仮面

「はぁ、この牛さん、レオノーレて名前なんですか」
長身で牛のようにでっぷり肥った楽天的な宿屋主は、パンダのような黒縁お目目のどこかしら不細工な牝牛に微笑みかけました。肥えた男をぎょろっとした目で見ると、その不器量な牝牛はムゥとすっとんきょうな声を張り上げ、湿った鼻を宿屋主の太鼓腹にこすりつけました。

「めずらしい! レオノーレはすごく気が強い子なの、まるで牡牛みたいにね。それで私以外の人に心を許したことなんてなかったのに。ホッサンのこと、昔からのお友達と思ってるみたい!」
「オレをですか〜。そりゃぁ、レオノーレさんに聞いてみんことには分かりまへんわな〜」
目じりに小さな笑い皺をつくってホッサンはにこにこ笑っています。

体も大きいしそれだけで十分存在感のある彼ですが、ホッサンはなにか彼特有の不思議な雰囲気をまとっていました。穏やかでのんびりとした物言い、ゼラニウムの香りのような深くて渋い美声、包容力のある柔軟な物腰、そして何にも動じない能天気なさま。彼が近くにいるとそれだけでそこはかとない安心感に包まれ、ぎすぎすした心もすっかりほぐされてしまうというもの。気難しい牡牛勝りのレオノーレも彼の魔力にすっかり痺れてしまったみたい。まったく彼の癒しパワーたるや、地獄の番人の心までをも開いたというオルフェオの竪琴さながらです!

「なるほど、それでレオノーレて名前なんですね」
ええな、オレが牛だったらレオノーレさんが助けに来てくれそうですわ〜、そう付け加えてホッサンはしずしずとレオノーレの背中をなでています。

レオノーレというのは、あるオペラの主人公の女性の名前。彼女の夫は、悪人の刑務所所長に政治犯の疑いをかけられ、無実のまま地下牢に幽閉されてしまった。夫を救うためにその妻レオノーレは男装して自ら「フィデリオ」と名乗る。彼女は「男」として刑務所看守のもとで働き、看守の信頼を得ると、地下牢に降りていき、とうとう夫を救い出す。―

文学オヤジのホッサンのことですから、レオノーレの名前の由来何ぞは言わなくてもお見通しでありました。それにしても。もし自分が牛だったらレオノーレさんが助けに来てくれそう、なんて。 牛のような性格と体格のホッサンが言うと、妙に滑稽に思われて。一人と一頭が本当の夫婦のように見えてくるのでたまりません。リオはくすくす笑いだします。でも楽天家でのんびりやのホッサンには、なるほどレオノーレのように気の強い、勇気ある奥方がお似合いなのかも。そういえば彼の息子のナルクが突如として発揮する度胸は母親譲りなのだとか。いまは旅行中でこの町にはいないホッサンの奥さん。冒険心と好奇心に溢れた輝く女性なのだろうし、そんな妻の気持ちを尊重して彼女が世界中を旅することを容認するホッサンもまたまぶしいぐらいに輝いて見える。

ホッサン夫婦はきっと…世界がうらやむおしどり夫婦に違いありません! 突然、仲睦まじいホッサン一家の姿がぽわんと眼前に浮かび、リオはドキリとしました。


仲睦まじい家族? 私には家畜以外に家族はいない、もちろんみんなみんな、仲良しで私の自慢の家族だけど…。それとはまったく違う「家族」を持ちたい。信じ合い、愛し合い、牧場経営を支えてくれる「家族」、一心同体となり、愛の結晶を産み育む生涯の伴侶を…! すると脳裏にある3人の顔の輪郭がおぼろげに浮かび上がります―…ニール、…ロッド、…アレン。でもその輪郭がクリアになることをリオの頭はなぜかどうしても赦さないのです。

レオノーレはあの気難しい動物屋のニールからの贈り物。つい最近駈歩が出せるようになった愛嬌ある栃栗毛は、フレンドリーなペット屋のロッドが選んでくれた贈り物、自宅の花瓶でリンと輝いている花束は、ナルチスな美容師アレンからの贈り物。みんな、みんな、寄ってたかって、リオに「一物」あるらしい。…よりにもよって3人で1人の女性を愛するなんて! それも全力で、それが力不足とも知らずに!

