おとなの憧憬

霧ともやのかかった桃色の国。海の上に浮かんでいるかのような柔らかく感覚のない足元。どこまでもつづく薄桃の波はかぐわしい香りを伴って一面に広がり、美しくそして清らかでした。国の真ん中には紺碧の大きな河が流れていました。あたかも自らが意志を持ってほとばしる自然の奔流、黄金色の光を噴水のように天高く吹き上げ、川は勢いを増し、やがて底のない漆黒の滝つぼに呑まれていきました。

一頭の、小さな馬が川の輝きからとびあがり、桃色の大地におりたちました。子馬は体中に怪我をしてひどく衰弱しているようでした。震える足で疲れた体をようやく支え、どろんとしたうつろな目で、見たことのない幻想の世界を眺め当惑しているようでした。
『お前さんは影を持っていないのだね』
不意にリンと澄んだ水銀の声がしました。目の覚める白銀の馬、足の曲がった競走馬がそこに佇んでいました。桃色の光の中でその馬の体は銀色に輝き、隆々とした筋肉がまばゆいばかりのつややかな光を放って波打ちました。その白馬の胸には粗末な紫色のスカーフが巻かれていました。

『それにお主はまだ若い。いかにしてこの国に流れ着いたのかな?』
同時に地の底から湧きおこるような低い威厳に満ちたしわがれ声がしました。黒炭のように真っ黒の馬、胸に深く棒を突き刺した馬車ひき馬がそこに佇んでいました。年老いて半分閉じかけた濃紺の瞳から、温かな天使の眼差しがか弱い子馬に注がれます。その老馬の胸には粗末な紫色のスカーフが巻かれていました。

『しるもんか、ニンゲンたちはあたしをやくたたずってののしって、ムチでぶつんだから。そいで、きづいたらここにいた』
『それは可哀相に…』白銀の馬が慈悲に満ちた声で言いました。『ここは地上に未練を残したまま天にのぼることができずに行き場を失ったさまよえる魂が集まる国。お前さんは地上で影を失ってしまったんだね、きっとこの国で影を取り戻したらお前さんはまた地上に戻ることができるだろうに』
『ムチでうたれるくらいなら』子馬はじだんだを踏みました。『あんなせかい、かえりたくないやい!』
『ニンゲンにもいろいろ種類があっての、お主を幸せにしてくれるニンゲンにお主は出会えずにここにきてしまったのじゃろう』
黒馬も悲しそうに目を潤ませ、諭すような口調で言いました。太く低い嗄れ声、酸いも甘いも噛み分ける重たい声は、その子馬の胸の内をするどく貫き、そしてやんわりといたわります。子馬はじっと黙って、そして声を震わせました。

『たったひとり、ムチでうちすえられているあたしをたすけようとしたニンゲンがいた。としよりで、ちびで、こんなにもこえてやがるんだ。たいてい、ふとったニンゲンなんて、あたしをなぐることぐらいしかあたまにないれんじゅうなのよ! だけど…だけど。かれはあたしのまえにたって、やめてくれ、やめておくれってさけんだ、きっついだみごえできけたもんじゃないや。…でもあんなにやさしくてきよらかなこえはうまれてはじめてだった。あたしは、そいで、そいで、そう、たすかったっておもったんだ…たすかったっておもって、きづいたらここに…』

黒馬のまぶたが持ち上がります。子馬の言葉に深い感銘を受けたように黒馬はしわだらけの唇を震わせ、ああ! と甘い声をもらしました。
『そのニンゲンこそまさにわしの最愛のご主人さまじゃ。そしてこっちにいる芦毛馬の古き友人でもある』
白銀の馬も目を輝かせ、あのちいさなご主人さま! と感激の言葉を吐きます。黒馬はさようと大きくうなずき、子馬に向き直りました。
『わしらは、彼を無実の罪で縛りつけ、それをほどいてやることもできぬままにこの国に来てしもうた。あの罪なきご主人さまの懺悔の言葉が毎日のようにこの国まで聞こえるのじゃが、そのたびにわしらの胸はかきむしられる』
『お前さんに私たちの影を託します。どうかご立派に務めを果たして下さい。彼に会って、こう言ってあげてください。あなたの誇り高き愛馬、アッシュとイカルスはもうとっくにあなたを赦しています、だからもう苦しむのはお止めになって、今はあなたとあなたの大切な愛馬たちのために、精一杯生きてください、と!』

