魔女の住む家

ふわりふわりと舞い落ちる、冷たくて大きい雪の結晶。それは灰色に染まった空のため息でしょうか? それとも悲嘆に暮れるお星様がこぼした涙でしょうか? それとも…。


積もり積もった雪の冷淡な腕にがっちりと体を掴まれ、アギは細く息を吐きます。うつろな気持ちであてどもなく、粉砕風車を遠くに望む崖を登るうち、うっかり足を踏み外して崖から一直線に川べりめがけて転がり落ちてしまって。華奢な体に激痛が走ります、打ちどころが悪かったのか、そもそも芸術家に生まれついた虚弱体質が災いしてか、とっさに左腕をつっぱって立ち上がろうとしても痛む体はいうことを利きません。そのまま感情のない白い魔物の束縛に身を任せていたら、遅かれ早かれ魔物に命を奪われてしまうに違いないのに! どれだけその芸術家が心を燃やしてこいねがっても、非情な白銀の魔物は手を放してくれません。そればかりか―徐々に、徐々に、重みを増して夢見る芸術家の小さな魂の炎を呑みこんでいきます。

いや…。アギは目を曇らせ、雪のように冷たく自らを叱りつけます―妖しいほどに美しい純白の怪物、これを美の化身と呼んでよいのなら、この星夜祭の夜に、こうして彼女の腕に抱かれることを心から喜ぶべきではないか。ボクはたった昨日だって、風のように微笑むボクの天使さまと、口すらきかない妖艶な美とを天秤にかけて、結局後者を選んでしまった、ボクの天使さまをはねのけた以上、ボクが星夜祭に誘えるのは只一人―芸術家を精神へと導く「美」しかないのだから…!

かろうじて体を支えていた腕が変に痺れはじめます、そしてアギはすっかりすべての力を失って、降り積もる雪の中にぐったりと突っ伏し、沈み込んでいきました。


せめて、昨日の夜に気が付いていれば…空虚な気持ちに囚われたのは今朝、何の気なしに白のカンバスと向き合ったとき。どうしてこう鈍感なのであろう、臆病者の自分はすっかり忘れていたのです、今日が星夜祭の日であることを…! 眠気覚ましのコーヒーが嫌に苦々しく感じるのは、うっかりお砂糖とミルクを入れ忘れたからだけではありません。白のカンバスと黒のコーヒー。真っ白の天使の衣をまとった優しい彼女と、醜く淀んだ漆黒の心に大切なお誘いの言葉を溶かし込んだ自分。やるせない気持ちがため息となって重たく足元に積もります。


昨日の夜に気が付いていたら…夕べ、彼女はいつものようにアトリエにやってきた。『アモールとプシュケー』に『サティロスをたぶらかすビーナス』…。ずっと前から壁に飾ってある、神話におなじみのモチーフを範にとった一連の油絵を一望して、それから床に置いてある独特の遠近法で描かれた三角柱の建物の絵にじっと見入って、そして最後に、イーゼルにのったタブローに目を向けたとたん。

天使さまは子どものように無邪気にはしゃいで、でも…とおっかなさそうに目を潤ませて。そんな彼女がいじらしくて、大丈夫ですよ、そこから魔女なんて出てきませんから、なんてにこにこと笑ってたしなめると彼女はつられてクスっと笑って、うん、とうなずいた。

「ヘンゼルとグレーテルのお話、知っていますか?」
「うん! 森においてけぼりにされたヘンゼルとグレーテルが、目印に落としたパンを小鳥に食べられ森の中で迷っちゃって…」
「ううん、違いますよ、ボクが言っているのはオペラの《ヘンゼルとグレーテル》です」
「オペラ?」
「そう、とても美しい音楽に敬虔なお話なんですよ」
「聴かせて!」
彼女にせがまれるままにアギは喜んでお気に入りのレコードを針にかけます。

管楽器の崇高なメロディで前奏曲が始まり―アトリエにグレーテルの歌う可愛らしい童謡が響きます。

『ある日、仕事をさぼって遊んでいた罰で森へ野いちご摘みに出かけたヘンゼルとグレーテル、あたりはすっかり真っ暗になり道に迷ってしまいました。暗闇を怖がる2人の前に砂の妖精があらわれ、疲れた2人の目に眠り粉をふりかけると2人はたちまち夢の世界。14人の天使さまにお祈りを捧げて眠り込んだ2人を天使さまが守ってくれます。次の朝、朝露の精に目を覚まされたヘンゼルとグレーテルは美味しそうなお菓子の家をみつけます。…そこは子供をレープクーヘンにしてしまう恐ろしい魔女の家。グレーテルもあわや、かまどに押し込まれそうになります。でもそこは賢いグレーテル、かまどの開け方がわからないから教えてほしい、とかまどの火の具合を魔女に覗かせ、魔女をかまどに押し込めやっつけます。すると、魔法でレープクーヘンになっていたお菓子の子供たちも呪いが解けてもとの姿に元通り、グレーテルが子供たちの頬にふれるとみんな目を醒まし、ヘンゼルの呪文―ホークス ポークス にわとこよ! さあ 魔法よ 解けろ ソレッ!―でたちまち動けるようになりました。魔女は、かまどの中で大きなお菓子になっています。ヘンゼルとグレーテル、2人をさがしに来たお父さんとお母さん、そしてお菓子の子供たちは、魔女がお菓子になったことを喜び、神様と14人の天使に感謝の歌を歌い始めます』

