幸福の場所

とある国のとある村。この村ではどの家にも必ず一つは馬小屋があって、人は犬ぐらいの大きさの馬と一緒に暮らしていました。馬たちは、それぞれその家のカラーのスカーフを巻いていました、なにせその村はとても小さな村だったので、スカーフの色をみればその馬がどこの家の出身か一目でわかってしまうのです。

朝早くから手入れ道具を抱えて厩に姿を現した徹さんを、彼の大切な3頭の馬たちは喜んで迎えました。
―陽気なお調子者の栗毛馬ヘルくん、まじめではにかみ屋の栃栗毛ヴァルくん…そして素直で従順な芦毛馬トルくん。いつも以上に熱心にかわいい愛馬たちにブラッシュをかけると、徹さんは馬着を取り出しました。そう、今日は新年祭の日なのです。新年祭というのは年に一度、人馬の絆を再確認する大切な日。各家のご主人は愛馬たちと一緒にお馬の神様が祀られた祠に感謝の言葉を告げに行き、夜にはおいしい料理で愛馬の労をねぎらって、人馬ともに祝福を受けるのが慣わしとなっていました。

この日のためにご主人さまが用意してくれた一張羅の晴れ着を着て、タテガミを飾り紐で結ってもらうと、徹厩舎の馬たちはお馬の神様にお祈りに出発しました。歩きながらヘルは元気いっぱい歌を唄い、ヴァルは愉しそうにヴァイオリンでウィンナーワルツを奏でます。楽器を演奏するのはこの徹厩舎の馬たちの「高尚」な趣味だったのです。ご主人の徹さんは、折しも漆黒の愛馬フライシャーを従えた仲良しの哲郎さんと鉢合わせておしゃべりに夢中。でもご主人さまやヘル、ヴァルが楽しそうにしているのを尻目にトルは黙ったまま気乗りのしない足取りで歩いていました、それは友だちの輪に溶け込めないからではありません、彼はヘルやヴァルにすっかり気兼ねしていたのです。


トルはもともと、徹さんの馬ではありませんでした。徹さんよりずっとずっとお金持ちで、ずっとずっと大きなお邸を構えた地主さんの馬でした。そこには優秀な血統をもつ馬や、並外れた才能を持つ馬がたくさん飼われていました。

―そう、飼われているも同然の状態でした。


朝起きてから夜寝るまでのすべての行動が、朝ごはんが配られる順番に至るまで綿密にシステム化され、そのように細分化された馬たちの生活は厳格な監督者の監視の下で厳重に管理されていました。そして何よりそこで飼われている馬には名前がなく、馬たちは通し番号で呼ばれていました。 とはいえ、その厩舎に生まれ育ったトルはそれが当然と思っていましたから、型にはめられた生活が窮屈に感じたことはありません。それにその厩舎の馬であるというステータスはそれだけで、村中の馬主たちを驚かせました。その厩舎の馬が誇り高々馬車を引いて通りを行けば、道行く人は必ず立ち止まって恭しく頭をさげます。その厩舎の馬が人を乗せて乗馬道を行けば、他のどの対向馬も怖れおののいて道をゆずってくれます。

つまりトルがもといた厩舎は、村きっての「名門厩舎」だったのです。選りすぐりのエリートたちは権力とブランド意識を笠に着て得意になり、威張り散らしてばかりいました。

しかしその名門厩舎には、愛と幸せはほとんどありませんでした。ご主人はお邸にこもったまま顔を見せてもくれず、馬たちの世話はたくさんの馬丁に任されていました、しかし彼らは機械的にあくせく働くばかりで、馬一頭一頭に時間をかけて愛情のシャワーを注ごうなんて一時たりとも考えたことがないようでした。飼い葉だってそうです、毎日毎日「高級」なカラカラの干し草と、苦い化学飼料。それは強壮剤という美名のもと馬たちに配られましたが、トルは何度もそれのせいでお腹をこわしてはお叱りを受けたものでした。