子馬は強い振動で川に投げとばされ滝つぼまで流されます。底のない漆黒の闇がぱっくりと貪欲な口を開いて迫ります。そのとたん涼しい風と青白い光が体をつつみ、子馬の胸から雑念を拭い去ると、新しいさわやかな風で空になった子馬の心をいっぱいにしました。子馬が気がつくと、そこは暗い洞窟の底の澄んだ泉のほとりの、柔らかい草の上でした。

静寂だけがあたりを支配していました。泉はこんこんと湧きあがり、色とりどりに輝いていました。火花のような光がちかちかと洞窟の天井高く吹き上げられ、母の懐に抱かれたような安らぎと夢のような得体の知れぬ偉大な力を感じます。子馬はそっと、その冷たい水に口をつけ喉をうるおしました。清水が喉を走ると、天使の息吹が注ぎ込まれたように子馬は芯から元気を取り戻し、生き返ったような気持ちになりました。

泉はなお、激しい憧憬をもって子馬を誘います。投身したいという気持ちに逆らうことができなくなり、子馬は泉に飛び込みます。さわやかな水の流れはこの上なく甘く柔らかで、愛する者の優しい腕のように小さな体にまといつきやんわりと消えてゆきます。子馬は恍惚とした感覚にうっとりとし、それでも無心に水をかいて進みます。一つのおぼろげな幻影が自分をじっとみつめているのを感じます。影の周りには色とりどりの花が咲いていて、かぐわしい香りが大気を満たしています。いまにも消えてしまいそうなその影は、言いようのない優しさで自分を見つめ、その深い眼光に子馬の甘美な驚きが最高潮まで高められます。漆黒の闇に強い光が差し込み、まるであたり一面が至福の境地に一変したかと思ったとたん。


トルたちは徹さんの足音に目を覚ましました。気がつけばもう馬小屋は朝の太陽の黄金色の輝きで染まっていました。けれどもトルたちはあまりに恍惚とした気持ちに包まれていたので、眠りを妨げられたことになんの不満も感じませんでした。そして杖をつき、片足をひきずりながらも、いつものようにトルたちにブラシをかけようと馬小屋に入ってきた徹さんに最高のおはようを言いました。

徹さんはもはや昨夜のように取り乱してはいませんでした。しかし足の傷はまだかなり傷むようで、重たい腰をぐったりと馬屋の藁の上におろすと彼は苦しそうに顔をしかめ、そして愛馬たちの手前、申し訳なさそうにはにかむと、トルたちの頭をかわるがわるなでて、しんみり湿った声で言いました。
「すまないねぇ、ボクの可愛い馬たちや。でもどうかもうしばらく、ボクをそっとしておいておくれ。ボクのこのダメになった片足はどうやら一向にご主人の命令をきく余裕がないようだし、そもそも夕べの苦しみから、ボクはまだ抜け出せずにいるんだ」
「ごもっともですとも、徹さん!」ヴァルが目をキラキラと輝かせます。「畑仕事は全部ぼくがやりますから! 今日はゆっくりお休みください!」
ヴァルや…徹さんの灰色の目が見開かれます。トルもヘルもうんうんとうなずき、徹さんの包帯の巻かれた片足をいたわります。
「お前たち…」
抗しがたい感情に唇を痙攣させ徹さんは息を詰まらせます。無垢の愛馬たちに言い寄られてはさすがの徹さんもひとたまりもありません。彼は厚い口髭の下で感謝の頬笑みを浮かべヴァルの頭を再度よしよししました。
「それじゃあ、お前たちの言葉に甘えさせていただくよ。―まったく、この不躾な片足の傷に、従順なお前たちの蹄の垢を煎じて塗りつけてやりたいぐらいだヨ!」
こんな時にもちゃっかり冗談を忘れない徹さんに、馬たちは心底ほっとしてハハっと声を立てて笑いました。

