極甘の復しゅう

―女の子が淡い夢の世界で憧れる王子さまは、なにも白馬に乗って光り輝いていなくてもいいと思うの―
いつだったか頭の中に響いた聞き知らぬ声、一回だけ聞こえ、すっと消えてしまった不思議な声、どこか助けを求めているようにも聞こえ、どこか親しみのこもった友だちの語りかけにも聞こえ、はたまたどこか自分の内なる自然から沸き起こった純真な願望にも聞こえ。聞こえたという感覚しか残っていないのに、はっきりとその調子や内容を思い出すことができる妙な声。それがいままたはっきりと脳裏を突き抜ける、名前も知らない少年の声を聞いたとたんに…。

「ボクは君の友だちだ、そんなところに隠れてないで出て来いよ!」
少年のその声は真っ暗な闇を走る稲光のように自分の耳に刺さりました。まるで盲人の目も開かんばかりの閃光、それがぱっとはじけるとともに鮮明によみがえったのです、あの声、あの言葉…遠い記憶の中、オイフォンのごとく自分の頭蓋骨に響き渡ったあの言葉が。そしてその言葉が夏の夕暮れに溶けるガガンボのように、すっと語尾の繊細な残像を残して鳴り止むと、それまで自分を縛り続けていた頑なな思い込みはきれいさっぱり消え去っていました。どうやら目に見えぬ相手は夢の王子さまのような人で、その王子さまには自分をいじめる気なんぞ微塵もないようです。
「…じゃあボクが理科室から爆薬持ち出したの、黙っててくれるかい?」
「お安い御用さ! ボクもさっき理科室から過酸化水素水盗んじゃった」

ここに来る途中、雌熊に襲われてケガしてさ! と悪びれることもなく続けた謎の王子の声にロイドはびっくりして、次を考える前にごみバケツから飛び出してしまいました。

赤いベースボールキャップに青と黄色のストライプシャツ、すっかり日焼けした頬は太陽のような笑みを湛え、無邪気な黒の瞳は草をはむ馬のように熱心にロイドの顔に見入っています。熊をも恐れぬ野球少年が実は自分と同い年ぐらいであると知り、ロイドはぴくりと肩を震わせました。科学的に考えようが、常識的に考えようが、小学生がバットで熊と戦って過酸化…要はきずぐすりで済むぐらいの軽症なんて信じられるものか! もし自分の前にいる彼にそれができると言うのであれば彼は…想像をはるかに絶する怪力の持ち主か化け物に違いない。気弱な自分が下手に楯突こうものなら首の骨をへし折られ、皮を剥がれて串刺しにされて、犬の餌にされてしまうでしょう、相手はそんじょそこらのいじめっ子とは条件馬とジーワン馬ぐらいに格が違うのです!

「マザーズディのニンテンだ、君は?」
「ボク? ボクはロイド…」
「そっか、よろしくね! 君はなんでまた爆薬持ち出したんだい? 気が狂ったトラックとかと戦うためかい?」
「まさか!」ロイドはニンテンと名乗ったその向こう見ずな少年の足元にひれ伏したくなりました。「ボクはただ…スイートリトル工場で昔造ってたっていうペンシルロケットを飛ばしてみたくて」
「スイートリトル工場?」
「サンクスギビングの南にある小さな工場だよ、ダンカンがミサイル製造の密約と引き換えに合衆国政府から安く土地の払い下げを受けて建てたとかいう。でもいまはもう操業停止しているんだ。…もし君が本当に熊と戦って平気なら、そこに行ってロケットひとつ持ってきてくれないか? あそこは使われなくなったロボットが狂暴化しているらしくてボクにはとても行けたもんじゃないんだ」
「うん、いいともさ! でもかわりに過酸化水素水もらってくよ、またどこでケガするかわからないから」
「じゃあそれもボクが盗んだことにする、頼んだよ」

…と早くも旧知の仲のような約束事を交わしてロイドはにっと笑って見せました。しかしその実ロイドは、本気でニンテンにそれを達成して欲しいなんて期待してはおらず、なんとかその未知の力を持つ小さな怪物から逃げる時間を確保したかっただけなのです。なに、どんなに野生動物相手に互角に戦えるったって、感情のないロボットが相手となれば彼も怯んで工場に近づこうとすらしないだろう、そして後ろめたさゆえにボクのことだって忘れてくれるはず、はず、…はず。ニンテンが勇ましく屋上から姿を消し、そして学校の正門から駆け出していくのを屋上から確認すると、ロイドは何食わぬ顔で理科室に爆薬を返しに行こうとしました。…が。

