おとなの憧憬

太陽は西に傾き、紫色の雲が空を覆っていました。徹さんは重々しく瞼を閉じて瞑想的にブラックコーヒーをすすります。

それにしても―はたしてあの不幸な怒りのうちに、一頭の子馬をムチで追いまわすことに果たしてどれだけの価値があるとでもいうのか、それをしたとて誰も報われるわけでない、そればかりか感謝の言葉さえもかけてもらえないというのに。

子馬をムチで追いまわしながら、その実本当にむしばんでいるのは己の良心と肉体であることに、誰一人として気づくものはいない。自分たちの引き裂かれた胸の叫びには耳を傾けないで、子馬が自分たちの思い通りに動かないと思い込むあまり、彼らのムチは大声でむせび泣くのだ。

この長い人生の中で見聞きし、そして書物を通じて知った遠い歴史のなかでも、このような値打ちのない失態は幾度となく繰り返されてきた、そうしたことが起こる理由をとめどなく探してきたが、結局のところそれは虚しい迷いと偽りに常軌を逸した猛々しい怒りの結露としか言いようのないのだ。

さあ夕べ、一人の老いさらばえた百姓馬丁め、ある不幸を妨げようと一体なにをしでかした? 知らず知らずのうちに迷いの手綱を繰ったのは誰だったのだろう、広場で男も馬主もその子供までもが、一頭のけがれなき魂をいやというほどいたぶっていた。

一時迷いと偽りの囚人となり常軌を逸すれば、吹きすさぶ感情の嵐を鎮めるために、罪なき命を代償に、怒りの拳を振りおろすしかないのだ。

そこで年老いたその馬丁は、あの小さく哀れな魂が、逆上した人々の怒りの犠牲となってはならぬと迷いと偽りの網にとびこんだ。その結果、犠牲になったのはお前のその何の値打もない片足だ。

よかろう、迷いの網に足を取られた無様な百姓馬丁よ。それでよかろう。たといどれだけ高尚な仕事であっても、仮に迷いの網の中で愚行を犯さなくてはまず成功はおぼつかぬというのであれば、お前の果たした役割も人並みではなかろう。

さあ、愚かな馬丁よ、お前はもうびっこ引き引き厩舎に引き返し心に決めるのだ、おとなしくこの愚弄の結末を見届けることにしよう、と! …


「徹さま!」
「お誕生日おめでとうございます!」

安楽椅子に腰かけコーヒーを飲みながら思案にふけっていた徹さんは、あまりに突拍子もない祝福の言葉にとびあがり、コーヒーカップをひっくりかえしてしまいました。

「徹さん」
ヴァルがもじもじしながら頬を赤らめます。
「今日、徹さんのお誕生日でしたよね。…えっと、そら、このかごはさしあげます! リボンもほかのなんだって、そうだ、ほら徹さん、みごとなお菓子でしょう? お花の香りも、ひとつためしてみませんか?」

ララソッ ファファミッ レレドレドレドー! 

とたんにトルとヘルが軽快にヴァイオリンとビオラをかき鳴らします。
「ヴァルや…それにお前たち!」
太ったお腹を抱えて徹さんは笑いだしてしまいました。

『マイスタージンガー』の第三幕の第一場、靴屋の親方ハンス・ザックスの「命名日」に親方にかご盛のケーキをすすめる徒弟ダーヴィッドの台詞をもじった、あどけないヴァルたちの演出は、馬たちの予想以上に徹さんのツボを直撃しました。大役を終えたヴァルはほっとします。トルがかごを徹さんに渡します。花の純白の香りをひとしきり楽しんでから、徹さんは花にうもれた大福もちを発見しました。ふくよかな頬が見る間にばら色に染まります。おいしそうに喉を鳴らして徹さんはヘルの手作り大福を味わい、満足そうに目を細めました。
「この最高においしい大福はいったいぜんたいどこで仕入れてきたのかね?」
「仕入れるもなんも」ヘルが口をとがらせます。「僕が作ったんです!」