ヴァルが畑に水をまいている間にヘルはこっそり小豆ともち米を台所に運び込みます。トルはヘルが言ったとおり桃色のリボンをあしらったかごを持って森へ向かいます。森の入口に小さな花畑があって、白くてちいさいお花やタンポポがたくさん咲いているのを彼はよく知っていたのです。トルがお花をつんでいると、聞き覚えのある声がしました。

「やあ、トルくんじゃありませんか!」
「哲郎さま!」
絹のような柔らかさでトルがにっこりほほ笑むと、哲郎さんも恥ずかしそうに笑って芦毛馬の傍にしゃがみました。
「可愛いですね、その白いお花…」
「あのね、今日、徹さまのお誕生日なの!」
トルは得意げに哲郎さんの言葉を遮ります。
「だからこの白いお花をプレゼントするんだ、ヴァルは畑のお仕事を手伝ってて、ヘルはいま甘い大福もちを作ってるところ!」
大きく見開かれた哲郎さんの目が次第に細くなっていきます。気の置けない親友の、子どものように天真爛漫な愛馬たち。トルのかごの中で、貨幣の尺度では測れぬこの上なく高価なプレゼントが清純な輝きを湛えています。

―大きくなってしまった私にはもはやこの子のたちの心根は残っていませんね―さびしく笑って哲郎さんは深呼吸します。―そればかりか私は不覚にも今日が徹さんの誕生日ということすら忘れてしまっていた―
白い花は哲郎さんの心をじんわりとほぐしていきます。ずっとずっと昔に忘れ失ってしまっていた何かが、ふわりと胸の内に舞い降ります。厚く重い覆いがはがされ、素直な気持ちに立ち返った時、目の前の全てがまったく微笑ましく、そして美しく見えました。
「私にも、お手伝いさせてください」
ありがとう、哲郎さま! トルの純真な言葉が痛いぐらいに胸に沁みます。哲郎さんは今まで感じたことのない満ち足りた甘い感情にうっとりとしながらトルにならってタンポポをたくさんつんでかごのなかに添えました。
「黄色いお花は縁起がいいのだそうですよ、私のおばあちゃんが、昔そう言っていましたっけ」
「ふうん、そうなんだ! 徹さまにも教えてあげよっと!」
仲睦まじい人馬の会話がはずみます。花をつみながら、トルは夕べみた不思議な夢の話をしました。哲郎さんはそれに熱心に聞き入ってくれました。
「あれは夢…だったのかな? ―ボクには夢じゃなくって、もっともっとすごい何かのような気がするんだ。哲郎さまはどう?」
哲郎さんは黙ったままトルを見つめます。まさか…。白い光の宿った瞳が震えます。穏やかだった心中が突然熱く燃えだします。息が詰まるのを感じて彼は小さく咳きこみ、体を起こしました。

「今晩ね、きっと徹さまのために小さなコンサートを開くよ、哲郎さまもよかったら聞きに来て」
白と黄色の花でいっぱいになったかごを首にかけてトルはにっこり笑いました。ありがとう、ぜひお邪魔しますよ、やっとのことで乱れる心を落ち着かせ哲郎さんは声を絞り出します。けれどもその黒い瞳はなにかとてつもなく大きなものを見ているかのようでした。

トルのかごに、ヘルの作った大福もちをつめます。白いお花にうもれた白いおもち。ちょっと失敗だったな、ヘルがにんまりしました。大福もちは一つ一つの形こそちぐはぐでしたが、みるからにおいしそう、ゴクンとつばを飲み込んでトルは、徹さま絶対喜ぶよ! とうらやましそうな声で言いました。そこへ畑仕事がひと段落したヴァルもやってきます。徹さんは居間で休んでいるよ、栃栗毛は言って大きく伸びをしました。
「そっちの準備も完璧のようだね!」


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