スイートリトル工場で床を走り回るねずみどもを一掃し、スイートリトルのその名が示すほどに甘ちょろくロケットを手に入れると、ニンテンはティンクル小学校に引き返します。一段飛ばしで階段を駆け上り、屋上に出て…。ところがそこでロイドが青ざめ震えているのを見て、ニンテンはロケットのことなんてすっかり忘れてしまいました。

「どうしたんだい? あれ、ケガしてるね!」
「笑わないでくれ、いじめっこに絡まれたんだ…」
「しまった、ボクが屋上の鍵をかけておかなかったから!」

ニンテンは言いながらロイドの顔に手を添えます。可哀想に、きっと嫌味な連中から強力な横殴りをお見舞いされてしまったのでしょう、ニンテンの大切な親友の頬には大きな青あざができていました。

「感じ悪いヤツ、ボクも会ったよ。君はなんも悪くないのにさ、ロイドのことをいじめてやったってせせら笑ってたよ! …君を笑うだって? とんでもない、だって君はボクの大切な友だちだもの。たとえ全世界敵にまわしたってボクは君の味方さ、さあ、そら治った、もう大丈夫だよ!」
「…君は、一体…」
「言ったろう、マザーズディのニンテン、ごくごく普通の野球少年のニンテンだよ…って言っても信じてもらえなさそうだね。そんならボクがどれだけごくごく普通か今度通信簿みせてやるよ。…だけどこれだけは言わなくちゃ、ボクのひいおじいさんは宇宙の果てを見たことがあるって言われてる。それで頭がおかしくなってしまったともね、余生は超能力の研究に明け暮れていたらしい。とにかくボクには不思議な力が宿っているんだ、人の心を読んだり、一瞬でケガや傷を癒したりするね。ううん、勘違いしないで! ボクはその力を罪のない野生動物たちを懲らしめることには絶対に使わない。…彼らもまた不思議な力に操られている。いや、不気味な力に。それを解いて動物たちを助けるのがボクと…そして君の使命、ボクは動物たちを改心させるためにボクの特殊能力を役立てたいんだ」

どうやらニンテンは救いようがないほどにおめでたい気質であるらしい。そんな素晴らしい力があるのなら、先生の心でも読み取ってテストに答えてしまえばいいのに。宝の持ち腐れとはまさしくこのこと、ニンテンは、自分の能力をその凡庸と言った成績簿を凡庸でなくすることに役立てようとはつゆほども思っておらず、才能には恵まれながら、そのもっとも「効果的」な使用法に辿り着くだけの脳のみそには恵まれていないのです。おそらくはその凡庸な成績が、いかにニンテンを悪知恵から遠ざけているのか証明してくれるのでしょう。そうでないとしたら、仮にニンテンにそれだけの知恵が働く脳のみそがあってかつニンテンがそれを振り絞らないのであれば、スポーツマンの名にふさわしく彼は極めてフェアな人間であること間違いなし。どのみちニンテンの自己紹介は、構え気味であったロイドをどういうわけか脱力させました。

するととたん…。

―女の子が淡い夢の世界で憧れる王子さまは、なにも白馬に乗って光り輝いていなくてもいいと思うの―

ずしんとまたあの言葉が頭をよぎります。通奏低音のように鳴り響くその言葉、すると今度は感覚でしか掴みえない見知らぬ力に自分はがっしり捉われた。出会ったばかりだというのに自分のことを何のためらいもなく「友だち」と呼んだニンテン、彼についていかなくてはならない、彼から逃げてはいけない、そして自分たちは何人もやり遂げることができないであろう使命を全うしなくてはならない、そんな説得力のある、かつはかりしれない力がロイドのあやふやな気持ちを思い切り後押ししたのです。

…ニンテンは動物を救うと言ったけれど、それは片っ端から動物たちの呪縛を解いていくのではない、動物たちを操る不気味な力の持ち主そのひとを改心させることなんだ、ついこの前から街のあちこちで頻発するようになった怪現象、それらを引き起こしている張本人も間違いなく常軌を逸した動物たちを統べる元締めに違いない、だとすれば…。ボクらは怪しげな敵から世界を救う王子さまになるんだ、王子がごくごく普通の野球少年と科学少年で何が悪いというのだろう?! 王子さまはなにも、白馬に乗って光り輝いていなくたっていいんだろ! なにかもう一つか二つ、頭の中に引っかかるものを残しながらロイドはとうとう心を固めました。ところがせっかくその弱虫少年がなけなしの勇気を海綿のようにもみ絞って世界を救う旅に同伴する決意をしたというのに、それを表明しようとした彼の出端は、ニンテンの豪快な話題展開によってすっかりくじかれてしまうことになるのです。

「あっ、そうそうペンシルロケット! 持ってきたよ、これでいいよね!」


inserted by FC2 system