さらにその厩舎にはもっと深刻な問題がありました。朝ごはんを配る順番、仕事内容から厩の大きさにまで及ぶもろもろの待遇は、飼われている馬たちの間に階級というものをもたらしたのです。 すなわち、一番にごはんをもらえる馬、ご主人の乗る馬車を引っ張れる馬、大きな部屋に入れてもらえる馬は馬たちの間で絶対権力を掌握しほかの馬を見下しつけあがる一方で、そんな「君主」に蔑まれた低い階級の馬たちは口を開くことさえ躊躇わなくてはならないほどでした。

さて、トルは血統こそよろしい馬でしたが、生まれつき体が弱くとかく病気がちであった上に、ある日馬車を引いていてうっかりつまずき右前足を痛めてしまってからというものほとんど満足に仕事ができなくなってしまいました。足に爆弾をかかえたその芦毛馬は、もう馬車ひきの仕事や乗用馬の仕事をさせてもらえなくなり、小麦や粘土運びの重労働ばかりを強いられるようになりました。仲間内でもトルは格好の冷笑と非難の注目の的。まして足の不自由な彼が重たい荷物を背にふらふらと歩いている様は、高慢ちきな厩舎仲間の目には嘲笑の対象としか映らないのでした。


そうこうするうち―それは夏の暑い日でしたが―いつものように重荷を背中に食い込ませて雑用をこなしていたトルは、過労と神経衰弱からばったりと道に倒れこんだきり動けなくなってしまいました。

でも哀れな芦毛馬を同厩舎の仲間はかまっちゃくれませんでした。彼と一緒に荷物を運んでいた厩舎仲間は、いよいよトルはくたばってしまったと思いこみ、無残にもトルの首に巻いてあった黄金色のスカーフをもぎ取ると、苦しむトルをその場に置いてきぼりにしたのです。

―そう役に立たなくなった馬は厩から追い出す、残念ながらそれが、トルの元ご主人のポリシーだったのです。

可哀相な芦毛馬を助けたのがたまたまそこを通りかかったヘルとヴァルでした。森に野いちごを摘みに行った帰り、力なく地べたに横たわって背中の重みと太陽の熱にあえいでいる芦毛馬を見つけるがはやいか、その2頭の仲良し馬はとびあがりました。ヘルがかぶっていた麦わら帽子をとってトルの頭にかぶせます。ヴァルが首のスカーフを外してトルの汗を拭ってあげます。見知らぬ馬の姿におびえるトルを、2頭は優しく微笑んで励まし、摘みたての野いちごを食べさせてあげました。いちごを食べて、トルは少しだけ元気を取り戻しました。しかしそれと同時に、彼は自分のスカーフが無くなっていることに気がつきうなだれます。

そんなトルの様子に、ヘルとヴァルははたと顔を見合わせます。そしてそっとうなずき合うと、2頭は声をそろえて提案しました。

「家においでよ!」


ヘルとヴァルについて厩に入ったトルを、小柄の見るからに慈悲深そうな馬丁が迎えました―徹さんです。丸顔に端正な目鼻立ち、低く控え目な胡坐鼻の下には厚く口ひげが蓄えられ、頭にかぶった紺色のフェルト帽からは新雪と見まがうロマンスグレーがふわりとのぞいています。ほんのりと紅潮したふくよかな頬に、ぽっこりした太鼓腹はあたかも福徳の神様のよう。福の神は夏だというのに白の長そでシャツに小粋な茶色のジャケットをはおり、首には使い古してボロボロになったタオルをかけていました。

柔和な口元は喜びでゆがみ、落ち着いた灰色の瞳は黒縁のロイド眼鏡の下から新参者に温かな歓迎の眼差しを注ぎ、そしてその太った熟練馬丁はゆっくりと身をかがめ、わらとおがくずの香りのする小さな手でトルの頭をそっとなでてくれました。