徹さんが言いようのない感動に顔をゆがめたとき、来客がありました。トルが迎えに行きます、思った通り、フライシャーを従えた哲郎さんでした。華奢な肉屋の腕にはワインボトルが抱かれています。
「徹さん、この歳でなんですが、…おめでとうございます! トルくんから聞きましてね」
いやいや、ありがとう! 杖を抱えて体を起こし、徹さんは温かく親友を迎えます。哲郎さんの手からワインボトルを受け取ると、太った馬丁の眼の色が変わりました。
「シャトー・ラフィット・ロートシルト…」
「今日ばっかしはいつもの安物ボルドーではいけないと思いましてね、20年近く丁重に封印していた逸品ですよ」
驚愕のあまりに徹さんが呻くと哲郎さんも肩をすくめます。2人を見ながらヴァルがフライシャーをつっつきます。
「あんな高級ワイン、いったい哲郎さんのどこからどうやってわくんだい?!」
「悪いな、それだけは極秘事項だ」
ふふっときざな笑いを浮かべフライシャーは大変お上品にブラックジョークを吐くと向き直り、改めて恭しく徹さんにおめでとうを言いました。


トルがつんだ花をテーブルに飾り、ヘルの大福を食べながら、徹さんと哲郎さんは高級ワインをすすめます。女性的で複雑な絶妙な味わいをもつことで知られるラフィットにしては、素直でトゲトゲした味わいだった哲郎さんのワイン、それが次第に空気に触れ奥深く絶妙な味わいを醸し出したさなか、馬たちが楽器をもってキッチンにあらわれました。楽しみにしていましたよ、ほろ酔い気分の2人が拍手をすると馬たちはしゃちほこばってお辞儀し、そして楽器を構えました。

「今晩の題目は」とヴァルが口上を読みあげます。「神童といわれたヴォルフガング、アマデウス、モーツアルトの、『フィガロの結婚』と『ドン・ジョバンニ』と『魔法の笛』です!」
ヴァルがあたかもこの世にヴォルフガングとアマデウスとモーツァルトの3人の神童がいるかのように読みあげたのでそれだけで徹さんと哲郎さんは微笑ましくなってしまいました。
「三本立てとはまた長い夜になりそうだねぇ!」
「ヒロインはどうするのでしょうね?」
「知らないのかい? 世の中には全員男でやっている演劇集団もあるぐらいですよ」
「いやしかし、いくらなんでもオペラでそれは無理でしょう!」

ところどころつまづきながらも、さわやかに『フィガロの結婚』の序曲が終わるととたんにトルが唄い出しました。  

ヴぉい けさ ぺーて ケ こーざ ぇ アモール!
 (恋とはどんなものか 知っているあなたがた!)


ああ、罪なきトルの歌声よ、ことにそれだけで純愛の美しさがぽわんとはじけ散るような「アモール」のうっとりとした発音に、哲郎さんはすんでのところで口の中のワインを噴き出してしまうところでした。そのとたんフライシャーが出てきて、『フィガロはスザンナと婚約中だが、他に以前、彼と誓約を結んだ女がいる。彼女はフィガロとよりを戻そうとするが、そうこうするうちに自分はフィガロの母親であるというあるまじき事実が発覚し、フィガロとスザンナの結婚を祝福する』と、あの鬼才指揮者が満を持してまじめにタクトをとること全体で200分近くかかるその複雑極まりないオペラをものの20秒ほどでばっさり単純化すると、芝居はあっという間に第4幕にとび、ヴァルが憤然とフィガロの「準備はできた」から始まる女には気をつけろのアリアを力強く歌って聞かせると、ヘルはヘルでバジリオの《知恵のアリア》「常にロバを羽織っていれば、常にバカを羽織っていれば万事うまくいくのだ」と抒情たっぷりに歌い上げます。

負けじとフライシャー、分厚い本を取り出し―哲郎さんを蹄で差しながら―《恋のカタログ》の歌を歌ったとたんに、さっきまでいかり肩だったヴァルが《恋人がいてくれりゃ》と嘆きます。

ボーイソプラノのトルが無理やりパパゲーナとなってヴァルと《パパパ》のアリアを歌って踊ると雷鳴がとどろき、最後にみんなで『魔法の笛』のフィナーレを歌い合わせてカーテンコール。

