おとなの憧憬

とある国にロッセルドルフという名前のとてもとても変わった村がありました。この村ではどの家にも必ず一つは馬小屋があって、人は犬ぐらいの大きさの馬と一緒に暮らしていました。馬たちはおのおの、首輪の代わりにご主人さまが用意してくれた色のスカーフを首に巻いていました。なにせその村はとても小さな村だったので、スカーフの色をみればその馬がどの家の出身か一目でわかってしまうのです。

この村のはずれに小さな一軒家がありました。徹さんの家です。自分の小さな畑で農業を営む徹さんは、おおらかで懐が深く、博識がありかつ冗談も大好きな太ったおじいちゃん。甘い和菓子と音楽と、そして何より馬たちを心の奥底から愛する徹さんには3頭のかわいい愛馬がいました。

陽気なお調子者の栗毛馬ヘルくん、素朴で正直者の芦毛馬トルくんに、まじめでしっかり者の栃栗毛ヴァルくん。生まれも育ちも性格もまったく違うこの3頭の仲良し馬は、優しくて慈悲深い徹さんが三度の飼い葉より大好き! 馬丁想いの無邪気で健気で、時には若気の至りでとんでもない無茶をしでかすわんぱく坊主たちを、徹さんは目の中に入れても痛くないほど可愛がっていました。

徹さんの畑の隅には小さなお墓がありました。1つはとても古いお墓で、もう墓石に刻まれた名前は消えかかっていましたが、それは徹さんが少年だったころに慕っていた、徹さんの父さんの持ち馬のアッシュという競馬馬のお墓でした。そしてもう1つはつい数年前に加わった、馬車ひき馬のイカルスのお墓。愛馬たちのお墓ににんじんとりんごをお供えしながら徹さんはいつになく悲しい表情を浮かべます。

「アッシュは―高貴で優秀な白馬だったけれど、レース中に足を折って…その場で銃殺されてね。あの子がついがんばりすぎて、へとへとに疲れているのに無理して走っていたことに、誰も気がついてあげられなかったばっかりに―あの子は。そして―イカルスは」

馬車で遠出に行った帰りに、制御がきかなくなって猛スピードでつっこんできた対向馬車と正面衝突して―。

「可愛いイカルスはボクを庇って棹立ちになってね―可哀相に清らかでなんの汚れもないあの黒馬の胸を、馬車の梶棒が貫通したんだよ…」

徹さんが徹さんの昔の愛馬の話をするたび、トルもヘルもヴァルも彼らのことを想像してみては淋しい気持ちで胸がいっぱいになります。きっと、アッシュもイカルスも、徹さんご自慢の素敵な馬だったんだろうなァ、徹さんはボクの不注意であの2頭は死んでしまったってあんなにも申し訳ない顔をして自分を責めて、そして彼らのために人知れず涙を流して悲しんでいる。アッシュとイカルスを殺めてしまった、その罪の意識、その十字架を、ボクは一生涯背負って生きて行かなくてはならない、そう言って苦しんでいるんだから! 

でもトルたちは会ったことのない先輩たちを妬んだり恨んだりはしませんでした。そればかりかトルたちは純真な心で遠い先輩たちを慕い尊敬していました。徹さんから暖かく愛され信頼されていた偉大な先輩たち。名もなき質素な徹厩舎のスカーフの色は謙虚な藤色。このスカーフは、アッシュの胸で、イカルスの胸で、きっとこの世の金より貴い宝石のように輝いていたに違いない。それと全く同じ色のスカーフを、トルもヘルもヴァルも大切に首に巻いている。それは有名厩舎のエリートの肩書よりも美しく、大金持ちの称号よりも輝かしい、トルたちの素朴な勲章なのでした。


さて、徹さんには古くからのお友達がいました。徹さんの家からそう遠くないところに住んでいる、肉屋の哲郎さんです。多少酒癖の悪いところを除けば、哲郎さんもまた穏やかで柔らかい心根の持ち主でした。背はわりかし高く、徹さんとは比べ物にならないほど華奢な体つきの中年男性で、だいぶ白髪の混じったゴマ塩頭は銀色に輝き、彫が深く均整のとれた端正な目鼻立ちはたいそう気品があり、落ち着いた黒の瞳には常に小さな光が宿っていました。彼の右腕、漆黒のフライシャー号はご主人に負けず劣らずクールで愛想もよく、頭の切れる頼りがいのある青馬でした。