ヘルとヴァルは即座に、おつかいで頼まれた果実をそのよその厩舎の馬にあげてしまったとご主人さまに詫びましたが、その寛大な馬丁は一言も愛馬を責めたりはしませんでした、そればかりか徹さんは2頭を褒めちぎり、そしてトルを厩に招きいれると、できる限りの手当てともてなしをしてくれました。


徹さんはまず疲れ切ったトルの体にブラッシュをかけてくれました。そしてすぐさまその芦毛馬が肉体的にも精神的にもすっかり病んでしまっていることを感じとると、ヘルとヴァルに松葉を集めてくるよう言いました。2頭が枝つきの松葉をたくさん拾って戻ってくると、徹さんは大きな鍋に水を張って松葉を煮出し、トルに温かいお風呂を用意してくれました。森の中にいるようないい香りのお湯がトルの疲れた心身をほぐしていきます。

松の精油成分と香りにはね、と徹さんは鼻歌でも唄うような甘い調子でトルに語りかけます。
「冷え、肩こり、神経痛。リウマチに疲労を解消させる、血行促進作用があるんだよ」
「それと精神安定作用、もね」
馬丁の話にヴァルが付け加えると、徹さんは嬉しそうに目を細めてうなずくのでした。

しかしなるほど松葉の森風呂の効果はてきめんでした、次の日にはトルの体からはすっかり疲れがとれ、トルは今までに感じたことのない最高の気分で目を覚ましたのです。

「僕はさ」
ヘルが押し殺したような声で言いました。
「捨て馬なんだ…牧場にたくさん馬が生まれちまって、平凡な血統の僕にゃあ買い取り手がなかった。僕が金にならないって踏んだ牧場長め、どうするかと思いきや僕を木船にぶちこんで川に流したんだ。運命に翻弄されるってまさにこのことだ、僕は川の水にもてあそばれて、時には雨風に打たれて、またあるときには濁流にのまれたりして、何度も何度も地獄を見たよ。いよいよくたばる日が来たと思ったときに運よく徹さんが木船を見つけてくれてさ、彼、弱り切った僕を抱き上げて『なんてこった、なんてこった』って何度も繰り返したよ。過剰生産でだぶついた競走馬が粗大ゴミか産業廃棄物よろしく扱われてる現状ってのをあの馬丁さんはよく知ってんだ、で、腕の中の哀れな粗大ゴミにすぐ『ヘル』って名前をくれてスカーフを巻いてくれた。ヘルってさ、『聡明な』とか『明るい』って意味なんだぜ。どろっどろの現実に真っ向から対抗する最高の名前なんだよ」


「ぼくは」
とヴァルが落ち着いた声で言います。
「本当なら殺されるところを徹さんに助けてもらったんだ。ぼくは前は馬車ひき専門の馬だったんだけど、不慮の事故で体をひどく痛めてしまって。役に立たなくなったぼくはそのまま市場に売りに出された、でも怪我をしているというので買い取り手がなかなか見つからなくてね。そうこうするうち2人の『ばくろう』がやってきた、一人のばくろうは馬取引の仲買人で、ぼくを知り合いの肉屋に売ろうと言ってきた、それもかなり不当な値段でね、そうしたらもう一人のばくろうが首を振って言ったんだ、『ボクは馬たちを助けるために働いているんだ、彼らを殺すためじゃない』。 この彼の言葉は今でも耳に残ってる、そう、もう一人のばくろうは名伯楽の徹さんだったんだ。 徹さんは有り金はたいて怪我したぼくを肉屋行きから救ってくれた、そしてぼくに『ヴァル』って名前をつけてスカーフを巻いてくれた、ヴァルはね、『戦士』とか『戦場』って意味なんだ。馬取引の闇の戦場で戦いぬいた戦士なんだ、ぼくは」