そう、ヴァルの口上には、「リサイタル」の一言が欠けてしまっていたようです。そのことに徹さんと哲郎さんは気がついて、ふふっと可愛らしい笑みを浮かべ、それにしても珍しいし素晴らしい選曲だったと大満足の様子。

フモールに満ちたリサイタルはアンコールに移ります。その時、諧謔をぬぐい去った敬虔なメロディが馬たちの手元から紡ぎだされました。フライシャーの沁みいるようなグロッケンシュピール。続いてトル、ヘル、ヴァルの滑らかな寂寥感をまとった弦楽器がむせび泣きます。

独特の音色が世に無二の音楽を紡ぎだします。崇高でか細いその旋律が神々しく徹さんと哲郎さんを取り囲みます。言いようのないはかないメロディに数々の筆舌尽くしがたい空虚なモチーフ! そして天の極みまで高揚した不協和が、ヴァルの繊細なヴァイオリンの最高音で解決されようとした…その時!

とつぜん窓の外がまばゆいばかりに輝きだしました。何事かと哲郎さんが様子を見に行きます。杖を抱えて徹さんも続きます、そして4頭の馬たちも…。


それはこの世のものとは思われない光景でした。

雲の隙間から絹のような白い光が注ぎ、そこから1羽の純白のハトが舞い降ります。ハトは金色の羽ばたきをまとって1頭の子馬の頭上へ一直線に降りていきました。子馬は軽やかな足取りで、黄金の輝きの中をこちらへ向かって駆けてきます。徹さんも、哲郎さんも、言葉を失ったまま立ちすくみます。

―ああ、あのポニーが! あのまだらの、愛くるしいポニーが!

がっくりとその場に崩れてしまった徹さんを哲郎さんが支えます。ポニーは一心不乱に徹さんの胸めがけて突進します。子馬を抱きしめ、徹さんはそっと喉を鳴らし甘い声を出しました。灰色の瞳が涙でうるみ、子どものようなあどけない喜びを映します。哲郎さんがひどく上ずった声で言います。
「これはきっと、天国のアッシュやイカルスからの贈り物ですよ!」

「とおるさん」ポニーはキンキン声でいいました。「あなたにことづてがあるの」

―あなたの誇り高き愛馬、アッシュとイカルスはもうとっくにあなたをお赦しになられている―

トルたちには分かっていました、そのポニーが夕べ夢にでてきたあの子馬で、そしてその愛くるしい子馬が、まちがいなく白銀のアッシュと漆黒のイカルスからのプレゼントであることも! 貴い救済の言葉に深い感謝の気持ちで首を垂れる徹さん、徹さんの腕の中でポニーはうっとりと、安らかな笑みを浮かべました。

「モーツァルトと同じ、お前は神童と呼ぶにふさわしいだろうねぇ…でもどうもしっくりこないな」
徹さんはやさしくポニーの頭をなでます。
「アモール…いや、アモレット!」

汚れなき愛の童子!

愛からまったく見放されていた子馬に、徹さんは最高の名前を与えいたずらっぽく微笑みました。トルもヘルもヴァルも大喜び、楽器を構えて愉しい歓迎の曲を奏でます。哲郎さんもフライシャーも、この夢のような奇蹟を温かく受け入れ、至福の笑みを浮かべます。アモレットは徹さんの腕から逃れ、嬉々として絹の光の中で踊りだしました。

その、まだらの愛くるしいポニーの足元には黒々とした影が、しっかりと映って見えるのでした。

文芸サークルに寄稿した作品改訂版です。大学の交響楽団のコンサート(同立交歓演奏会)(演目:ブラームスの交響曲第2番と4番にワーグナーの『マイスタージンガー』の《前奏曲》)を聴きに行ったときに、ふと『マイスタージンガー』のハンス・ザックスが騎士ヴァルターの才能を開花させ歌合戦で優勝に導くように、徹さんが一頭の哀れな馬を救い出すお話を書こうと思い立ち、このお話が生まれましたです。そして当時myブームだった『影のない女』も絡めてあります…。
アモレットがこのあとどうなるのか…それは読者の皆さまのご想像にお任せいたしますです。


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