいて、人馬は木の下に身を寄せます。
「トルの願いがかなったんだ!」
驚いたようにヘルが目を輝かせます。
「だけど、織り姫と彦星の…」
「心配いらないよ、ヴァルや。雨が降った時には、カササギが天の川に橋渡しをしてくれるからね」
それにね、と天を仰ぎながら徹さんは敬虔な気持ちに目を潤ませ続けます。
―七日の夕方から神に捧げる布を織る、たなばたつめ―
昔からこの時期は日照りが続いて深刻な水不足に悩まされてきた、雨を恵んでもらおうと水辺の水車小屋に棚機女(たなばたつめ)が籠り、祖霊のために衣服を織って、笹に飾って祈願したのが、七夕のお願いの始まり。
―そう、つまり、雨乞いとお盆が一緒になったのが七夕さまのお祭り。とすると、さっきの光はきっとホタルではなくって…!
「ああ、そうだ、思い出した、トルの短冊を見てしまった罪滅ぼしに…ボクのお願いも君たちに教えてあげなくちゃね!」
徹さんが切なる思いを込めた短冊―

今宵ボクらに天国の可愛いイカルスの御加護がありますように!

いつぞやのブログお題「七夕に願うこと」創作です。
七夕と聞いてまっさきに思い浮かぶであろうおり姫と彦星の伝説は有名、でもなぜ短冊にお願い事を書いて笹に飾るのかな?と素朴に思い調べてみましたところ、どうやら七夕さまのお祭りは、もともとは旧暦7月7日(陽暦だと8月のお盆の時期)に行われていたもので、雨信仰と密接な関わりがあるとのこと。加えて、お盆の時期でもあるため、祖先の霊への感謝の気持ちもこめられていると(たなばたつめという機織が祖霊のために折った布を笹に掛けてご祈祷したのが、「笹飾り」の所以、時代が下って布が短冊となり、短冊にお願い事を書くようになったそうです)。
ともあれ、旧暦7月7日もいま(陽暦)となっては梅雨のシーズン、お祭り当日に雨が降ることのほうがしょっちゅうなのに、もともと雨乞いのお祭りだったとは本末転倒!むしろ、雨雨降れ降れのお祭りだったわけですね…で、雨信仰とお盆を合わせたのが本作品。ロッセルドルフは天界と下界の境界がきわめてあいまいだといいな!と思います*


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