ヘルとヴァルから2頭の辛い過去を聞かされたトルはとうとう心を決めました。彼が自分の身の上を明かし、自分には行くあてがもはやないのだということを打ち明けると、一呼吸置いてヘルが「大切なのは権力とか地位じゃないんだ、どれだけその馬がその厩舎にいて幸せだなって感じられるか、それなんだぜ」と力説しました。けれども栗毛馬のその言葉はトルだけでなく、ヴァルにもそして徹さんにも向けられているようでした。愛馬から思いがけず深い重みを持った提言を課された徹馬丁はこそばゆそうに苦笑し、重く甘い嗄れ声で付け足します。

「そしてヘルや、ボクにはこの優秀な芦毛馬を幸せにする力があると、そう言うのかね?」

温厚で控え目な馬丁の言葉に多言は無用でした、翌朝には徹さんは芦毛馬に『優秀な』とか『すばらしい』という意味の『トル』という名前をつけ、その首に淡い青紫色のスカーフを巻いてくれました。最後にヴァルが白銀に輝くユーフォニアムを取り出し、その金管楽器特有の耳に心地よく胸に沁み入る音色で柔らかな喜びの曲をトルにプレゼント! こうしてトルは正式に徹厩舎の一員に迎えられ、それを厩舎の誰もが心から喜び歓迎したのです。


村外れに小さな木造一軒家を構え農業を営む徹厩舎に、村中の人を震撼させる「名門」の肩書なんてありませんでした。だからそこにはエリート意識や、機械的に定められた規則や馬同士のヒエラルキーも微塵もなくて、あまり余るほどの楽しい時間と、友情と、そして愛情と幸せがありました。

高級な飼い葉や化学飼料の強壮剤の代わりに、刈りたてのみずみずしい青草と紫うまごやし、ヘル曰く徹さん秘蔵のぬか粥が―運がいい日にはエンドウ豆やにんじん入りで―毎日飼い葉おけに注がれました。

まだ外が暗いうちから徹さんは厩にやってきて、たっぷり時間をかけてトルたちにブラッシュをかけ―トルは少しもしないうちにその順番が「早い者勝ち」であり「割り込み」も可能であることを知りました。でものんびり屋の寝坊常習犯ヴァルはいつも寝過ごし、粋な性格のヘルはいつもトルに優先権をゆずってくれて、ブラッシュの順番はいつの間にやらおのずと決まってしまったのですが―、そうしている間中も徹さんはずっと馬たちに話しかけたり、鼻歌を歌ったり、独り言を言ったりと愉快そうにしていました。

ブラッシュと朝ごはんが終わるとお仕事の時間です。ヘルとヴァルは背中にかごをのせて森へ果実を摘みに行ったり、村へ野菜を売りに行ったりしました。荷物を運ぶ2頭の姿に、トルは今までの辛い雑用を思い出しビクビクしたものです、しかし徹さんはトルが生まれつき体が弱くてかつ前足を痛めていることをちゃんと知っていました、それに彼はそれを一言も咎めたりはしませんでした。 彼はトルをご自慢の畑に連れて行くと、にっこり笑って畑中を指さしうなずきます。トルは、畑専属の草むしり係に任命されたのです。

お日さまが空高く昇るころにはヘルとヴァルもお仕事を終えて戻ってきます。やることのなくなった3頭は、何の気兼ねなく厩の周りで日向ぼっこをしたり、ふざけあったりして遊ぶことができました。そして一日が終わると一同は徹さんも交えて厩に会し、楽器を弾いたり歌を唄ったりして享楽にふけったものです。


トルが畑の草むしりを任されたのには徹さんのある思惑がありました。畑が職場のトルと徹さんは、仕事中思う存分おしゃべりをしました。徹さんの畑にはトルが今まで見たこともないような野菜がたくさん植わっていて、それについて徹さんはなんでも詳しく教えてくれたのです。今まで窮屈な厩に閉じ込められ外の世界をほとんど知らなかったトルは、徹さんの畑からいろいろなことを学びました、それに徹さんは本当に愉快な先生だったのです。


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