トルもヘルもヴァルも初めて会ったときから哲郎さんのことが大好き。お肉屋さんである哲郎さんの家は、つまり村中の馬たちが人間たちへの最後の奉仕に集まる場所―徹さんもまた息絶えたイカルスを哲郎さんに裁いてもらったといいます。でもそれだからこそ哲郎さんは数多くの馬たちと接し、馬たちのことも、馬たちの気持ちも村中の誰よりもよく分かっていました。ヴァルは仕事中の事故で体をひねりすんでのところで肉屋に送られるところを徹さんに助けてもらったわけですが、徹さんはヴァルを買い取ったあと即座に、その栃栗毛を無二の親友に依頼し、君にはこの馬を裁く勇気があるか尋ねました。哀れな哲郎さんは即答しました。

「めっそうもない! こんなにも若くてまだこれからという馬をどうして私めが裁けましょう? この馬は少し休ませればすっかり元気になりますのに!」

哲郎さんはまた、徹さん同様音楽を愛する心を持っていました。子どものころに初めて両親に買ってもらったCDはブラームスでした、その柔らかく呻くようなデモーニッシュなメロディにすっかり打ちのめされましてね、彼は自嘲気味に笑いながら、その偉大な作曲家の魅力を一時間でも二時間でも平気で語りつづけました。それはブラームスと同じくドイツロマン派の作曲家であるロベルト・シューマンの無邪気で物語的性格を持つ繊細なメロディが好きな徹さんをこの上なく興奮させました。2人は気が向いた時には富山の薬売りとは名ばかりの某いんちきペテン師が「愛の妙薬」だと言って売りまわった安物のボルドーワインをあけて、侃々諤々、互いに互いの音楽論を戦わせては悦に浸るのでした。

2人のこのおしゃべりは突如何の脈絡もないところからふってわくことがしばしばでした。おまけに始まったら最後、ソリすべりよろしく山頂から麓めがけて一直線に勢いを増して加速するという具合で、まったく止める手立てはないというありさまでした。ある時には、花火を見に行こうということで計画を練り始めたはずの2人は、どこでどのように脱線したのか例のロマン派音楽の悪魔的メロディと果てしなく続くつなぎ合わせの曲想について熱く語りだし、挙句の果てには花火ではなくて、ブラームスの交響曲第二番と第四番にリヒャルト・ワーグナー大先生のオペラ『マイスタージンガー』の前奏曲までついた「大変贅沢な」音楽会を聴きに行くことでようやく考えがまとまり、そうなることをあらかじめ知っていたかのようにフライシャーが丁重にチケットを取り寄せると、2人は意気揚々『マイスタージンガー』の台本におけるドイツナショナリズムの功罪についてまたひとしきり盛り上がりながら、コンサートホールへ出かけたという始末でした。


ある四月の金曜日。 その日、徹さんと哲郎さんはかねてより楽しみにしていた演奏会形式のオペラを聴きに出かけていきました。2人を見送って、トルたちはフライシャーの馬小屋に向かいます。ご主人さまの留守中には馬たちは馬たちで楽器を演奏して楽しみます。徹フィル直属の楽団員であるトルたちに、楽長哲郎さんの忠実なお抱えものフライシャー。選りすぐられた音楽家たちの演奏が深い夜のとばりにやわらかな光を投げかけ、混じり合うあどけなくも敬虔なメロディが厩の大気に膨れます。それはフライシャーの拳固たるグロッケンシュピールに始まり、追うようにトル、ヘル、ヴァルの切ない弦楽器が続きます。そして天の極みまで高揚した不協和が、ヴァルの繊細なヴァイオリンの最高音で解決されようとした…その時!