「苦しい時に 神さまは 救いの手を 伸べてくださる…」
「いつ聴いても素敵ですが、とりわけクリスマスの季節に聴くとぐっと心温まるでしょう?」

…それで。その「クリスマス」つまり「星夜祭」が翌日であることをすっかり忘れてしまったのは…そこにやっぱり魔女が居て、アギの彼女を想う心を魔法のかまどに突き落としレープクーヘンにしてしまったからに違いありません。アギはそれで、彼女に星夜祭のお誘いをかけるかわりに、延々と「美」なるものについて話して聞かせたのですから。

美というものだけが神さまのものであって、同時に人間の目に見えるものなんです、だから美というものは感覚的な人間が、すなわち芸術家が、精神に赴くための道なのです。…

こういう途方もない話を、あの天使さまは退屈せずにすごく興味をもって聞いてくれたのです。実際、魔女にとり憑かれたアギは自分で自分が何を言っているのかすらよく分からぬというありさまだったのに。でも冷静になって考えてみれば、彼女が内心さぞかしうんざりしながらアギの話に耳を傾けていたことぐらい簡単に察しがつくというもの、芸術家が精神に赴くための道が「美」なら、アギの伴侶は「美」なのでしょう。もう長いこと、あなたはミューズの女神と恋仲だったのね。そして私には、あなたがたの恋を邪魔する手立てはありません。私は牧場の娘、どんなにがんばっても芸術云々なんて解することのできぬ世人でしかないのですから。こんな具合に彼女の瞳は訴えていたに違いないのに。芸術論に目がくらんだアギにはそんな彼女の顔なんかちっとも見えちゃいなかったのです。

それで、とアギは「美」の冷たい抱擁の中で繰り返します。夕べ彼女とずいぶん話し込み、それなのに大切な約束はしないで彼女を帰してしまった。そうとも、忘れていたんじゃない、ボクはあまりに臆病で、その約束を言い出す勇気がなかった。彼女に太陽のような熱い想いを寄せつつも、あの天使さまを、あの純真無垢の天使さまを、ボクは恐れている。それでボクはこれまで自分が慕ってきたミューズを盾に彼女を追い払ってしまった、ボクは結局、筆と絵の具を諦めることができないんだ。物心がついたときからなるほど確かに自分の「伴侶」と思ってきたミューズ。

ところがボクの想いは次第に信教めいたものへと変わっていった、ボクが頑なにその女神に執着しつづけた結果、芸術はボクのなかで融和不可能なほどに凝り固まって、ボクのありとあらゆる自由をすべて阻害するんだ、そのうえミューズを振り払うことすらボクにはとんでもない大罪のように思われて、それで彼女を、ボクの大切な天使さまのリンダを、星夜祭に招待しなかった。ボクの絵から飛び出た恐ろしいお菓子の魔女がレープクーヘンにしたのは、リンダを恋い慕うボクの心、いやきっとミューズが嫉妬のあまりお菓子の魔女に変身して、リンダを想うボクの心をかまどに押し込んでしまったんだ。

もうリンダはボクのもとへは来ないだろう、作りかけの町長さんの像と全く同じ、心を奪われたボクは塑像でしかない。「芸術教」を信仰し、魂のひとかけらも、人間味のひとかけらもない木偶、そんなボクのもとへあの天使さまが舞い降りてくるはずがない―永遠に! そしてミューズは焼き上がったレープクーヘンをさっと溶かし砂糖でコーティングして、そしてスパイスをまぶしてチョコレートで包むだろう―。あの子を想う気持ちはもう一生…透明な砂糖と真っ黒のチョコレートの二重の膜に閉じ込められて外には出られない。―ああ! 

今更になって、お砂糖とチョコレートが憎らしくなります。こうなっては甘いお砂糖もチョコレートも、いま自分を腕にかき抱く雪同然。淡白で味もそっけもない、いじわるなお菓子。そしてこれまで自分が妄信してきた「美」の神さまも、冷淡で有名無実の虚構だった。そのことに…せめて昨日の夜に気がついていたら!

でももうすべてが手遅れでした。嫉妬に駆られたミューズはアギを我が物にしようとますます重みを増してのしかかります。リンダを想うアギの心だけでは足らずに、アギ自身までもその腕の中に包み込んで、閉じ込め外に出られなくしてしまおうというのです。…そしてそれが、世人に惚れた芸術家の堕落の果てというもの! レープクーヘンは生乾きのままチョコレートにくるむのがポイント、いまのアギも、生半可な想いを胸に抱いたまま、生きたまま「美」の抱擁に閉じ込められようとしていました。


inserted by FC2 system