「ダメなの、どうしても!」不意にリオは独りごちます。「確かにニールのことが、ロッドのことが、アレンのことが好きだったこと、私にもあったかもしれない。でも不思議なことに、3人とも私の脳裏にとどまったと思ったとたんに抜け落ちた、風が吹き抜けるように。そしてもうなにも残っていないの、それが何故か私にはわからない。私が冷酷すぎるのか、それとも私から愛想を尽かされた3人がいけないのか…」
ホッサンは黙ったまま、咎めもせず、笑うこともせず、ただただ、うわごとを呟くリオを見守っています。
「でも、いつか私にふさわしい人がこの町に越してきたら、きっと私にもその人がこの世にたった一人だってことが分かる。その人に見つめられ、そして私も彼を見つめ返したら、私はもう彼を疑う必要はない。私はその人に一生ついてゆくわ、子供のように無邪気に、素直に、従順に…」

一息にそこまで言ってリオははっと我に返り頬を赤らめます。無意識のうちにホッサンの前で、妻子のいるホッサンの前で、いったい自分はなんてことを言ってしまったのだろう! こうなってはホッサンの究極癒しパワーもへったくれもありません。立派な大人である彼の前では、自分はそれこそ物分かりの悪いわがままな子供でしかなくて。恥ずかしさのあまり頭のてっぺんまで炎に包まれたように熱くなります。…でもホッサンはそんなリオに一理あるというようにゆっくりとうなずきました。

「リオさんの気持ち、ようわかってくだはる方がいつかやってきますわ、いつか…いやきっと、リオさんが次の家を建てる頃にはね、リオさんの気持ちがその、リオさんにとってこの世に一人の男を呼び寄せる、オレにはわかります」
「…ホッサン」

子供の戯言やな〜と失笑され馬鹿にされるかと思ったら。結婚相手は山道を走るバスのようなもので、いつくるやら、時間通りくるやら、来ても拾ってくれるやら、まあいつかなんとかなるさ〜のホッサン哲学を押しつけられるかと思ったら。ホッサンはいつものようににこにこ笑いを浮かべながらも、真剣な眼差しでリオを見つめています。心の寛い人生の先輩からの優しくも説得力のある眼差し。リオはふと、ホッサンこそ、自分の想う人なのではないかと妙な錯覚を起こしてしまいました。

人気のないこの町に越してきて、先祖の牧場を引き継いで、牧場仕事と町おこしに明け暮れる毎日。鍬を片手に畑を耕し、ハンマー片手に家を建て、オブジェを担いで町を行くリオは、町じゅうの人の目にはそれこそちょうどオペラのレオノーレのように映っていることでしょう。なんの罪もないのに逮捕され孤独で心身ともにやつれきった夫をなんとか助けようとする男勝りな女性、レオノーレ。なんの罪も、謂れもないのに町人を失い寂れたやまびこ村をスカート脱ぎ捨てオーバーオールに身を包み、男のなりをして復興させようと奮闘する女性、リオ。そのうえリオには自分はもう大人なんだと信じ込んでいた節があって―乙女の淡い夢など語っている余裕なんてないと乙女心を切り捨てたつもりになっていました。でもそのやせ我慢が、まるで首に巻きついたヘビのようにじわりじわりと自分を締めあげていたのです。

男の仮面を、そして大人の仮面をかぶることにすっかり疲れきって、思いがけずホッサンを前にした瞬間にとうとう、堰あえぬ想いがどっと自分の仮面を突き破って溢れだしてしまった…でもそれはホッサンがそんな自分をちゃんと理解してくれると、彼のその立派な体がそのまま防波堤となって、自分の洪水のような想いを受け止め押しとどめてくれると、心のどこかでそう信じていたからに他なりません。

とたんに親しみ以上の畏敬の念ががっしりとリオの心を捉え、ホッサンが自分にとってこの世でたった一人の人なのではないか、なぞという愚かしい錯覚は拭われました。それ以上にホッサンは、リオにとって最も信頼のおける大人の男性となったのです。


「リオさんの気持ち、ようわかってくだはる方が、大人の独り身の男性が、やってきますわ、リオさんの気持ちがその御仁に届いた、その日にね」

しばらくしてホッサンはなぜかしら寂寥感を帯びた語調でしんみりとため息を吐いて帽子のつばをちょっと引っ張ると、ふとなにか大切なものを失ってしまったような悲しげな眼をして、でもすぐに顔をあげ「長居してもうたな、失敬、失敬」とにこにこ笑いを浮かべて、そしていつになく急ぎ足で牧場を去ってゆきました。

はじまりの大地処女作は、めでたくホッサン創作になりました♪オヤジフェチの血が騒ぎますです…。牧場主のリオはいつかやまびこ村に情夫が越してきてくれると信じている乙女。そんな彼女をホッサンは人生の先輩のように優しく見守ってくれているといいな!と思います。蛇足までにうちのリオちゃんの情夫はセンゴクさん、新聞記者…。一歩間違えれば記事のことで政治犯の疑いを掛けられ牢屋にぶちこまれそうで←
それにしても牧場物語の女主人公たちはみんな、オペラのレオノーレのように勝気で男勝りな女性がおおいなぁ;と改めて思いますです。女性で牧場切り盛りするんだからそれぐらいの気合いは必要ですね、さもありなんです…。


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