とつぜん馬小屋に、徹さんを肩に担いだ哲郎さんがとびこんできました。
「お医者さまをお呼びして! 足を怪我しているんだ」
気を失っている徹さんをわらの上におろし、哲郎さんもその場にぐったりと倒れこみます。徹さま! トルが奇声をあげて徹さんにすがります。俊足のヘルが馬屋をとびだし猪突猛進、弾丸のようにすっとんでいきます。フライシャーが台所に急ぎ水をとってくると、ヴァルが自分の首に巻いてあったスカーフをはずして徹さんの怪我した片足を洗って縛ります。一体なにがあったというのでしょう! トルたちの高貴な馬丁の足にはムチで殴られたような傷が走っていました。

「広場に無骨な連中が群がっていてね…なにかと思ったら一頭の、まだらのポニーを嫌というほどムチで打ちすえていたんだ」荒い息の下で哲郎さんが声を絞り出します。「徹さんは…徹さんはポニーを助けようとして、連中のなかに割って入った、でも彼らは聞き分けがなかった、それで徹さんは足を打たれて…」
哲郎さんの目に涙が浮かびます。疲労以上の苦痛と倦怠感に優秀な肉屋の顔がゆがみます。
―徹さんはポニーを助けられなかった、ポニーを、怒りの生け贄となった堅物な連中から救い出すことができなかった…!

ヘルがドクトルを連れて帰ってきました。徹さんを治療してもらっている間に、ヴァルがヘルにポニーのことを話します。ヘルもまたしょんぼりしょげかえり鼻をすすりました。トルもヘルもヴァルも、そしてフライシャーもそれぞれポニーと徹さんと哲郎さんに同情するあまり言葉を失い、胸が張り裂けてしまいそうでした。ポニーにも、そして僕らのご主人さまにも、なんの罪もないのに!

幸い徹さんの怪我は大事には至りませんでした。ドクトルが帰ってからしばらくして彼は意識を取り戻しました。しかし徹さんと哲郎さんの胸に刻まれた凄惨な記憶は目に見える傷なんぞよりはるかに深く、医者の薬で癒されるようなものでは決してありませんでした。家に帰る道すがら、徹さんは低い声で慈悲の涙を流して悲しみ―怪我した徹さんを背中に乗せていたヴァルは、ご主人さまのやるせない気持ちを察しては、いつもは気丈な四肢も震え、幾度も立ち止まりそうになりました―、哲郎さんも、フライシャーに隠れてこっそり血の涙を流して悲しみました。

馬を裁くことで生計を立てている哲郎さんにしてみても、理不尽で無意味な一生を終えた馬を裁くことは彼の道徳心に背くものでした。あのポニーもきっと遅かれ早かれ自分のところに送られてくる。そうしたとき私はあの子を裁けるだろうか。あの子を裁くことで得る代償は、私のこれまで構築してきたすべてを汚し、私の有り金すべてを真っ黒の石炭に変えてしまうのではないか。しかし、あの子が人間へせめてもの奉公をするとしたらそれはお肉になる以外になにがありえよう? あの不幸な子馬に唯一の生きた証を与えるのもまた私の手にかかってくるとしたら…。不条理な仕事を受け持つたび、哲郎さんはそこはかとない良心の呵責に苛まれ、深い絶望の海にたった1人、一糸まとわぬ姿で漂っているような苦しみを覚えるのでした。

家に帰ると徹さんは、気がふれたかのようにかわるがわるトルたちを抱きしめ、愛馬たちの小さな額にキスの雨を降らせました。トルたちは身震いします。川に流され捨てられたヘル、元気なうちから肉屋行きの烙印を押されかかったヴァルに、体が弱いばっかりに厩舎から追い出されたトル…これまで自分たちも死の淵に立たされたことがある。その時、あたかも天使が舞い降りるかのように救済の手が現れて、自分たちをふわりと包みむと死の淵から運び去り、暖かくて優しい、大きなお腹にそっと抱き寄せてくれた。

それがいかにこの上ない奇跡であったか、そして今こうして徹さんの胸に抱かれることすら計り知れない奇跡と偶然の蓄積に他ならず、同時に自分たちのこの幸せも、あのとき運悪く花びらのように、それとも羽毛のように、この優しい抱擁からはらりとこぼれ落ちていたら…。

いともたやすく道行く足に無慈悲にも踏みにじられていたに違いありません、トルたちはじわりじわりと身にしみて感じ取っていました―愛と幸せほど強固なうえに脆弱で、永久なうえにかつ束の間のものはないのだろうことを!

トルもヘルもヴァルも黙ったまま、徹さんの無限の愛情に身をゆだね目を潤ませます。別離の悲しみと抗うことのできぬ運命への諦念を識る徹さんの、むき出しの心からほとばしった黄金色の光の火花が、トルたちの胸を一杯にします。そしてそれはとうとう、キラキラ光る滴となって3頭の小さな瞳から転がり落ちました。

その晩、トルたちは言いようのない不安に駆られなかなか眠ることができないでいました。徹さんも哲郎さんも、いまはポニーの事件ですっかり放心している。でもそれは僕らの力で解決できる問題じゃなくて、いまは時間が2人の傷を癒してくれるのを待つしかないんだ。

「でも」とヴァルが乾いた声で言いました。「覚えてるよね、明日、徹さんのお誕生日」
ヘルもトルも悲しい目でうなずきます。徹さんは、この世に生を受けたその大変喜ばしい日を、あんなにも打ちひしがれた悲しい気持ちで迎えることになってしまうのだろうか。片足と胸に深い傷を抱えたまま、一年で最も大切な一日を過ごさなくてはいけないというのだろうか!

強い風が外でピュウピュウ唸っています。小さな窓を徹して青白い月の光が差し込み、わらの上に一点の白いしみをつくります。馬たちは起き上がって、小さな額を寄せ合いました。
「明日、徹さんに思いがけないプレゼントをしよう! そして彼を励ますんだ、それなら僕らにもできるよ、いや。僕らにしかできないよ!」
そのとたん3頭の頭に徹さんのお誕生日和菓子が浮かびました。甘いいちご大福に、イモようかん。お花の形をしたもなかに、栗まんじゅう。それからハトの形の小さくて可愛いらくがんがひとつかみ! それから、それから…。

和菓子が自然の食材からつくられ、花や動植物の形をしているのは、自然に対する感謝の気持ちのあらわれ。そしてお砂糖は「幸福をもたらすもの」と考えられているんだって。馬の僕らと同じぐらいに甘い物が大大大好きな徹さんがとりわけ和菓子に目がないのは、そりゃあもちろん和菓子に甘いお砂糖がたっぷりはいってるからっていうのもあるけど、でもそれ以上に徹さんが心の奥底から自然を愛し、自然に感謝し、そして自然から恩恵と幸福を授かりたいって願ってるからなんだろうな。

「ボク、森のお花をたくさんつんで徹さまにプレゼントするよ!」
トルが清らかな声で言うとヘルも蹄を打ちならします。
「桃色のリボンを結んだかごいっぱいにお花をつんであげなよ! 中に大福もちをいれてやるんだぜ、それも手作りの、さいっこうに甘くておいしい大福もち!」
「そりゃぁいいや、ヘル!」ヴァルも声を荒げます。「あ、でも、あの足じゃあ徹さん、明日は畑仕事ができないね。ぼくは徹さんの代わりに畑仕事をするよ」
徹さんは一日たりとも畑仕事をおろそかにすることはありません。水やりを忘れると、野菜たちが物悲しい声で自分を呼ぶのだと言います。
「よし、決まり!」
ヘルの明るい声が響き馬たちの心は固まりました。

ようやく気持ちが落ち着くのを感じます。心の足かせがすっと無くなった気がして、夕立が去った後のすがすがしさが胸の中に広がります。それにしても…僕らの崇高なご主人さまが体を張って助けようとしたそのポニーはどんなにか愛くるしい馬だったろう! 他の堅物な連中にはきっと、そのポニーの並はずれた美しさが分からないんだ、でも徹さんは違う、徹さんはいつだって馬の才能と個性を一発で見抜いてしまうんだもの! 名伯楽の徹さんのお眼鏡にかなって、あと少しでこの幸せな厩に迎えられるところだった可哀相なポニー。今にもそのポニーが僕らの近くに駆けてくるようだ、僕らにはその馬がささやくのが聞こえるような気さえする。ほら、もうすぐそこでさ…。

淡く甘美な幻想に、3頭は自分たちの意識が薄らいでいくのを感じます。そしてトルたちはまどろみ、深い眠りへと落ちていきました。


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